2015年01月21日

憧れの秘湯

旅館すずめや旅館すずめや
雨宮 尚子 作

白泉社 2009-01

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

私の自宅には和室がない。
家族4人で都心のマンションに引っ越した際、
諸条件をクリアした物件はただでさえ収納も部屋数もギリギリで、
物を置かない事が前提の畳敷きの部屋を有する余裕などとても無かった。
あれからもうすぐ10年になる。
フローリングばかりの今の我が家の生活に不満はないものの、
気が付くと、実家に帰省した際や、友人宅や旅先で、
何気なく和室に通された時に感じる安堵感が半端ないのだった。
い草の触感の心地よさに思わず嘆息し、
ああ、ありがたい。
なんて呟いてしまったり。歳だろうか。

自分が生まれ育った家も、畳敷きの部屋こそあったが、
和の歳時記を一つ一つ丁寧に執り行うような余裕や洗練とは無縁だった。
母は和服が好きでそれなりに数も持っていたようだが、
父と共に自宅兼店舗の商売を切り盛りし4人の子を育てるのに精一杯で、
年に1度も袖を通した姿を見たことがなかった。
そんな家に育った私は今でも、
持っている和服は嫁ぐ際に母が誂えてくれた喪服一式のみで、
それすら実家に置きっぱなしの体たらく。

そんな、いい年して次世代に美しい和の世界を継承できる見込みが
まるでない残念な日本人の自分なのだが、
何故だか不惑を過ぎるあたりから妙に和物に心惹かれるようになった。

自分が実際に幼少時に使っていたわけでもないのに、
火鉢やら囲炉裏やら小引き出し等の和家具はもちろんのこと、
陶の器や和服地の小物、千代紙にお手玉、干菓子に練り切り・・・
まるでアンテナでも立っているかのように、
どこへ行ってもいち早く目に止まり、
しばしうっとり見つめてしまうのだ。
これまでの実生活でそう馴染みがあるはずでもない雑貨たちに
これほど心奪われるのは、
やはり、この国に生まれ半生を過ごした者なりに、
心のどこかに刻まれた和物魂が疼くのだろうか。

さて、今日の絵本、「旅館すずめや」は、
そんな私の遅咲きの和物愛を激しく刺激する絵本である。
すずめのおかみが切り盛りする旅館「すずめや」の冬の一日を、
細々とした雑貨と共に紹介するという他愛もないストーリーなのだが、
とにかく、切り絵で表現された和物の絵柄の愛らしさに悶絶する。
また、読み進むほどに、秘湯の宿「すずめや」の
ありそうで絶対にない超絶のおもてなしっぷりに
大人の乙女心がツンツンされること請け合いである。
おまけに、巻末に「和の小物型録」と題した見開きがあり、
各ページに描かれた小物をピックアップして紹介しているという
まさに和物好き雑貨好きの痒いところに手が届く親切仕様。

寒い季節に可愛い和物を眺めて心を暖めるなんて、
若い頃には思いもつかなかった発想だが、
「おこたでみかん」すら縁遠い生活をしている今の自分には
熱い日本茶を啜りつつこの絵本をにこにこと眺める時間が
ささやかな贅沢に思えたりもするのである。
そして最後にはきっとまた呟くのだ。
ああ、温泉行きたい。

posted by えほんうるふ at 11:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月16日

ぶれない生き様

クリスマスのおくりものクリスマスのおくりもの
ジョン バーニンガム John Burningham

ほるぷ出版 1993-11
Amazonで詳しく見る
by G-Tools


例年この時期にはクリスマスにちなんだ絵本を採り上げている。
今年は何にしようかな、と考えた時、たまたま思い浮かんだお気に入りが
今日の絵本、ジョン・バーニンガムの「クリスマスのおくりもの」であった。

これまでこのブログでは、どの絵本を採り上げたときも、
のっけからいきなりその作家への愛を叫ぶことはなかったと思うが、
久々に大好きなこの絵本を手にした途端、やはり叫びたくなった。

私は、バーニンガムの絵本が大好きだ!

なぜ私は彼の作品が好きなのか?
一言で言うとそれは、
彼の描く主人公がいつも、
自分の進むべき道に対して迷いがないからである。
私の大好きな彼の作品に出て来る主人公は、
生まれついた属性や置かれた境遇や降り掛かる災難にも関係なく、
皆一様に清々しいほどのぶれない生き方をしているのだ。

例えば、過去にこのブログでも採り上げた、
「いつもちこくのおとこのこ・・」の主人公ジョン。
人生バラ色とは言いがたい、むしろ閉塞的とも言える境遇で
ぞっとするような毎日を生きることを強いられていても、
彼はその宿命を受け入れ、何があっても淡々とやるべきことをやる。
その清々しいほどのぶれない生き様が、何ともかっこいいのだ。
そしてそのイカした生き様は、私の好きなバーニンガム作品の主人公、
コートニー、アルド、シャーリー、シンプ、ガンピーさん・・・
なんと、しっかり皆に共通しているのである。

そしてさらに、ろくにもの言わぬ主人公に代わって、
その時その時の彼や彼女の心象を表すような、
圧倒的な色と筆致で描かれる、饒舌な背景。

即ち、キャラクターと、画力。
これが私にとって、バーニンガム作品の何よりの魅力である。
そしてもちろん、バーニンガムがクリスマス絵本を描けば、
サンタクロースもまた、この愛すべき魅力を備えた人物となる。

そんなわけで今日の絵本は、例えどんな障害に阻まれようと
任務を遂行すべく迷い無く突き進む、カッチョいいサンタのお話だ。

一年に一度の大仕事を終え、疲れきって帰宅したサンタクロース氏。
ところが、袋の中にたった一つ、配りそびれたプレゼントがあった。
もちろん、彼は迷うこと無く、すぐさま再び家を出る。
やるべき仕事をやり通す為に。

何度となく災難に見舞われても、彼は決して諦めない。
逡巡の末、或いは、失敗を繰り返した挙げ句の挫折という、
普通の人間の人生にはありがちな展開が、ここにはない。
そしてそんな彼の行く手に必ずや現れる希望の光・・・。

絵本の中でしかあり得ないその強さ、
読む者の期待を裏切らない嬉しい超展開に、
凡人の私はうっとりと憧れ、
思うようにならぬ現実をしばし忘れて心を遊ばせることができる。
私はこんな素晴らしい作品に出逢う度に、
絵本はオトナにこそ必要な「心のおやつ」なのだと思う。
posted by えほんうるふ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | カッコイイ絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

母のおにぎり

おにぎり (幼児絵本シリーズ)おにぎり (幼児絵本シリーズ)
平山英三:文 平山和子:絵

福音館書店 1992-09-15

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

平山夫妻の絵本「おにぎり」をテーマに記事を書こうとして、
このブログを始めて間もない頃に既に採り上げていたことを思い出した。

*過去ログ → 究極のおにぎりとは

絵本のレビューとして書きたい内容は既にこちらに書いたので、
今回は私自身の母のおにぎりの記憶と、
それに関連して最近気がついたことを改めて記しておこうと思った。


私の母の作るおにぎりは、丸かった。
丸いのに綺麗に海苔が巻かれていたような記憶がある。
いつも忙しい母は、腹を空かせた4人の子供達を待たせまいと、
コロコロとリズミカルに掌の上で転がしながら
ホレボレするような勢いで次々と全く同じ形大きさの
丸いおにぎりを握っては皿に並べていたものだ。

高校生の頃だったろうか、自分で弁当を作るようになった時、
料理上手な母への反抗心だったのだろうか、
何となくやってみたくて、わざと三角のおにぎりを作ってみた。
意外と簡単に出来て、私はほくそ笑んだ。
海苔も巻き易いので、それ以来私の作るおにぎりは三角形に定着した。

つい先日、ふと思いついて、
母が作っていたような丸いおにぎりを作ろうとしてみたが、
思うように握れなかった。
どうしても歪な丸になってしまい、母が次々と作っていた
あの綺麗で手にしっくりと馴染むやさしい丸形にならないのである。
全体に均等なアールを付けようとやっきになっているうちに、
握っているうちに具の配置が偏ってしまったり、
米粒が潰れて妙に歯ごたえのある固いおにぎりになっていたりする。

そして私は気がついた。
実は角を付けて握るより、まんべんなくまあるい形を
綺麗に作るほうが難しいのだった。
三角のおにぎりなら、何となくでも角さえ付いていれば
おにぎりとしての最低限の体裁は保たれるような気がするのに、
丸いおにぎりの場合、丸みのバランスにちょっとでも崩れがあると
妙に目について、やたらと無様な握り飯に見えてしまう。
人間の目の認知能力はとても素晴らしくて、
実は角より丸の方が、ごまかしが効かないのである。

いや、もしかするとそれは、視覚的な問題ではなく、
気持ちの問題なのかもしれない。
角はそもそも須く崩れるものだから、多少の歪さは仕方ない。
(というか、寸分違わず同じ大きさ同じ角度の三角のおにぎりが
手作りで量産されていると、逆にちょっと人間味を感じないというか、
まるでロボットの仕事のように思えてしまうのは私だけだろうか。)

でも、丸は丸いことに意義があるのだから、
少しでも崩れていると、どうにも心が落ち着かない。
どうにかして、美しい完璧なまんまるを追求したくなってしまう。
機械ではないのだから、どこにも歪みの無い究極の丸なんて
出来るわけないと、頭では分かっているのに・・・。

実家は商売をやっていて、母は常に時間に追われていたが
子供に食べさせる食事だけは、いつも精一杯手をかけてくれていた。
でも、私が食事の支度を手伝うとかえって邪魔をするばかりで、
自分でやった方が早いと苛々と私の手元を見つめる母の視線に耐えられず、
私はすごすごと引き下がって見学者に戻るのが常だった。
かと言って「ただ見てるだけ」の娘も母には面白くなさそうだったので、
触らぬ神になんとやらと、やがて台所に寄り付かなくなった私だった。

そんな、穏やかさとは無縁の日常を必死で取り回していた母がいつも
作っていたのは、角ばった三角ではなく丸いおにぎりだったのだ。
それは、見事に揃った、美しい丸いおにぎりだった。
あっちもこっちも歪みだらけで、今にも崩壊しそうな家族を支えながら、
母は何を思いながら日々それを拵えていたのだろう。
気丈な母の切なる願いを、今さらながら思い知ったような気がする。


人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | よだれが出る絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月24日

いつか木になれるその日まで

きはなんにもいわないのきはなんにもいわないの
片山 健

復刊ドットコム 2014-09-19

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

我が息子はいわゆる脳内ダダ漏れタイプの人間である。
彼は、目に入るものやその場の思いつきの全てを即、
言葉にせずにはいられないらしく、
朝から晩まで、こっちが聴いているかどうかはお構いなしに
一人で延々とマイペースにしゃべり続ける。
あまりにも煩いので、今までに何度も
「あのさー、ちょっと集中したいから黙っててくれない?
じゃあ、君がどれぐらい黙っていられるか、計ってみようか?
と言って目の前でタイマーをオンにしてみたことがあるのだが、
なんと2分と黙っていられないのであった(笑)

どちらかというと静寂を愛する私や娘にとって、そんな息子の存在は、
消したくても消せないつけっぱなしのラジオみたいなもので、
彼が合宿等で長期不在ともなると、
家の中の静けさに思わず顔を見合わせて
「ああ、静かでいいねぇ・・・」とうっとりしてしまうほどだ。

そんな息子が中学生になって半年が過ぎた。
先輩ママさんたちの話では、
男の子は中学生にもなればだんだん家では無口になり、
親ともロクに口をきかなくなるとのことだった。
私はそれを聞いた時から息子の激シブ進化を心待ちにしていたのだが、
なぜか一向に、奴が無口になる気配がない。
相変わらず、食ってるときと寝てる時以外、ラジオは常時つけっぱなしだ。
どういうことだ!?

とは言え。
息子に言わせれば、私の方こそうるさい母親に違いない。
それこそ、もう中学生になったと言うのに。

あああ。だって、どうして黙っていられようか?!

宿題、終わったの?
弁当箱、出した?
汗だくのユニフォーム、またどこかに入れっぱなしじゃないの?
脱いだ服は置き場はそこじゃないよ!
ゴミはゴミ箱あたりに捨てるんじゃ無くて、中に捨ててくれない?
歯、磨いた?え?じゃあなんで口の周りに色々ついてんの?
学校から○○が配布されてるはずなんだけど・・?
定期テストまであと○日なんだけど、知ってた?
・・・

ええ、ええ、そりゃあ煩いでしょうよ。
でもでも、これでも、極力何も言わないよう、
あるいは要らぬ非難を言葉に含めないようにと、
母は日々努力をしているのだ。
君にはそうは見えないだろうが。

そんなわけで、今日の絵本は
私にとっては、永遠に叶わない憧れであり、
羨ましくももどかしい、
絵本だからこそありえるような、
理想の親子関係が描かれている作品だ。

主人公のすーくんは、父親と遊びにきた公園で、無邪気に乞う。

「ねえ おとうさん きに なって。」

そして言われた通り、父親はその場で息子のために「木になる」のだった。
木になったおとうさんは、すーくんがなかなか木に登れなくても、
何を見ても何を問いかけても何に驚いても何を懇願しても、
決してなにもしない、なにもいわない。
だって、

(きは なんにも いわないの)

だから。

木になったおとうさんは、
手も出さない、口も出さない。ただそこにいるだけ。
それでもすーくんは、そんなもの言わぬ父親の、
渾身のサポートを全身で受け止めている。
そのままの自分を受け止め、信頼して黙って見守ってくれること。
それは、幼い少年をどんなに勇気づけることだろう。
だからすーくんは、のびのびと五感を解放し、
試行錯誤を繰り返しながら一人で目的を達成してみせる。

かぜが ふいて います。
そよそよ そよそよ。


ああなんて、夢のように美しい親子像だろう。

嗚呼、できることなら私も、木になりたかった。
いや、今からだって、なれるものならなりたい。
この父親のように、
何も言わずに、母なる大地のように、
あるいは泰然とたたずむ巨木のように、
ただただ慈愛と寛容の権化となり我が子を見守っていられたら・・・

無理。

残念ながら、子どもを育てる、あるいは共に暮らすことの現実は、
この絵本のように長閑で優雅なものではない。
少なくとも、私の場合はそうだった。
それこそ、毎日が待った無しのエキサイティングな攻防戦であり、
だからこそ、やりがいもあり面白くもあり、時に投げ出したくもなった。

でも、もしかしたら、こんなやり方も出来たのかもしれない。
或いは、いつか親も子も成長すれば、
こんな風に穏やかな日常が、我が家にも訪れるのかもしれない。

シビアな現実の子育てにお疲れのお父さんお母さんが、
この絵本に描かれた夢の世界を想像して、
遠い目になって、ちょっと一息つけたらいいと思う。
子どもが生きるのにファンタジーが必要なように、
大人にだって、いや大人にこそ、
時にはこんな極上のファンタジーに浸って
心を遊ばせる時間が必要に違いないのだから。

↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓

人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 03:09 | Comment(2) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月25日

死に至る幸福感

きつねのおきゃくさま (創作えほん)きつねのおきゃくさま (創作えほん)
あまん きみこ 二俣 英五郎

サンリード 1984-08-20

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

絵本に出て来る擬人化された動物たちの多くは、
自然界のセオリーを無視した行動をとる。
年少向けの絵本では、あっけらかんと
肉食動物が本来獲物であるはずの小動物と仲良く暮らす様子が描かれる。
それが、だんだんと対象年齢が上がり、作品の内容が複雑化するにつれ、
「この物語はフィクションです。」の免罪符のもとに、
あえてその生物学上のタブーを逆手にとったドラマが好んで描かれる。
捕食者と被食者が奇跡の友情を育んだり、
たまさかの疑似家族、果ては禁断の疑似恋愛・・なんでもござれだ。

それがぱっと見には絵的に無理が無いように見えてしまうのは
所謂擬人化マジックのなせる技なのだろうが、
私はむしろ、人間こそがこういった弱肉強食のルールには
シビアな生き物だと思っている所為か、
基本的にこのあざとさに生理的な気持ち悪さを感じてしまう。
この件については
過去のエントリー
で散々述べたので詳細は割愛するが、
これら自然界の法則をガン無視もしくは妄用する絵本の中にも
なぜか私が妙に気に入ってしまう作品があり、
今日はその一冊を紹介しようと思う。


今日の絵本、「きつねのおきゃくさま」は
小学校低学年向けの国語の教科書にも採り上げられる、
いわばお上のお墨付きの日本の名作童話である。
時間の無い人の為にそのストーリーを雑に説明すると

「獲物にするはずの小動物におだてられていい気になったキツネが
調子に乗って彼らを守る為に狼と闘って死んでしまい、
残された者達が墓に手を合わせ涙を流す」


という素晴らしく分かり易い悲劇である。

まさに正当派御涙頂戴物語ともいえそうなこの作品に、
私としたことが、まんまと一読で号泣させられてしまった。
なんだか悔しくなってその理由を探ろうと
険しい顔で最初から順番にページをめくり直していくと、
とあるページであっけなく私の涙腺は再び決壊した。

そのばん。
きつねは、はずかしそうに わらって しんだ。


・・・・・

カ、カッコつけたまま死んでんじゃねーよ!

ううう、こんなお約束展開にまんまと泣かされるなんて。
バカヤロー、おまえのせいだー!!

しかしここで私は、気付いたのである。
私がこの作品に心を鷲掴みされた理由を。

この物語は、決して、ファンタジーの世界にしかいない
現実離れした心優しいきつねの物語ではない。
むしろこのきつねは、私やあなたと同様、
弱くてずるくて自信の無い、器の小さい奴だ。
そいつが、恐らく生まれて初めて、
赤の他人に手放しで褒められ、
無条件に信頼され、
その思いがけない快感にハマってしまったのだ。

それまでの半生で散々周囲に疎まれ嫌われて
孤独に生きて来た彼にとって、
それはきっと、普通の食事で食欲を満たす以上の
麻薬並みに中毒性のある快感だったのだろう。
そして、その快感の絶頂で、彼は死んだ。
遠のく意識の中、身体中の痛みを遥かに超える
エンドルフィンの多幸感に包まれながら、
依存性の高い麻薬に負けて、
ついには本能まで差し出した
愚かな自分に恥じ入りながら・・。

とまあ、相変わらず個人的な経験に基づく
妄想の色眼鏡越しにこの作品を鑑賞してしまった私は
ただただ、どうしようもなく、
この馬鹿丸出しのきつねが愛おしく思えたのだった。

でもって、こんなことをドヤ顔で書いちゃってる
自分が猛烈に恥ずかしくなってきたので
今日のブログはこれにて終わりっ。
とっぴんぱらりの ぷう。

↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓

人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 08:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | 危なっかしい絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

天性のジゴロ

How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen (Captain Najork 1)How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen
Russell Hoban Quentin Blake

Walker Books Ltd 2014-04-03

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

残念ながらこの絵本の日本語版は現在のところ絶版のようです。
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
(ラッセル・ホーバン文 クェンティン・ブレイク絵)
よろしければこちらから是非、復刊リクエストにご投票を!




「ただしイケメンに限る」というフレーズが如実に表すように、
外見さえ良ければあらゆるハンデは免除されると思われ勝ちな昨今だが、
実際には、判定者がよほどのお馬鹿さんでない限り、
ルックスだけで中身がまるでイケていない人間を「イケメン」と称するほど、
女性の目は甘くないのが普通である。

その一方で、女性は惚れた男に甘い。アホみたいに甘い。
ダメンズに尽くして身を持ち崩す女はもとより、そこまでいかずとも、
男の身勝手さに振り回されつつ、惚れた弱みでそれを許し
母親のように世話を焼いて甘やかす女は多い。
そしてその愛情度合いに於いて、いわゆる世間一般の相対評価における
ルックスはまるで関係ない。

それどころか、取り立てて外見的にアドバンテージも無い上に、
ひたすら好き勝手に生きているフリーダム野郎にしか見えないのに、
どういうわけか女が寄って来て切れない、という男がいる。
いわゆるジゴロタイプのその男はなぜ愛されるのか?
それはひとえにその男のルックスも生き様もひっくるめた存在そのものが
その女の心を溶かす「愛しのイケメン」だからに他ならない。

では、そんな女を惑わすフリーダムなイケメンとはいったいどのような男なのか?
なんと、その一例を分かり易く図解してくれている絵本があるのだ。

今回とりあげる、このやたらとタイトルの長い絵本、
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
の主人公トムは、清々しいほど好き勝手に生きている少年である。
彼の面倒を見ているトンカチーン・トテモジャナイおばさんは
その名の通り草木も枯れるほどの超堅物人間。にも関わらず、
トムは平然とおばさんの大嫌いな「ばかばかしいこと」に精を出し、
自由気ままに毎日を過ごしている。
そんな彼を見かねたトンカチーンおばさんは、トムの性根を叩き直すべく、
ナジョーク船長とその部下のナンデモ水夫の一行を呼び寄せる。
ところが、話はトンカチーンおばさんの思惑を大きく外れ、
思いがけない展開に・・・・

という楽しいお話である。
そしてこのトムこそがまさに、私の思うところの
女性の心を鷲掴みにするフリーダム・イケメン野郎なのだ。
ちなみに私独自の分析による、トムのイケメンっぷりはこんなところだ。

1. 好き勝手やってるだけなのに、何故か大人に負けない超人ぶり。  
  
  これはもう、この絵本の一番の見所である、トムとナジョーク船長との
  謎競技での攻防戦を見てもらえば一目瞭然である。
  なんだかんだ言って女子の多くは恐らく本能的に身体能力の高い男子、
  なおかつ権威に屈しない自由人に惹かれるものだ。

2.好き勝手やってるようで、決して無駄に女に逆らわないスマートさ。

  こう見えてトムは、トンカチーンおばさんに決して逆らわないのである。
  身の毛のよだつような食事を食べるように言われても、
  退屈な勉強を言いつけられても、
  しまいには恐ろしげな外部講師による調教を宣告されても、
  決まってあっさりと「いいよ。」と答えるのだ。
  食事や勉強については、トムが実はそれらを心底嫌っていたことが
  後に判明するが、その場ではそんな感情をおくびにもださず、
  諍いによる無駄なストレスを避けるかのようにスマートに処理してみせる。
  つまりトムは、そこらの成長しきれていない「少年のような」成人男性より
  実はずっと女の扱いに長けた「大人顔負けの」賢い少年なのである。

3.何も考えてなさそうで、実は女心の機微に敏い繊細さ&狡猾さ

  最後の勝負に先立ち、形勢不利なナジョーク船長にさりげなく合図して、
  トンカチーンおばさんに聞こえないように、とある取引を持ちかけるトム。
  もうね、すごいですトム。ある意味怖いです(笑)
  このシーンの面白さは是非、絵も見て味わって頂きたい!

4.サラリと自分の我を通す、スマートすぎる開き直り。

  めでたくトンカチーンおばさんをお払い箱にしたトムは、なんと自分で
  新聞広告を出し新パトロン、もとい、新おばさんを募るのだ。
  しかも、今まで黙って我慢していた案件は最初からしっかり条件提示し、
  さらりとクリアしてみせる。それでも、
  「てごろなおばさんが、すぐ、みつかった。」そうだ。どういうこと・・?


・・・と、ここまで書いて来て、
推定年齢10才と思しきトムのヤバいほどのジゴロっぷりに震撼する私である。
ちなみにここで、「ジゴロ」の意味を改めてwikiで見てみると・・・

「年上の女性(と付き合い、その女性)から援助を受けている、
あるいはどのように生活を成り立たせているのかはっきりしない、若い男」

とある。
ひょえー。これはまさにトムの生き様そのものではないか。
実はこの絵本、まだ毛も生えぬ(かどうか実は確認していないが)
アホ男子(現在12才)の息子のお気に入りの一冊であるのだが、
もしかしてこれを幼少時から男子に愛読させてしまうのは、
教育的にアレだっただろうか?!

・・・ま、いっか。
折角男に生まれたなら、モテないよりはモテる方が人生面白かろう。
そのヒントをまさか絵本から学べるとは素晴らしいじゃないか。
息子よ、大志を抱け!目指すは自由なイケメンだ!!
ただし女を泣かすなよ!

↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月24日

理系思考の効用

算数の呪い算数の呪い
ジョン・シェスカ・文 レイン・スミス・絵 青山 南・訳

小峰書店 1999-01

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



理系の人に縁がある。
学生時代から、自分自身は理数系の科目は全滅に近いヒトだったのに、
何故か仲良くなる相手はバリバリの理系の人が多かった。
どれほど悲惨な成績でも数学や物理に敵意を持つことなく
学生時代をやりすごせたのは彼らのお陰かも知れない。
そういえば、親しさの度合いで言うと女子よりも男子に
気が合う友達の方が多かったのも、今思えばまるで
理系人口の男女比がそのまま反映されたかのようだった。

ところで、偶然にも私が親しくなる理系人には以下のような愛すべき共通点がある。

 1.要領よく他人に迎合するのが苦手
 2.自分の趣味について語らせると長い
 3.常に自分の中に結論を持っている。
 4.気持ちの切り替えが早い
 5.こだわるところとどうでもいいところの落差が激しい

…というか、上記のほぼ全てがあてはまる友人を思い浮かべてみるとみんな理系だった。

ちなみに私自身は、ほんの数年前までは上記の5番以外は全てあてはまらないという
見事に外面が良く優柔不断な人間であった。
そんな自分をある意味典型的な文系人間である、と思っていた私にとって、
彼ら理系人の思考回路は時に宇宙人のようで、その不可解さ故に私は彼らに惹かれた。
そこで交わされる会話は常に刺激的であり、その大胆な
(と、私には思えるが彼らにとっては至極当然の)理論展開には
目からウロコが落ちまくりであった。
特に、精神的に行き詰まりを感じる時などに意見を聞くと
明後日の方向からの視点をもらえたりして、
非常にありがたい存在だったのだ。

そんな彼らとの楽しくも刺激的なコミュニケーションを彷彿とさせるのが、この絵本。
冒頭からしてもう、ワクワクさせてくれる。

月曜日の算数の時間、フィボナッチ先生がいったのよ、
「みなさん、たいていのことは、
 算数の問題として 
 考えられるんですよ」


理系友人たちから学んだ私が思うに、これは真理である。
特に、一旦悩み出すとあれこれ余計なことを考えすぎて
ドツボにはまりがちな、そこの文系のアナタ!
これはたいへん実用的な発想転換法なので、覚えておいて損はない。
はいメモったメモった!

それでは、あなたを悩ます問題を今一度、整理してみよう。
それはなぜアナタを苦しめるのか?
しがらみにがんじがらめになった人間関係。こじれた恋愛関係。
多すぎる仕事。実力を発揮できない環境。
健康不安、経済的な不安…etc.
割り切れない思いに鬱々とした日々を送っているのは、
割り切れないのではなく割り切る為の解法を見落としているからではないだろうか?

まずは、落ち着いて現状のアドバンテージを探してみよう。
動かせない現実と、未知の可能性とを整理して、文字式にしてみよう。
ひょっとするとあなたの不安の正体は、限りなく発生確率の低い
未来のトラブルへの妄想に過ぎないかもしれない。
(ちなみに私の場合はたいていこのパターンなので、
経験を積んだ今は、いざという時この発想で頭を冷やし、
早めに落ち込みから脱出するように心がけている。)


算数の良いところは、どんな問題にも必ず至るべき唯一の解があることだ。
学校では模範解答として一番効率のよい解法を教えてくれるけれど、
人生でぶつかるたいていのことが算数の問題として考えられるならば、
その解に至る道は人それぞれ、千差万別でいいはずだ。
そもそも人生でぶつかる諸問題はどれも、必死で解決に至ったところで
果たしてそれが「正解」だったのか「不正解」だったのか、
死ぬ瞬間まで誰にも分からないものだろう。
だから、自信満々でも、不安でいっぱいでも、
今自分が出した答こそが正解だと信じて前に進むしかない。
多分、長い長い人生というテストの合否は問題の正答率ではなく
いかに本人が解を求める過程を楽しんだかにかかっているのだ。
泣いても笑っても同じなら、笑っている方が良いに決まっている。


ところで、前述の理系の友人に共通する項目、の話に戻るが、
この記事を最初に書いた2006年5月から8年ほど経過した今、
改めて自分の日頃の言動を思い浮かべてみると、
なんと私も3、4、5の全てが当てはまることに気がついた。
それは決して私が論理的思考のできる理系人間に近づいたというわけではなく、
ただ単に年相応に経験を重ねて図々しくなったということなのだろう。

でも、確かに以前よりも思考の取捨選択がしやすくなり
頭の中がスッキリしてきたという実感はある。
やりたいこととやれることの違いや、理想と現実の境界が
自ずと見えてくるようになって、無駄に悩まなくなったのかも知れない。
また、この歳になって分かったことの一つは、
大人になれば嫌でも抱え込むややこしい問題ほど、
算数の問題として考えれば、案外簡単に答えが出たりする、ということだ。

というわけで、私は改めてここで声を大にして伝えたいのである。
算数は生涯を通じて役に立つ、
誠に実用的な学問であるからして、
みだりに忌み嫌うべからず。


↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 14:00 | Comment(26) | TrackBack(0) | 目からウロコが落ちる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月27日

異文化に心躍らせるとき

ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん (日本傑作絵本シリーズ)ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん (日本傑作絵本シリーズ)
清水 たま子・文  竹田 鎭三郎・絵

福音館書店 2013-11-13
Amazonで詳しく見る
by G-Tools

我が家のすぐ近くに、有名な結婚式場がある。
大安吉日ともなれば、そこの売りでもある美しい日本庭園は
写真撮影の為に大移動する新郎新婦と招待客の集団でごった返す。
まして、「6月の花嫁は幸せになれる」なんていう、
バレンタインデーと同じく日本の商業主義に乗っかって広まった
およそ根拠の怪しいキャッチフレーズは今も素晴らしい効力を持つらしく、
この天候不安定な時節に、結婚式場は今日も大盛況なのである。

週末など、定点観測を決め込んでベンチに陣取り眺めていると、
着飾った老若男女の一団が分単位で入れ替わり立ち代わりやってきて、
なかなか楽しい時間を過ごすことができる。
最近のウェディングドレスの流行だけでなく
お呼ばれされた側のフォーマルウェアのあれこれを眺めたり
新郎新婦の年代や年齢差や招待客の顔ぶれなどから
勝手にあれこれ想像してみたり。
いわば野次馬根性丸出しなわけであまり趣味がいいとは言えないが
あちらもわざわざ衆目を集める出入り自由のガーデンウェディングを
選択しているので、これぐらいは許されるだろう。

ちなみに、ここの式場はそこそこ格式が高い場所とされていて、
言われてみればそれなりの階層の人々が集まっているようにも見える。
ということは、今どき政略結婚とまでは言わずとも、
もしやお家同士の訳有り結婚なんかもあったりして?
などと思うと、ますます妄想の翼は広がるのであった・・。

今日の絵本は、そんな季節にたまたま出逢った、
村と村とを仲直りさせた、まさにワケ有り結婚のお話。

およそ神話や伝説や伝承民話というものは、
前時代的な価値観だとか根拠の怪しい慣習だとかに基づいた話故に
ストーリー展開が荒唐無稽で辻褄が合わないことが多いのに、
どうしてこんなに人の心を惹き付けるのだろう。
今回とりあげるこの「ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん」は
現地の言い伝えなどから着想を得てはいるものの、
日本人の作家さんが創作された物語とのこと。
でもその内容は、ハッピーエンドにも関わらず、
そこに至るまでの展開に微妙に古い価値観が見え隠れしていたりして、
突っ込みどころ満載、という意味でも伝承民話的な面白みがあり、
物語絵本としての強い魅力に溢れている。
何より、メキシコの明るい陽光や美しい自然を彷彿とさせる
生命力溢れる鮮やかな色彩に彩られた挿絵が素晴らしく、
隅々まで眺めていたくなる素敵な絵本なのだ。

作者のあとがきによると、毎年6月最後の三日間、現地の村では
この物語のベースとなったウワベ族とチョンタル族の停戦協定にちなんで、
実際に生きたワニと人間の男性が村の教会で結婚式を挙げるという
お祭り?というか伝統行事が行われているという。
村人が代わる代わる、口をしっかりリボンで縛られたワニの花嫁を
抱いて踊るというその光景は、想像するだけで何ともスリリングで、
ドキドキするような不思議な異国情緒を沸き立たせる。

何とかその画像が見当たらないかと、舞台として名前の挙がっている
Oaxaca市やHuamelula村などのキーワードで画像検索してみたが、
残念ながら私にはそれと思しき画像を見つけることが出来なかった。
が、代わりに色彩の洪水のように目に飛び込んで来た
メキシコの華やかなお祭り画像の数々に圧倒され、
彼の地の熱気と花々の強い芳香を感じたように思った。
そして今夜私は再び、この絵本を開き、
遠い異国の風土を感じさせる魅力的な挿絵を眺めつつ、
今年も間もなく行われるであろう、
その不思議なお祭りに思いを馳せてみるのだった。

↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
posted by えほんうるふ at 17:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

まちがえるほどに強くなる

教室はまちがうところだ教室はまちがうところだ
蒔田晋治・作 長谷川 知子・絵

子どもの未来社 2004-04

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

もう十年も前のことだ。
私の子どもが初めて小学校に上がった時、
周りのお子さん達の出来の良さに驚いたのを覚えている。
ひらがなの読み書きはもちろん、漢字も書けて、
中には英語で流暢に挨拶できるお子さんもいたりした。
小学校に上がる前からお家やお教室でしっかりと準備をしてきたらしい、
そんな優秀なお子さん達にとっては、
公立小一年生の新学期の教室は毎日が晴れ舞台だっただろう。
初めての授業参観を見に行くと、
意気揚々と手を挙げる彼らの間に隠れるように、緊張した面持ちの娘がいて
それでも先生に当てられると小さな声で懸命に答えていて、
なんとか正解であったことにこっちまで胸を撫で下ろしたものだった。

こういう場面で、平然と手を挙げるのは自分に自信のある子ばかりだ。
煩いぐらいにハイハイと手を挙げて自分をアピールし
当てられる前から得意げに正解を口にする子がいるかと思えば、
早くも芸人魂を発揮して、ウケ狙いのボケをかます子もいた。
そうでないその他大勢の子ども達は、一様に俯きがちになり、
ソワソワとしているその姿が何ともいじらしいのだった。

今日の絵本は、そんなその他大勢の愛おしい子どもたちに伝えたい一冊。

教室はまちがうところだ

嗚呼、なんと素晴らしい言葉であろうか。
知らないというのは清々しいことだ。
そこに新しい知識や考えを取り込んでいく作業は、快感であるはずだ。
なのに、どんどん間違ってもいいはずのその学びの場は今や、
子ども達にとって、恐ろしく緊張を強いる場になっている気がする。
出来て当たり前、分かって当たり前の雰囲気の中、
小学校に入学したばかりの一年生もその親も、
はじめの一歩から恥をかくまいと必死になる。
本来学ぶことは楽しいことであるはずなのに、
スタートから出遅れを感じた子は、いきなり出端を挫かれて
学ぶことの新鮮な楽しさや喜びを、見失いはしまいか。
だとしたらそれは、なんともったいないことだろう。

学ぶことに終わりは無く、赤ちゃんも一年生も、
お父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、
人は生きている限り常に何かを学び続けるものだろう。
その道は人それぞれで、学び方も千差万別だろうが、
きっと誰もが経験を重ねて実感するであろうことは、
決して間違えないようにと注意して慎重に覚えたことよりも
間違いや勘違いや失敗から、その恥ずかしさや痛みから学んだことの方が
嫌でも身に付くし、結局は自分を成長させる糧となる場合が多い、

ということではないだろうか。
さらに、間違えることの素晴らしさは、
間違えれば間違えるほど、次の失敗が怖くなくなるということだ。
なんとかなる、ということを身を以て経験すること。これは大きい。
まして若い頃の間違いなんて、その後の生き方次第で本当になんとかなるのだ。

少なくとも、自分はそんなことの繰り返しで生きてきて、
気がつけば失敗を失敗と思わぬ厚かましさと
転んでもただでは起きぬ執念深さを身につけた・・ように思う。

間違いから学ぶ方が手っ取り早く、得るものも多いのならば、
遠慮なくじゃんじゃんトライアル&エラーを繰り返せばいいようなものだが、
誰でも大人になり社会に出れば、
その間違いが許されない場面というものに嫌でもぶつかることになる。
当然ながらそのプレッシャーは、新一年生の初めての授業参観の比では無い。
もちろん、そのここぞと言う場面で失敗する人だって山ほどいるし、
またそこから学ぶことのシビアさ大きさも別格だろうが、
じゃあ、間違ってもいいからドーンとやってみよう!というわけにはいかない。
なにしろ、被るダメージが大きすぎる。
その分、回復にかかる時間もお金も莫大すぎる。
残念ながらこの先の伸びしろもあまり期待できない。
なにより、
大抵の大人は、子どもほど強くないのである。

だから、いつの間にやらうんざりするほど大人になってしまった私は
子どもたちに、若い人たちに、声を大にして言いたいのだ。
教室にいるうちに、
間違いが許される今のうちに、
めいっぱい、思いっきり、間違っとけよー!!と。


↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

posted by えほんうるふ at 08:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月24日

春に救われる想い

ピッキーとポッキー (幼児絵本シリーズ)ピッキーとポッキー (幼児絵本シリーズ)
嵐山光三郎・文 安西水丸・絵

福音館書店 1993-03-25

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



桜が咲いたというだけで
僕らの何かが変わる
それは何かと問わないでここまで来た

このくにのどこが好き
このくにのどこが嫌い
そんなことを冬には思いもしない

「さくらのくに」石村吹雪・作詞作曲 より)


あなたは、自分の国が好きかと問われて、YESと即答できるだろうか。
子どもの頃の私は、無知故に、自分の国を好きかどうかなんて考えたことがなかった。
大人になった私は、色んなことを知り過ぎた為に、考えれば考えるほど、
その問いへの答えが出しづらくなった。
そしてとても残念なことに、年を経るにつれ、愛すべき祖国の嫌なところばかり
目についてしまうようにもなった。

それでも、一年に一度だけ、全く忌憚なく迷い無く心から、
日本が好きだ、日本に生まれて良かったと胸を張って答えられる時期がある。
それが、桜の季節である。

今年はうっかり、東京の桜の見頃を見逃してしまった。
旅先から帰ると、もう桜は盛りを過ぎて、雨風に打たれた枝の先に
しぶとく残る花びらが萎れ気味にくすんだ色を見せていた。
桜は散り行く姿も美しいものだが、こうなってしまうと
さすがになんともうら寂しい風情になり、見ていて切ない。
なんだかしょんぼりした気分になった私が
あわてて手に取った一冊の絵本が、
今日のお題、「ピッキーとポッキー」である。

ピッキーとポッキーは、
(作中でそういう説明はされていないが、どう見ても)
一卵性双生児のうさぎのきょうだい。
仲良しの2人がお隣に住む友達のもぐらのふうちゃんと
お花見に行く、というたわいもないストーリーのこの絵本に
幼い私はいたく心惹かれ、季節を問わず一年中愛読していた。

当時も今も、私がこの絵本で一番好きなシーンはもちろん、
主人公の2人がお花見に行くにあたり用意する素敵なお弁当が
見開きいっぱいに描かれたあのページである。
要するに、食いしん坊の私にとって花見とはすなわち、
「旬の食材で誂えた手作りのお弁当を
最高に美味しく頂く為にそれを食べるに相応しい場所へ赴く」
という
食ありきのエンターテイメントであり、
まさに花より団子そのものの行為である、
という刷り込みがこの絵本からなされたように思う。

それでも、何があろうと春になれば桜が咲く、そんな美しい国に育ち、
四季の移り変わりを感じ取っては寄ってたかって皆でそれを愛でようという、
一種の日本人魂のようなものが私の中にもそれなりに育っていったのだろう。
若い頃から集団行動や宴会の喧噪が苦手な私が、
お花見のどんちゃん騒ぎだけは何故か気にならず、
むしろその場に自分も加わりたいとすら思う。
それどころか、春の訪れを誰かと共に喜べるそのありがたさを、
この歳になってようやく、身にしみて分かるようになった気もするのだ。
なにより、なんだかんだ言って年に一度は、
「この国が好きだ!」と心から素直に思い直すことができる、
この貴重な年中行事の機会を、私は毎年心待ちにしているのである。



お花見シーズンのピークが過ぎると、いつも思い出す母の言葉がある。
「桜の木は健気でね、全部の蕾が花開くのを待ってから、散り始めるのよ。」

その話が本当かどうか確かめたことはないが、
その言葉を聞いた時から、大好きな桜の花がなお一層愛おしく思えるようになった。

どこかで桜が開花したと聞いては喜び、
誰もが、自分の住む町で満開になる日を今か今かと待ち望み、
その日がくればこぞって花見にくり出して昼も夜も花を愛で、
あっという間に散ってしまうその儚さまでも愛おしげに見送る。
日本人ならば大抵の人は、この一連の心の動きに共感できることだろう。
もしかしたら、散り行く桜までも愛でるその心の奥底には、
日当りの良い蕾もそうでない蕾も、
条件に恵まれた者もそうでない者も、
それぞれにその花を開かせる時を待ちわびて、
それを見届けた満足感を味わう気持ちがあるのかもしれない。


私にとっては、花見と言えばこの絵本なので、
毎年春が来る度にこのブログでも取り上げようとしてきたが、
何しろ桜は待った無しで、開花の声を聞いたと思ったら
あっという間に散ってしまうため、
結局間に合わずにまた来年と見送るばかりだった。
今年こそ、と思っていた矢先になんと、
この作品で初めて絵本を手がけられたイラストレーターの安西水丸さんが、
東京での桜の開花も目前という去る3月19日に急逝されてしまった。
突然のことに驚き、そして心から残念に思った私は、
せめて、なんとか追悼の意を表したいという思いから、
今年こそ、開花スケジュールとの連動など無視して
絶対にこの絵本のことを書こうと思ったのであった。

1976年の初版刊行から今もその輝きを失わず、
そして私の中のささやかな愛国心を五感から育んでくれた、
素晴らしい作品を遺して下さった安西さんに、心からの哀悼の意を捧げたい。
ありがとう安西さん、
天国のあなたにも、毎年春には、満開の桜が見えますように。


↓お気に召しましたら、クリックで更新励ましの一票を!!↓
人気ブログランキングへ にほんブログ村 本ブログ 絵本・児童書へ にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

posted by えほんうるふ at 06:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする