2014年10月24日

いつか木になれるその日まで

きはなんにもいわないのきはなんにもいわないの
片山 健

復刊ドットコム 2014-09-19

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我が息子はいわゆる脳内ダダ漏れタイプの人間である。
彼は、目に入るものやその場の思いつきの全てを即、
言葉にせずにはいられないらしく、
朝から晩まで、こっちが聴いているかどうかはお構いなしに
一人で延々とマイペースにしゃべり続ける。
あまりにも煩いので、今までに何度も
「あのさー、ちょっと集中したいから黙っててくれない?
じゃあ、君がどれぐらい黙っていられるか、計ってみようか?
と言って目の前でタイマーをオンにしてみたことがあるのだが、
なんと2分と黙っていられないのであった(笑)

どちらかというと静寂を愛する私や娘にとって、そんな息子の存在は、
消したくても消せないつけっぱなしのラジオみたいなもので、
彼が合宿等で長期不在ともなると、
家の中の静けさに思わず顔を見合わせて
「ああ、静かでいいねぇ・・・」とうっとりしてしまうほどだ。

そんな息子が中学生になって半年が過ぎた。
先輩ママさんたちの話では、
男の子は中学生にもなればだんだん家では無口になり、
親ともロクに口をきかなくなるとのことだった。
私はそれを聞いた時から息子の激シブ進化を心待ちにしていたのだが、
なぜか一向に、奴が無口になる気配がない。
相変わらず、食ってるときと寝てる時以外、ラジオは常時つけっぱなしだ。
どういうことだ!?

とは言え。
息子に言わせれば、私の方こそうるさい母親に違いない。
それこそ、もう中学生になったと言うのに。

あああ。だって、どうして黙っていられようか?!

宿題、終わったの?
弁当箱、出した?
汗だくのユニフォーム、またどこかに入れっぱなしじゃないの?
脱いだ服は置き場はそこじゃないよ!
ゴミはゴミ箱あたりに捨てるんじゃ無くて、中に捨ててくれない?
歯、磨いた?え?じゃあなんで口の周りに色々ついてんの?
学校から○○が配布されてるはずなんだけど・・?
定期テストまであと○日なんだけど、知ってた?
・・・

ええ、ええ、そりゃあ煩いでしょうよ。
でもでも、これでも、極力何も言わないよう、
あるいは要らぬ非難を言葉に含めないようにと、
母は日々努力をしているのだ。
君にはそうは見えないだろうが。

そんなわけで、今日の絵本は
私にとっては、永遠に叶わない憧れであり、
羨ましくももどかしい、
絵本だからこそありえるような、
理想の親子関係が描かれている作品だ。

主人公のすーくんは、父親と遊びにきた公園で、無邪気に乞う。

「ねえ おとうさん きに なって。」

そして言われた通り、父親はその場で息子のために「木になる」のだった。
木になったおとうさんは、すーくんがなかなか木に登れなくても、
何を見ても何を問いかけても何に驚いても何を懇願しても、
決してなにもしない、なにもいわない。
だって、

(きは なんにも いわないの)

だから。

木になったおとうさんは、
手も出さない、口も出さない。ただそこにいるだけ。
それでもすーくんは、そんなもの言わぬ父親の、
渾身のサポートを全身で受け止めている。
そのままの自分を受け止め、信頼して黙って見守ってくれること。
それは、幼い少年をどんなに勇気づけることだろう。
だからすーくんは、のびのびと五感を解放し、
試行錯誤を繰り返しながら一人で目的を達成してみせる。

かぜが ふいて います。
そよそよ そよそよ。


ああなんて、夢のように美しい親子像だろう。

嗚呼、できることなら私も、木になりたかった。
いや、今からだって、なれるものならなりたい。
この父親のように、
何も言わずに、母なる大地のように、
あるいは泰然とたたずむ巨木のように、
ただただ慈愛と寛容の権化となり我が子を見守っていられたら・・・

無理。

残念ながら、子どもを育てる、あるいは共に暮らすことの現実は、
この絵本のように長閑で優雅なものではない。
少なくとも、私の場合はそうだった。
それこそ、毎日が待った無しのエキサイティングな攻防戦であり、
だからこそ、やりがいもあり面白くもあり、時に投げ出したくもなった。

でも、もしかしたら、こんなやり方も出来たのかもしれない。
或いは、いつか親も子も成長すれば、
こんな風に穏やかな日常が、我が家にも訪れるのかもしれない。

シビアな現実の子育てにお疲れのお父さんお母さんが、
この絵本に描かれた夢の世界を想像して、
遠い目になって、ちょっと一息つけたらいいと思う。
子どもが生きるのにファンタジーが必要なように、
大人にだって、いや大人にこそ、
時にはこんな極上のファンタジーに浸って
心を遊ばせる時間が必要に違いないのだから。

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2014年09月25日

死に至る幸福感

きつねのおきゃくさま (創作えほん)きつねのおきゃくさま (創作えほん)
あまん きみこ 二俣 英五郎

サンリード 1984-08-20

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絵本に出て来る擬人化された動物たちの多くは、
自然界のセオリーを無視した行動をとる。
年少向けの絵本では、あっけらかんと
肉食動物が本来獲物であるはずの小動物と仲良く暮らす様子が描かれる。
それが、だんだんと対象年齢が上がり、作品の内容が複雑化するにつれ、
「この物語はフィクションです。」の免罪符のもとに、
あえてその生物学上のタブーを逆手にとったドラマが好んで描かれる。
捕食者と被食者が奇跡の友情を育んだり、
たまさかの疑似家族、果ては禁断の疑似恋愛・・なんでもござれだ。

それがぱっと見には絵的に無理が無いように見えてしまうのは
所謂擬人化マジックのなせる技なのだろうが、
私はむしろ、人間こそがこういった弱肉強食のルールには
シビアな生き物だと思っている所為か、
基本的にこのあざとさに生理的な気持ち悪さを感じてしまう。
この件については
過去のエントリー
で散々述べたので詳細は割愛するが、
これら自然界の法則をガン無視もしくは妄用する絵本の中にも
なぜか私が妙に気に入ってしまう作品があり、
今日はその一冊を紹介しようと思う。


今日の絵本、「きつねのおきゃくさま」は
小学校低学年向けの国語の教科書にも採り上げられる、
いわばお上のお墨付きの日本の名作童話である。
時間の無い人の為にそのストーリーを雑に説明すると

「獲物にするはずの小動物におだてられていい気になったキツネが
調子に乗って彼らを守る為に狼と闘って死んでしまい、
残された者達が墓に手を合わせ涙を流す」


という素晴らしく分かり易い悲劇である。

まさに正当派御涙頂戴物語ともいえそうなこの作品に、
私としたことが、まんまと一読で号泣させられてしまった。
なんだか悔しくなってその理由を探ろうと
険しい顔で最初から順番にページをめくり直していくと、
とあるページであっけなく私の涙腺は再び決壊した。

そのばん。
きつねは、はずかしそうに わらって しんだ。


・・・・・

カ、カッコつけたまま死んでんじゃねーよ!

ううう、こんなお約束展開にまんまと泣かされるなんて。
バカヤロー、おまえのせいだー!!

しかしここで私は、気付いたのである。
私がこの作品に心を鷲掴みされた理由を。

この物語は、決して、ファンタジーの世界にしかいない
現実離れした心優しいきつねの物語ではない。
むしろこのきつねは、私やあなたと同様、
弱くてずるくて自信の無い、器の小さい奴だ。
そいつが、恐らく生まれて初めて、
赤の他人に手放しで褒められ、
無条件に信頼され、
その思いがけない快感にハマってしまったのだ。

それまでの半生で散々周囲に疎まれ嫌われて
孤独に生きて来た彼にとって、
それはきっと、普通の食事で食欲を満たす以上の
麻薬並みに中毒性のある快感だったのだろう。
そして、その快感の絶頂で、彼は死んだ。
遠のく意識の中、身体中の痛みを遥かに超える
エンドルフィンの多幸感に包まれながら、
依存性の高い麻薬に負けて、
ついには本能まで差し出した
愚かな自分に恥じ入りながら・・。

とまあ、相変わらず個人的な経験に基づく
妄想の色眼鏡越しにこの作品を鑑賞してしまった私は
ただただ、どうしようもなく、
この馬鹿丸出しのきつねが愛おしく思えたのだった。

でもって、こんなことをドヤ顔で書いちゃってる
自分が猛烈に恥ずかしくなってきたので
今日のブログはこれにて終わりっ。
とっぴんぱらりの ぷう。

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2014年08月27日

天性のジゴロ

How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen (Captain Najork 1)How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen
Russell Hoban Quentin Blake

Walker Books Ltd 2014-04-03

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残念ながらこの絵本の日本語版は現在のところ絶版のようです。
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
(ラッセル・ホーバン文 クェンティン・ブレイク絵)
よろしければこちらから是非、復刊リクエストにご投票を!




「ただしイケメンに限る」というフレーズが如実に表すように、
外見さえ良ければあらゆるハンデは免除されると思われ勝ちな昨今だが、
実際には、判定者がよほどのお馬鹿さんでない限り、
ルックスだけで中身がまるでイケていない人間を「イケメン」と称するほど、
女性の目は甘くないのが普通である。

その一方で、女性は惚れた男に甘い。アホみたいに甘い。
ダメンズに尽くして身を持ち崩す女はもとより、そこまでいかずとも、
男の身勝手さに振り回されつつ、惚れた弱みでそれを許し
母親のように世話を焼いて甘やかす女は多い。
そしてその愛情度合いに於いて、いわゆる世間一般の相対評価における
ルックスはまるで関係ない。

それどころか、取り立てて外見的にアドバンテージも無い上に、
ひたすら好き勝手に生きているフリーダム野郎にしか見えないのに、
どういうわけか女が寄って来て切れない、という男がいる。
いわゆるジゴロタイプのその男はなぜ愛されるのか?
それはひとえにその男のルックスも生き様もひっくるめた存在そのものが
その女の心を溶かす「愛しのイケメン」だからに他ならない。

では、そんな女を惑わすフリーダムなイケメンとはいったいどのような男なのか?
なんと、その一例を分かり易く図解してくれている絵本があるのだ。

今回とりあげる、このやたらとタイトルの長い絵本、
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
の主人公トムは、清々しいほど好き勝手に生きている少年である。
彼の面倒を見ているトンカチーン・トテモジャナイおばさんは
その名の通り草木も枯れるほどの超堅物人間。にも関わらず、
トムは平然とおばさんの大嫌いな「ばかばかしいこと」に精を出し、
自由気ままに毎日を過ごしている。
そんな彼を見かねたトンカチーンおばさんは、トムの性根を叩き直すべく、
ナジョーク船長とその部下のナンデモ水夫の一行を呼び寄せる。
ところが、話はトンカチーンおばさんの思惑を大きく外れ、
思いがけない展開に・・・・

という楽しいお話である。
そしてこのトムこそがまさに、私の思うところの
女性の心を鷲掴みにするフリーダム・イケメン野郎なのだ。
ちなみに私独自の分析による、トムのイケメンっぷりはこんなところだ。

1. 好き勝手やってるだけなのに、何故か大人に負けない超人ぶり。  
  
  これはもう、この絵本の一番の見所である、トムとナジョーク船長との
  謎競技での攻防戦を見てもらえば一目瞭然である。
  なんだかんだ言って女子の多くは恐らく本能的に身体能力の高い男子、
  なおかつ権威に屈しない自由人に惹かれるものだ。

2.好き勝手やってるようで、決して無駄に女に逆らわないスマートさ。

  こう見えてトムは、トンカチーンおばさんに決して逆らわないのである。
  身の毛のよだつような食事を食べるように言われても、
  退屈な勉強を言いつけられても、
  しまいには恐ろしげな外部講師による調教を宣告されても、
  決まってあっさりと「いいよ。」と答えるのだ。
  食事や勉強については、トムが実はそれらを心底嫌っていたことが
  後に判明するが、その場ではそんな感情をおくびにもださず、
  諍いによる無駄なストレスを避けるかのようにスマートに処理してみせる。
  つまりトムは、そこらの成長しきれていない「少年のような」成人男性より
  実はずっと女の扱いに長けた「大人顔負けの」賢い少年なのである。

3.何も考えてなさそうで、実は女心の機微に敏い繊細さ&狡猾さ

  最後の勝負に先立ち、形勢不利なナジョーク船長にさりげなく合図して、
  トンカチーンおばさんに聞こえないように、とある取引を持ちかけるトム。
  もうね、すごいですトム。ある意味怖いです(笑)
  このシーンの面白さは是非、絵も見て味わって頂きたい!

4.サラリと自分の我を通す、スマートすぎる開き直り。

  めでたくトンカチーンおばさんをお払い箱にしたトムは、なんと自分で
  新聞広告を出し新パトロン、もとい、新おばさんを募るのだ。
  しかも、今まで黙って我慢していた案件は最初からしっかり条件提示し、
  さらりとクリアしてみせる。それでも、
  「てごろなおばさんが、すぐ、みつかった。」そうだ。どういうこと・・?


・・・と、ここまで書いて来て、
推定年齢10才と思しきトムのヤバいほどのジゴロっぷりに震撼する私である。
ちなみにここで、「ジゴロ」の意味を改めてwikiで見てみると・・・

「年上の女性(と付き合い、その女性)から援助を受けている、
あるいはどのように生活を成り立たせているのかはっきりしない、若い男」

とある。
ひょえー。これはまさにトムの生き様そのものではないか。
実はこの絵本、まだ毛も生えぬ(かどうか実は確認していないが)
アホ男子(現在12才)の息子のお気に入りの一冊であるのだが、
もしかしてこれを幼少時から男子に愛読させてしまうのは、
教育的にアレだっただろうか?!

・・・ま、いっか。
折角男に生まれたなら、モテないよりはモテる方が人生面白かろう。
そのヒントをまさか絵本から学べるとは素晴らしいじゃないか。
息子よ、大志を抱け!目指すは自由なイケメンだ!!
ただし女を泣かすなよ!

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2014年07月24日

理系思考の効用

算数の呪い算数の呪い
ジョン・シェスカ・文 レイン・スミス・絵 青山 南・訳

小峰書店 1999-01

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理系の人に縁がある。
学生時代から、自分自身は理数系の科目は全滅に近いヒトだったのに、
何故か仲良くなる相手はバリバリの理系の人が多かった。
どれほど悲惨な成績でも数学や物理に敵意を持つことなく
学生時代をやりすごせたのは彼らのお陰かも知れない。
そういえば、親しさの度合いで言うと女子よりも男子に
気が合う友達の方が多かったのも、今思えばまるで
理系人口の男女比がそのまま反映されたかのようだった。

ところで、偶然にも私が親しくなる理系人には以下のような愛すべき共通点がある。

 1.要領よく他人に迎合するのが苦手
 2.自分の趣味について語らせると長い
 3.常に自分の中に結論を持っている。
 4.気持ちの切り替えが早い
 5.こだわるところとどうでもいいところの落差が激しい

…というか、上記のほぼ全てがあてはまる友人を思い浮かべてみるとみんな理系だった。

ちなみに私自身は、ほんの数年前までは上記の5番以外は全てあてはまらないという
見事に外面が良く優柔不断な人間であった。
そんな自分をある意味典型的な文系人間である、と思っていた私にとって、
彼ら理系人の思考回路は時に宇宙人のようで、その不可解さ故に私は彼らに惹かれた。
そこで交わされる会話は常に刺激的であり、その大胆な
(と、私には思えるが彼らにとっては至極当然の)理論展開には
目からウロコが落ちまくりであった。
特に、精神的に行き詰まりを感じる時などに意見を聞くと
明後日の方向からの視点をもらえたりして、
非常にありがたい存在だったのだ。

そんな彼らとの楽しくも刺激的なコミュニケーションを彷彿とさせるのが、この絵本。
冒頭からしてもう、ワクワクさせてくれる。

月曜日の算数の時間、フィボナッチ先生がいったのよ、
「みなさん、たいていのことは、
 算数の問題として 
 考えられるんですよ」


理系友人たちから学んだ私が思うに、これは真理である。
特に、一旦悩み出すとあれこれ余計なことを考えすぎて
ドツボにはまりがちな、そこの文系のアナタ!
これはたいへん実用的な発想転換法なので、覚えておいて損はない。
はいメモったメモった!

それでは、あなたを悩ます問題を今一度、整理してみよう。
それはなぜアナタを苦しめるのか?
しがらみにがんじがらめになった人間関係。こじれた恋愛関係。
多すぎる仕事。実力を発揮できない環境。
健康不安、経済的な不安…etc.
割り切れない思いに鬱々とした日々を送っているのは、
割り切れないのではなく割り切る為の解法を見落としているからではないだろうか?

まずは、落ち着いて現状のアドバンテージを探してみよう。
動かせない現実と、未知の可能性とを整理して、文字式にしてみよう。
ひょっとするとあなたの不安の正体は、限りなく発生確率の低い
未来のトラブルへの妄想に過ぎないかもしれない。
(ちなみに私の場合はたいていこのパターンなので、
経験を積んだ今は、いざという時この発想で頭を冷やし、
早めに落ち込みから脱出するように心がけている。)


算数の良いところは、どんな問題にも必ず至るべき唯一の解があることだ。
学校では模範解答として一番効率のよい解法を教えてくれるけれど、
人生でぶつかるたいていのことが算数の問題として考えられるならば、
その解に至る道は人それぞれ、千差万別でいいはずだ。
そもそも人生でぶつかる諸問題はどれも、必死で解決に至ったところで
果たしてそれが「正解」だったのか「不正解」だったのか、
死ぬ瞬間まで誰にも分からないものだろう。
だから、自信満々でも、不安でいっぱいでも、
今自分が出した答こそが正解だと信じて前に進むしかない。
多分、長い長い人生というテストの合否は問題の正答率ではなく
いかに本人が解を求める過程を楽しんだかにかかっているのだ。
泣いても笑っても同じなら、笑っている方が良いに決まっている。


ところで、前述の理系の友人に共通する項目、の話に戻るが、
この記事を最初に書いた2006年5月から8年ほど経過した今、
改めて自分の日頃の言動を思い浮かべてみると、
なんと私も3、4、5の全てが当てはまることに気がついた。
それは決して私が論理的思考のできる理系人間に近づいたというわけではなく、
ただ単に年相応に経験を重ねて図々しくなったということなのだろう。

でも、確かに以前よりも思考の取捨選択がしやすくなり
頭の中がスッキリしてきたという実感はある。
やりたいこととやれることの違いや、理想と現実の境界が
自ずと見えてくるようになって、無駄に悩まなくなったのかも知れない。
また、この歳になって分かったことの一つは、
大人になれば嫌でも抱え込むややこしい問題ほど、
算数の問題として考えれば、案外簡単に答えが出たりする、ということだ。

というわけで、私は改めてここで声を大にして伝えたいのである。
算数は生涯を通じて役に立つ、
誠に実用的な学問であるからして、
みだりに忌み嫌うべからず。


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2014年06月27日

異文化に心躍らせるとき

ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん (日本傑作絵本シリーズ)ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん (日本傑作絵本シリーズ)
清水 たま子・文  竹田 鎭三郎・絵

福音館書店 2013-11-13
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我が家のすぐ近くに、有名な結婚式場がある。
大安吉日ともなれば、そこの売りでもある美しい日本庭園は
写真撮影の為に大移動する新郎新婦と招待客の集団でごった返す。
まして、「6月の花嫁は幸せになれる」なんていう、
バレンタインデーと同じく日本の商業主義に乗っかって広まった
およそ根拠の怪しいキャッチフレーズは今も素晴らしい効力を持つらしく、
この天候不安定な時節に、結婚式場は今日も大盛況なのである。

週末など、定点観測を決め込んでベンチに陣取り眺めていると、
着飾った老若男女の一団が分単位で入れ替わり立ち代わりやってきて、
なかなか楽しい時間を過ごすことができる。
最近のウェディングドレスの流行だけでなく
お呼ばれされた側のフォーマルウェアのあれこれを眺めたり
新郎新婦の年代や年齢差や招待客の顔ぶれなどから
勝手にあれこれ想像してみたり。
いわば野次馬根性丸出しなわけであまり趣味がいいとは言えないが
あちらもわざわざ衆目を集める出入り自由のガーデンウェディングを
選択しているので、これぐらいは許されるだろう。

ちなみに、ここの式場はそこそこ格式が高い場所とされていて、
言われてみればそれなりの階層の人々が集まっているようにも見える。
ということは、今どき政略結婚とまでは言わずとも、
もしやお家同士の訳有り結婚なんかもあったりして?
などと思うと、ますます妄想の翼は広がるのであった・・。

今日の絵本は、そんな季節にたまたま出逢った、
村と村とを仲直りさせた、まさにワケ有り結婚のお話。

およそ神話や伝説や伝承民話というものは、
前時代的な価値観だとか根拠の怪しい慣習だとかに基づいた話故に
ストーリー展開が荒唐無稽で辻褄が合わないことが多いのに、
どうしてこんなに人の心を惹き付けるのだろう。
今回とりあげるこの「ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん」は
現地の言い伝えなどから着想を得てはいるものの、
日本人の作家さんが創作された物語とのこと。
でもその内容は、ハッピーエンドにも関わらず、
そこに至るまでの展開に微妙に古い価値観が見え隠れしていたりして、
突っ込みどころ満載、という意味でも伝承民話的な面白みがあり、
物語絵本としての強い魅力に溢れている。
何より、メキシコの明るい陽光や美しい自然を彷彿とさせる
生命力溢れる鮮やかな色彩に彩られた挿絵が素晴らしく、
隅々まで眺めていたくなる素敵な絵本なのだ。

作者のあとがきによると、毎年6月最後の三日間、現地の村では
この物語のベースとなったウワベ族とチョンタル族の停戦協定にちなんで、
実際に生きたワニと人間の男性が村の教会で結婚式を挙げるという
お祭り?というか伝統行事が行われているという。
村人が代わる代わる、口をしっかりリボンで縛られたワニの花嫁を
抱いて踊るというその光景は、想像するだけで何ともスリリングで、
ドキドキするような不思議な異国情緒を沸き立たせる。

何とかその画像が見当たらないかと、舞台として名前の挙がっている
Oaxaca市やHuamelula村などのキーワードで画像検索してみたが、
残念ながら私にはそれと思しき画像を見つけることが出来なかった。
が、代わりに色彩の洪水のように目に飛び込んで来た
メキシコの華やかなお祭り画像の数々に圧倒され、
彼の地の熱気と花々の強い芳香を感じたように思った。
そして今夜私は再び、この絵本を開き、
遠い異国の風土を感じさせる魅力的な挿絵を眺めつつ、
今年も間もなく行われるであろう、
その不思議なお祭りに思いを馳せてみるのだった。

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2014年05月22日

まちがえるほどに強くなる

教室はまちがうところだ教室はまちがうところだ
蒔田晋治・作 長谷川 知子・絵

子どもの未来社 2004-04

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もう十年も前のことだ。
私の子どもが初めて小学校に上がった時、
周りのお子さん達の出来の良さに驚いたのを覚えている。
ひらがなの読み書きはもちろん、漢字も書けて、
中には英語で流暢に挨拶できるお子さんもいたりした。
小学校に上がる前からお家やお教室でしっかりと準備をしてきたらしい、
そんな優秀なお子さん達にとっては、
公立小一年生の新学期の教室は毎日が晴れ舞台だっただろう。
初めての授業参観を見に行くと、
意気揚々と手を挙げる彼らの間に隠れるように、緊張した面持ちの娘がいて
それでも先生に当てられると小さな声で懸命に答えていて、
なんとか正解であったことにこっちまで胸を撫で下ろしたものだった。

こういう場面で、平然と手を挙げるのは自分に自信のある子ばかりだ。
煩いぐらいにハイハイと手を挙げて自分をアピールし
当てられる前から得意げに正解を口にする子がいるかと思えば、
早くも芸人魂を発揮して、ウケ狙いのボケをかます子もいた。
そうでないその他大勢の子ども達は、一様に俯きがちになり、
ソワソワとしているその姿が何ともいじらしいのだった。

今日の絵本は、そんなその他大勢の愛おしい子どもたちに伝えたい一冊。

教室はまちがうところだ

嗚呼、なんと素晴らしい言葉であろうか。
知らないというのは清々しいことだ。
そこに新しい知識や考えを取り込んでいく作業は、快感であるはずだ。
なのに、どんどん間違ってもいいはずのその学びの場は今や、
子ども達にとって、恐ろしく緊張を強いる場になっている気がする。
出来て当たり前、分かって当たり前の雰囲気の中、
小学校に入学したばかりの一年生もその親も、
はじめの一歩から恥をかくまいと必死になる。
本来学ぶことは楽しいことであるはずなのに、
スタートから出遅れを感じた子は、いきなり出端を挫かれて
学ぶことの新鮮な楽しさや喜びを、見失いはしまいか。
だとしたらそれは、なんともったいないことだろう。

学ぶことに終わりは無く、赤ちゃんも一年生も、
お父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、
人は生きている限り常に何かを学び続けるものだろう。
その道は人それぞれで、学び方も千差万別だろうが、
きっと誰もが経験を重ねて実感するであろうことは、
決して間違えないようにと注意して慎重に覚えたことよりも
間違いや勘違いや失敗から、その恥ずかしさや痛みから学んだことの方が
嫌でも身に付くし、結局は自分を成長させる糧となる場合が多い、

ということではないだろうか。
さらに、間違えることの素晴らしさは、
間違えれば間違えるほど、次の失敗が怖くなくなるということだ。
なんとかなる、ということを身を以て経験すること。これは大きい。
まして若い頃の間違いなんて、その後の生き方次第で本当になんとかなるのだ。

少なくとも、自分はそんなことの繰り返しで生きてきて、
気がつけば失敗を失敗と思わぬ厚かましさと
転んでもただでは起きぬ執念深さを身につけた・・ように思う。

間違いから学ぶ方が手っ取り早く、得るものも多いのならば、
遠慮なくじゃんじゃんトライアル&エラーを繰り返せばいいようなものだが、
誰でも大人になり社会に出れば、
その間違いが許されない場面というものに嫌でもぶつかることになる。
当然ながらそのプレッシャーは、新一年生の初めての授業参観の比では無い。
もちろん、そのここぞと言う場面で失敗する人だって山ほどいるし、
またそこから学ぶことのシビアさ大きさも別格だろうが、
じゃあ、間違ってもいいからドーンとやってみよう!というわけにはいかない。
なにしろ、被るダメージが大きすぎる。
その分、回復にかかる時間もお金も莫大すぎる。
残念ながらこの先の伸びしろもあまり期待できない。
なにより、
大抵の大人は、子どもほど強くないのである。

だから、いつの間にやらうんざりするほど大人になってしまった私は
子どもたちに、若い人たちに、声を大にして言いたいのだ。
教室にいるうちに、
間違いが許される今のうちに、
めいっぱい、思いっきり、間違っとけよー!!と。


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2014年04月24日

春に救われる想い

ピッキーとポッキー (幼児絵本シリーズ)ピッキーとポッキー (幼児絵本シリーズ)
嵐山光三郎・文 安西水丸・絵

福音館書店 1993-03-25

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桜が咲いたというだけで
僕らの何かが変わる
それは何かと問わないでここまで来た

このくにのどこが好き
このくにのどこが嫌い
そんなことを冬には思いもしない

「さくらのくに」石村吹雪・作詞作曲 より)


あなたは、自分の国が好きかと問われて、YESと即答できるだろうか。
子どもの頃の私は、無知故に、自分の国を好きかどうかなんて考えたことがなかった。
大人になった私は、色んなことを知り過ぎた為に、考えれば考えるほど、
その問いへの答えが出しづらくなった。
そしてとても残念なことに、年を経るにつれ、愛すべき祖国の嫌なところばかり
目についてしまうようにもなった。

それでも、一年に一度だけ、全く忌憚なく迷い無く心から、
日本が好きだ、日本に生まれて良かったと胸を張って答えられる時期がある。
それが、桜の季節である。

今年はうっかり、東京の桜の見頃を見逃してしまった。
旅先から帰ると、もう桜は盛りを過ぎて、雨風に打たれた枝の先に
しぶとく残る花びらが萎れ気味にくすんだ色を見せていた。
桜は散り行く姿も美しいものだが、こうなってしまうと
さすがになんともうら寂しい風情になり、見ていて切ない。
なんだかしょんぼりした気分になった私が
あわてて手に取った一冊の絵本が、
今日のお題、「ピッキーとポッキー」である。

ピッキーとポッキーは、
(作中でそういう説明はされていないが、どう見ても)
一卵性双生児のうさぎのきょうだい。
仲良しの2人がお隣に住む友達のもぐらのふうちゃんと
お花見に行く、というたわいもないストーリーのこの絵本に
幼い私はいたく心惹かれ、季節を問わず一年中愛読していた。

当時も今も、私がこの絵本で一番好きなシーンはもちろん、
主人公の2人がお花見に行くにあたり用意する素敵なお弁当が
見開きいっぱいに描かれたあのページである。
要するに、食いしん坊の私にとって花見とはすなわち、
「旬の食材で誂えた手作りのお弁当を
最高に美味しく頂く為にそれを食べるに相応しい場所へ赴く」
という
食ありきのエンターテイメントであり、
まさに花より団子そのものの行為である、
という刷り込みがこの絵本からなされたように思う。

それでも、何があろうと春になれば桜が咲く、そんな美しい国に育ち、
四季の移り変わりを感じ取っては寄ってたかって皆でそれを愛でようという、
一種の日本人魂のようなものが私の中にもそれなりに育っていったのだろう。
若い頃から集団行動や宴会の喧噪が苦手な私が、
お花見のどんちゃん騒ぎだけは何故か気にならず、
むしろその場に自分も加わりたいとすら思う。
それどころか、春の訪れを誰かと共に喜べるそのありがたさを、
この歳になってようやく、身にしみて分かるようになった気もするのだ。
なにより、なんだかんだ言って年に一度は、
「この国が好きだ!」と心から素直に思い直すことができる、
この貴重な年中行事の機会を、私は毎年心待ちにしているのである。



お花見シーズンのピークが過ぎると、いつも思い出す母の言葉がある。
「桜の木は健気でね、全部の蕾が花開くのを待ってから、散り始めるのよ。」

その話が本当かどうか確かめたことはないが、
その言葉を聞いた時から、大好きな桜の花がなお一層愛おしく思えるようになった。

どこかで桜が開花したと聞いては喜び、
誰もが、自分の住む町で満開になる日を今か今かと待ち望み、
その日がくればこぞって花見にくり出して昼も夜も花を愛で、
あっという間に散ってしまうその儚さまでも愛おしげに見送る。
日本人ならば大抵の人は、この一連の心の動きに共感できることだろう。
もしかしたら、散り行く桜までも愛でるその心の奥底には、
日当りの良い蕾もそうでない蕾も、
条件に恵まれた者もそうでない者も、
それぞれにその花を開かせる時を待ちわびて、
それを見届けた満足感を味わう気持ちがあるのかもしれない。


私にとっては、花見と言えばこの絵本なので、
毎年春が来る度にこのブログでも取り上げようとしてきたが、
何しろ桜は待った無しで、開花の声を聞いたと思ったら
あっという間に散ってしまうため、
結局間に合わずにまた来年と見送るばかりだった。
今年こそ、と思っていた矢先になんと、
この作品で初めて絵本を手がけられたイラストレーターの安西水丸さんが、
東京での桜の開花も目前という去る3月19日に急逝されてしまった。
突然のことに驚き、そして心から残念に思った私は、
せめて、なんとか追悼の意を表したいという思いから、
今年こそ、開花スケジュールとの連動など無視して
絶対にこの絵本のことを書こうと思ったのであった。

1976年の初版刊行から今もその輝きを失わず、
そして私の中のささやかな愛国心を五感から育んでくれた、
素晴らしい作品を遺して下さった安西さんに、心からの哀悼の意を捧げたい。
ありがとう安西さん、
天国のあなたにも、毎年春には、満開の桜が見えますように。


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2014年03月20日

好きを持続する力

あたまにつまった石ころがあたまにつまった石ころが
キャロル・オーティス ハースト ジェイムズ スティーブンソン

光村教育図書 2002-08

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この春、息子が小学校を卒業する。
卒業関連の学校行事の出し物の一環で、将来の夢を紙に書いて提出する機会があった。
珍しく真剣な顔をして机に向かっていたが、腕で手元の用紙を隠し、
なんと書いたのかは最後まで教えてくれなかった。
でも、きっと間違いない。
彼の夢は釣りか魚に関する仕事につくことだろう。

小学2年生の時に行った北海道旅行で渓流釣りを初めて体験して以来、
息子は釣りにはまってしまった。
都心在住故、小学生の子どもが一人で気軽に釣りを楽しめるような場所はなく、
近所の釣り堀や父親にせがんで数ヶ月に一度親子向け船釣り体験に行くのがせいぜい。
やがて、釣行への有り余る熱意と好奇心を持て余した彼は
とにかく釣りに関することなら何でもいいから学びたいと、
繰り返し繰り返し、自転車で行ける範囲の図書館をぐるぐると回り、
「釣り」関連書籍の棚が空になるほど、ごっそりと制限冊数いっぱい借りて来ては
朝晩貪るように読みふけるようになった。

正直、この情熱の何割かでも勉強に向けてくれたらと思ったことは一度や二度ではない。
しかし、一見ただの遊びで将来何かに役立つとはとても思えないその釣りへの情熱が、
彼に人生に必要なあれこれを学ばせ、成長を促してきてくれたようにも思う。

地図を見ながら、遠くまで一人で自転車で行けるようになった。

一人で電車とバスを乗り継ぎ、片道1時間の目的地へ辿り着くことができるようになった。

片付けや整理整頓が死ぬほど苦手なのに、釣り具だけは自分で収納方法を工夫し、
時にはラベルまでつけて大事に大事に管理するようになった。

何でも使いっ放しやりっ放しなのに、釣り具だけは帰宅直後に黙々と手入れをする。

釣った魚を自分一人で捌けるようになり、ついでに一人で一汁二菜ぐらい作れるようになった。

釣りという趣味を共有出来ないがため、学校で親しい友達が中々出来ずに孤立しがちだったが、
魚と釣りに関する知識では学校で一番であるという自信をつけ、こだわらなくなった。

釣り場で知り合った初対面の大人と臆せず世間話や情報交換ができるようになった。

外来種や環境汚染や自然破壊の話題になると、いつの間にかいっぱしの意見を言うようになった。


どれもこれも、ただただ釣り好きが昂じてそうなっただけだ。
だが、文科省が声高に唱えるほど教育現場が混乱するばかりの「生きる力」の教育が、
そこでは確かに、豊かな実体験と共に実践されて来たのだと思う。

そんな息子とその同級生の子ども達の為に、先日一冊の絵本を小学校で読み聞かせて来た。
それが今回のお題絵本、「あたまにつまった石ころが」である。

物語は、主人公の男性の娘の視点で語られる。


切手にコイン、人形やジュースのびんのふた。
みなさんも集めたこと、ありませんか?
わたしの父は子どものころ、石を集めていました。


そしてその「父」は、子どもの頃どころか、生涯を通じ石を集め続けたのだった。
彼は、ただただ「好きだから」というそれだけの純粋さで、
何の役にも立たない石ころをせっせと集め、それを学び研究してきた。
周囲にも身内にさえも「あたまに石ころがつまっている人」と言われながら。
戦争も、苦しい生活も、彼の石への情熱をそぐことはなかった。
そして、長年の一途な思いが晩年に実って、ついにはそれを生業とする幸運に恵まれたのだった。

これが実話がもとになった話だというのは、少々出来過ぎな気がするが
全ての子ども達に、やがて直面する現実と闘うためにファンタジーが必要なように、
世知辛い現実を日々生きる大人にもファンタジーが必要だとすれば、
これこそ良質な、心温まるお伽噺ではないだろうか。

どうか全ての子ども達が、いつか、自分だけの大好きな何かを見つけられますように。
そしてその「好き」の気持ちをずっと持ち続けていられますように。
そんな気持ちを込めて、この絵本を卒業を控えた六年生に読んで来た。
何を感じ取ってくれたか分からないが、少なくとも、いつもにもまして
子ども達が話に引き込まれ、集中して聴いている気配が伝わってきた。
そして帰宅した息子が一言、
「母さん、あの本すごく良かったよ。」
と言ってくれた。とても嬉しかった。


どれほど釣りが好きでも、「釣り人」では食べて行けないだろう。
さすがにもうすぐ中学生ともなれば、アホな我が息子でもそれは分かっているようだ。
でも、これほどの「好き」をこの先も持続できるなら、きっと心配はいらない。
その情熱や尽きない好奇心が、きっと自ずから彼の進む道を照らしてくれるだろう。
そしてどんな進路に進もうときっと待ち構えている、厳しい現実を生き抜く支えとなるだろう。

門出を迎えた子ども達よ、卒業おめでとう!



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2014年02月17日

美しきマイノリティ

おにたのぼうし (おはなし名作絵本 2)おにたのぼうし (おはなし名作絵本 2)
あまん きみこ作/岩崎 ちひろ絵

ポプラ社 1969-08

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今年もまんまとバレンタインの狂騒に踊らされた週末であった。
もちろんそれは私のように、お菓子を作ることも食べることも嫌いでなく、
あからさまに人に好意を示すことに特段の抵抗も無い女にとっては、
それなりに楽しいイベントであることは確かだ。
しかし、実際のところそれが単なるコマーシャリズムから発案された「似非年中行事」で、
その経済効果に利に敏い皆さんが寄ってたかって便乗しているに過ぎないという
恋も夢もへったくれも無いオトナの事情を重々承知のおばちゃんとしては、
知らぬ間に全国的に統一された「女性から男性へ」「スイーツ(+α)を贈る」という
何の根拠も無いルールに大人しく従って踊る阿呆に甘んじることに、
毎年一抹のいら立ちを覚えるのである。

そこへいくと、同じ二月の年中行事でも、由緒正しき日本古来の伝統行事である
「節分」のなんと清々しく自由なことか。
何しろ発祥は平安時代の宮中行事である。1000年の時を経て全国に広まるうちに
その土地ならではの発展を遂げ、そのしきたりも様式も地方により千差万別となった。
だからこそ、それは他の多くの日本の伝統行事と同じく豊かな多様性を持ち、
社会の最小単位とされる家庭や個人でのアレンジも寛容に受け入れられるのだろう。

ちなみに私は特定の宗教を持たない人間だが(強いて言えば自然崇拝だろうか)
個人的に、この「みんなちがってみんないい」感覚とでもいうか、
各々の信じるところの多様性を認め、その価値観の相違を尊重し合える、
八百万の神の国ならではの懐の深さこそが、我が祖国、あるいは我が日本国民が
本来持っている美徳の一つではないかと思っている。

また、「多様性」という言葉で私がいつも思い出すのは、
私がかつて数年間アルバイトとして在籍した某シアトル系コーヒーショップの
社是の一つであった、「多様性を認めよ」という言葉である。
それは恐らく、顧客一人一人の希望するカスタマイズを笑顔で受け入れよ、
或いはシーズン毎にめまぐるしく変わるメニューとそのレシピを受け入れよ、
という意味が第一義だったのかも知れないが、
共に働く仲間の多様性を受け入れよという意味でもあったように思う。
実際、ある意味その企業マインドに染まれる人しか居残れない風土であったせいか、
私の数多有るバイト経験の中でも、人間関係ではダントツに恵まれた職場であった。


というわけで今日も恐ろしく長い枕になってしまったが、絵本の話に入ろう。
今日の絵本「おにたのぼうし」は、まさにその節分という季節行事をテーマに
マイノリティの存在の美しさと脆さに光を当てた、非常に日本的な童話である。

主人公の小さな鬼の子おにたは、いわゆる鬼の所業などとは無縁の、
いたって気立ての良い鬼だった。
実際、おにたの生活は住み着いた家の住人の手助けこそすれ
災いをもたらすようなことはなく、鬼というより
むしろ守り神とか座敷童のような存在に描かれている。
その心優しいおにたが、偶然にも節分の日にある女の子と出会い、
その子の不遇ぶりを知って、いても立ってもいられずある行動を起こす。
拙いその好意が、予期せぬ展開へとつながることも知らずに・・・。

最後におにたがつぶやく、一言が痛い。

「おにだって、いろいろあるのに。
 おにだって・・・・・・」


そしておにたは、少女の心の中でかみさまになった。


あまりに美しいストーリーに、これまた美しすぎるいわさきちひろの
挿絵が添えられ、反則か!と身悶えするぐらい美しい絵本なのだが、
それが未だ陳腐に感じられず何度読んでも色褪せないのは、
希代のストーリーテラーあまんきみこによる、
散々ものがたりに引き込んだ読者を最後にふっと一人にするような、
絶妙に後を引くエンディングのせいだろうか。
読む度に、「お母さん、また泣いてんの?」と
子どもに呆れ笑われながらも、私は結局瞼が潤んでしまうのである。


実在するか否か、また一般にどう認識されているかはともかく
人智の及ばない存在があったとして、
それを善とするか悪とするかを決定するのは、
現実に即してそれを受け入れる側の心根次第なのだろうと思う。
ならば鬼が棲むのは家ではなく
人の心の中なのではないだろうか。

と、ここで我が家の節分の豆まき風景を思い出す。
実際にそのセレモニーを各家庭でどう行っているのか私は知らないが
我が家の場合は、家族が交代で平等に鬼役を引き受ける。
鬼ターンになったら一旦部屋から出て、お面をつけて改めて入場する。
残りの人間は手に炒り豆を握りしめて待ち構え、
入って来た鬼に向かって「鬼は外!福は内!」と叫びながら
力の限りに豆を投げつける。(そしてこれが結構痛い!)
そして全員が鬼ターンを終了したら、仲良く這いつくばって
数なんか無関係に散らばった豆をひたすら拾い食いしまくるという、
ちょっと他人には見せられない野蛮な儀式になっている。

しかし、だ。
鬼が人の心の中に棲む者なのだとしたら、
この一見ど田舎のエクソシスト祭りのごとく怪しすぎる
我が家の豆まきこそ、正しい鬼退治の手順に思えなくもない。
きっと、ぶつけられた豆が痛ければ痛いほどご利益があるのだろう。


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posted by えほんうるふ at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 泣ける絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月21日

思いつくだけなら猿でも出来る

おもいついたらそのときに!おもいついたら そのときに!
西内 ミナミ作  にしまき かやこ 画

こぐま社 1983-11

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私は何事も長続きしない性格で、幼い頃から続けて来た習い事なんてものが何一つない。
それなのに、ほんの思いつきで始めたこのブログが今年の3月に開設から9年目を迎えることに気がついて、我ながら驚愕している。
あえて自分にノルマを課さず「書くことを探さず、書きたくなったら書く」をモットーに、
ダラダラ月1回ペースでやってきたのが良かったのだろうか。
気がつけばなんと来年は十周年である。まさかの事態だ。
一年前倒しして盛大に祝いたいぐらいだが、そこはやはりここまで来たらあと一年、
こんな私でも何かを十年継続できた証とすべく地道にダラダラと行こうではないか。

開設時から今まで読み続けてくれている読者なんて、いるのかしら。
もしいらっしゃいましたら、どうぞあと一年耐えてみて下さい。
来年の3月、ご愛読十周年記念に私のサイン入り生写真でも差し上げましょう。

さて、思えば私にはもう一つ、このブログ以上に長く続けていることがあった。
それが、日記である。
ネット上のものではなく、いわゆる昔ながらの、ノートに手書きの日記。
それを私は、子どもの頃から現在に至るまで書き続けているのである。
一番古いのは小学校高学年時代のもので、近所のファンシーショップ
(という営業形態は、絶滅したのだろうか)で買ったファンシーなノートに、
マセガキのファンシーな戯れ言がファンシーな字体で書き連ねてあるという、
存在を思い出す度に身の毛がよだつ代物である。
が、折角思い出したので敢えてここでその冒頭を公開するという
羞恥プレイに挑んでみよう。

「昭和57年12月2日
やっと今日から日記が書ける。
たった一人で、嫌なこともよかったことも、この中におしこむんだ。
そうだ、このノート大大親友にしか見せないことにしよっと。
エヘ、おなか、ぐぅ〜なんていってる。」


ぐぬぬ・・・我ながら想像以上のポエマーぶりに、公開はこれが限界である(汗)。
自分がいつか不慮の事故で死んだりして、まかり間違ってこの続きが
ネットで公開なんぞされようものなら、私はとてもじゃないが成仏出来ないであろう。
さて、いつどうやって安全に処分したものか・・。

話が逸れた。
そもそも日記の話を持ち出したのは、今日のお題絵本に関係があるからである。
今日の絵本「おもいついたら そのときに!」は、ぶっ飛んだ内容に元気が出る
新年にぴったりの絵本で、過去にも拙ブログで取り上げているので、
内容に即したレビューはこちらをご参照いただけたらと思う。
今回は、その過去ログを自分で読み返していて、感じたことを書いておこう。

ぶっちゃけ、それはまるで昨日書いた文章のようだった。つまり、
当時から全く進歩していない自分の成長の無さを思い知らされたのだった。
というのもこの正月、愛用の石原出版社謹製10年日記(通算3冊目)の年頭頁に
今年の抱負を記そうとした私は、ふと前頁を読み返し、そこに箇条書きにされた
去年の抱負がほとんど全滅に近い達成率であることに気づいて愕然とした。
そしてあれこれ考えあぐねた末に、結局2年連続で同じ抱負を書いたのである。

そして目標とは別にこれまた毎年この頁に記すことにしている「今年の心がけ」
もまた、ほぼ内容を更新すること無くそのまま今年も引き継がれることになった。
そのうちの一つが、ここ数年毎年書いている、
「雑用はその場ですぐ処理して、後回しにしない」なのだ。
まさに思いついたらその時に!どころか、まず思い立て!というレベルの低さである。

果たして私は来年の年頭頁に、恒例のなし崩しの継続案件ではなく、
新たな目標を打ち立てることができるのだろうか。
そうだ、それこそ来年の目標とすべく、今年の頁に一筆書き加えておくことにしよう。
「せっかく思いついたことを、一つでもやり遂げること」と。


ちなみに去年私が日記に記した新年の抱負の中で、
唯一達成出来た目標とは、「月1回の大人絵本会継続開催」であった。
これは本人の努力の結果というより、ひとえに参加者の皆さんの支えの賜物である。
今年も感謝の気持ちと共に、この希有な大人の時間を重ねて行きたいと思っている。
大人絵本会ご愛顧の皆様、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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posted by えほんうるふ at 19:48 | Comment(4) | TrackBack(0) | 身につまされる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする