2015年06月23日

やっぱりロバが好き

わたしのろば ベンジャミンわたしのろば ベンジャミン
ハンス・リマー 文
レナート・オスベック 写真
松岡享子 訳
こぐま社 1994-07

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使っているアイコンとニックネームのせいか、
私の好きな動物と言えば、もちろん狼だろうと想定されることが多い。
それは確かに間違いではないのだが、
実は私には狼と並んで偏愛する動物がいくつかいて、
そのひとつが、ロバなのである。

彼らは馬ほど美しくはない。
むしろ不格好で不器用で、古今東西の童話や物語においても
残念なルックスや愚鈍なキャラの代名詞のような扱われ方。
けれどその瞳はどこまでも澄んでいて美しく、
気はやさしくて力持ち、そして焦れったいほどのお人好し。
さらに彼らを人に例えるなら、
普段は無口で目立たず裏方に徹しているようで、
表立った自己主張やスタンドプレイはせずとも、
ただその存在感だけで周囲を安心させてくれるような人。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
・・と、まさに、
かの有名な宮沢賢治の詩に表された人物像そのものである。
とにかく、たとえ周囲からバカにされようと
いつも変わらず振り向けばそこにいてくれる、
実は誰よりも信頼できる人物、のように思える。

もちろん絵本の中にも、そんなイメージのままに描かれた
愛おしく頼もしいロバたちがたくさんいる。
今日はその中で、私の一番お気に入りのロバの話をしよう。

「わたしのろば ベンジャミン」
そのタイトル通り、この絵本の主人公の幼いスージーには
いつもやさしく彼女に寄り添うロバ、ベンジャミンがいる。

ベンジャミンは何をするわけでもない。
ものも言わず、家畜としての使役もせず、
ただただいつも、スージーのそばにいるだけだ。
ベンがスージーに寄り添うその姿は常に奥ゆかしく、
潤んだ大きな瞳はいつも伏し目がちで、
それでもいつもやさしい光をたたえている。
そしていつもさりげなく、スージーに寄り添っている。

小さなスージーはそんなベンが大好きで、
全幅の信頼と共に無邪気に甘え、好き放題をする毎日。
その様子はまさに(ちょっとあざといほどの)
天真爛漫さに満ちていて、たいへんに微笑ましい。
一方、物言わぬベンジャミンは、無邪気なスージーが
あれやこれやと構ってきても為すがままになっている。
そして、大人の目には見るからにロバにとっては
ありがた迷惑だろうと思えるような所業でも、
不思議とベンジャミンは迷惑がっているようでも、
耐え忍んでいる様子でもなく、
むしろそれこそが彼の喜びであるかのように、
120%の慈愛でもって受け入れているように見える。

こうしてスージーとベンジャミンは、表現は真逆でも
お互いを思う気持ちをまっすぐに相手に捧げているのだ。
要するにこの二人はラブラブなんである。

それでも、どんなに心広いベンジャミンでも、
時には一人になりたい時がある。
そして、唐突にその日は訪れる。
「まったくもう、やってらんねーぜ!」とばかり、
ふらっとスージーの元を離れるベンジャミン。
もちろんスージーは大パニックだ。
必死で愛するベンジャミンを追いかけ追いつき、
しおらしく彼に一緒にいたいと懇願してみせる。
快諾しつつも、ちょっと強気に自分の我を通すベン。
立場が逆転したように、黙って彼についていくスージー。
こうなるともう、この作品ならではの
地中海に浮かぶロードス島の美しい背景もあいまって、
まるで古いイタリアの恋愛映画を見せられているようで、
私の枯れかけた乙女心がキュンキュンしちゃうのである。
とはいえこれはやはり絵本なので、映画のように
主人公がひと夏の恋でちょっと大人になる・・・
なーんてわけもなく、甘えん坊のスージーは
そのまま甘えん坊のまま、微笑ましくハッピーエンドを迎える。

まーそれでも、よいではないかよいではないか。
だってロバだもの!とにかく可愛いんだもの!!
カワイイは正義だ!とここで思わず私のロバ偏愛の血が騒ぐ。

だがしかし、ご想像の通り私のロバ愛にはそれなりに拘りがあり、
ロバが出ていりゃーなんでもいい、というわけではない。
私が思うロバの愛らしさがしっかり表現されていなければ、
たとえロバが主人公であろうと私の食指は動かない。

ちなみにベンジャミンは、人間の幼児のスージーに比べたら
ずいぶんと大きな身体だけれども、まだ子どものロバだ。
モノクロームの写真から見えるベンジャミンの佇まいは
やはり幼くて、なんとも愛くるしい。
私は年老いたロバの哀愁漂う姿にも目がないのだが、
子どものロバの可愛さときたら異常である。
しかもベンジャミンは写真で出てくる。反則である。

さて、そんな偏屈ロバ愛の持ち主である私がオススメする
世界の三大ロバ絵本といえば、今日ご紹介したこの「わたしのろば ベンジャミン」の他に、
・フランソワーズの「ロバの子シュシュ」
・バーバラ・クーニーの「ロバのおうじ」
の二冊を挙げておこう。とにかくロバ好きにはたまらない作品である。

というわけでもしこれを読んだ同好の士で
私に薦めたいロバ絵本をご存じの方がいらしたら
是非とも教えていただきたく、よろしくお願い致します。
posted by えほんうるふ at 18:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

今の自分にできること

ペレのあたらしいふく (世界傑作絵本シリーズ―スウェーデンの絵本)ペレのあたらしいふく (世界傑作絵本シリーズ―スウェーデンの絵本)
エルサ・ベスコフ

福音館書店 1976-02-03

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現代日本の都会に住む私は、
生活必需品はほぼ不自由なく手に入る環境にいる。
そうしてごく当たり前に便利で快適な生活をしているけれど
思えば私が日々享受しているモノやサービスの全ては、
計り知れないほど多くの人の手を介して私のもとに届いたものである。
恐らく、今私の身の回りにある大量のもののなかで、
私がゼロから自分一人の力で作り出せるものなど、
ひとつもないだろう。

今日の絵本「ペレのあたらしいふく」が制作されたのは、
なんと今から100年以上前の1910年代のスウェーデン。
衣食住の全てが人の手を介し、目に見えるところで回っていた時代。
もちろん、今とは比べ物にならないほど、
人々は日々の暮らしに骨を折っていただろうに、
そこに描かれる地に足の着いた生活の美しいことといったら!

そんな時代のスウェーデンの片田舎の農村(と思われる地)
に暮らすペレ少年は、子羊を一匹飼っていた。
彼はその羊を自分だけのものとして、
全ての世話を自分一人で(ここ大事)取り仕切っていた。

ある日ペレ少年は、自分の成長と共に服が小さくなったことに気づく。

ここで、現代日本の同じ年頃の子供たちならきっと、
親に新しい服がほしいと訴え、
親は瞬時に新しい服を購入して子に与えるだろう。
いや、そもそも子供自身がそれを要望する以前に、
親の方が気がついてさっさと新しい服を着せるのかもしれない。

ところがペレ少年は、全く違う、驚きの行動に出る。
幼い彼は、自分で不足に気付き、それを解消するために
自分にできることを考え、さっそく取り掛かったのだ。
つまり、自分が持っている羊の毛を新しい服の素材とすべく、
自らそれを刈り取り、しかるべき工程を辿っていったのである。

ここからの、ペレの羊の原毛が多くの人の手を介し加工され、
ついに新しい素敵なウールのスーツが完成するまでの
丁寧かつ無駄のない描写は、まったく見事としか言い様がない。
人々の手仕事が連なり、ゼロから何かが作り出される様子は、
何度見ても本当にワクワクするものだ。

もちろん、幼いペレにできることは限られていた。
だからこそ彼は、自分でできることは自分でやり、
出来ないことは、人にやってもらう代わりに、
その人に自分が出来る範囲の労働力を差し出したのである。
なんという賢さ。なんという生活力。
DASH村のお兄さん(おじさん?)たちも顔負けである。
ひょっとすると、今あなたの隣にいるお金持ちの男性よりも、
ペレは頼りになる男かも知れない。

お金さえあれば何でもできる時代に生きる便利さは、
お金がないと何もできない人間になりさがるリスクを伴う。
そのことに気がついて、思わずぢっと手を見る私であった。


その一方で、この絵本の持つ力強くあたたかいメッセージは、
読む度に、子どものみならず大人をも励ましてくれるのだ。

いや、むしろそれは、大人の心にこそ響くものかも知れない。

口には出さなくとも、大人は大人なりに、
きっと誰しもが無邪気で大胆な夢を持っている。
けれど、己の無力さを知るほどに、
やりたいことがあっても、欲しいものがあっても、
どうせ自分の力では到底及ばないものと、
最初からあきらめてしまうようになる。
それこそが大人の分別として、自分を納得させるようになる。

けれど、私はこのペレのお話を読む度に、
どれほど大それた、人に話せば笑われるような夢でも、
とにかく今自分にやれることをやる、という
シンプルで間違いのないスタート地点を照らされる思いがして、
まるで恐れを知らぬこどものように、
根拠の無い勇気と元気が湧いてくるのだ。

今の自分にできないことを思い悩むより、
今の自分にできることを見つけて、夢中でやってみる。
きっとその方が、人生は楽しい。

posted by えほんうるふ at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 元気が出る絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月25日

大人絵本会5周年に寄せて

わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)
谷川 俊太郎 ぶん 長 新太 え

福音館書店 1981-02-02

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ネットで知り合った人に会いに行く。
と、その時、それまでさんざん活字でやりとりを重ねていた相手が、
いざ実際に会ってみるとこちらの想像とはかけ離れた実像だった、
という顛末は、誰しも多少は身に覚えがあることだろう。

私はわりあい文字情報から相手を推し量ることが得意なのか、
これまでのところ、対面のその瞬間に相手を見て
極端にびっくりさせられることはなかった。
ところが逆に私自身は、初めて実際に会った相手に、
こちらが恐縮するほど驚愕されてしまったことが何度かある。

これは、いったいどういうことなのだろうか。
別に誰かを欺こうと敢えて別人格を演じているわけもなく、
プライバシーやセキュリティを考慮して
自分についての情報の開示範囲や表現を変えているだけなのに
人々の受け取り方、その読み取り方は、驚くほど多様だ。

そもそも、人はいったい何をもって相手の属性や人となりを、
或いは自分との関係性を判断しているのだろう。

ごく単純に実社会での人間関係を思い起こせば、
相手が誰であれ最初は出会った時の状況がそのまま、
自分と相手との関係を明示している。
何しろ目の前にいるのだから、分かりやすい。
なんなら、その場で相手に確かめることもできる。

ところが、ネット経由の関係ではそうはいかない。
一つの言葉の真意を前後の文脈から判断するように、
自分と相手だけでなく、出会った場所や時間や状況などの
バックグラウンドを含めた情報を受け取れるリアルの関係と違って
画像であれテキストであれ、所詮データ化された断片情報しか
受け取ることのできないネット経由の関係では、
お互いのID認識が著しく乖離するのも無理はないだろう。

ただ、実社会であろうとネット上であろうと、
出会った関係の全てに共通していることがひとつある。
自分で認識しているつもりの「あなたから見たわたし」と
相手が認識している「わたしから見たあなた」は、
常に変化し続ける
ということだ。

一期一会のスタートの瞬間から、付き合いが長くなり
付帯情報が増えるにつれ、お互いの認識は変わる。
故に、どれほど長い付き合いになったとしても、
常にそれは、どこかしら食い違い続けるものなのだろう。
そしてその「永遠の分かり合えなさ」こそが、
人と人との関わりに豊かなドラマを生み出し、
人生を喜劇あるいは悲劇たらしめているのかも知れない。


ところで、たいへん面白いことに、人間関係構築においては
限られた情報源でしかないはずのネットを介して、
リアルでどれほど顔を合わせても知り得なかった相手の本質が、
恐ろしいほど赤裸々に露呈されてしまうことがある。

その一例が、ツイッターである。
バカ発見機などと揶揄されて久しいこのSNSは
誰でも気軽に思ったままを即全世界に向けて発信してしまえる為、
何気ない一言の呟きでめでたく人生を棒に振ることもできる。

ちなみに、私が主宰をしている大人絵本会という月に一度の
ツイッター上の宴会でも、一冊の絵本について参加者それぞれが
好きなことを好きなように語っているだけなのに、
恐ろしいほど各人のキャラクターや人生観が露わになってしまう。
おそらく、参加者の誰一人とも面識のない人でも、
ログを眺めているうちに、おぼろげながらも主な登場人物、もとい、
常連参加者たちの人物像を掴んでしまうのではないだろうか。

いみじくも、前回の締めにこんなことを呟いてくれた人がいた。

「大人絵本会が進むうちに、絵本が好きな、やさしい人たちの奥底に潜んでいる、こだわりや好み、さらには生きかたまでもが投影されていく。『注文の多い料理店』のように、ふと気づくと、身ぐるみはがされ、食べられかけたりしてることも。だから、本当は怖い大人絵本会です。」
( tweeted by @bluebirdland )


「本当は怖い大人絵本会」
このフレーズを、私は非常に気に入っている。
気がつけばこの会はこの春5周年を迎えるのだが、
これからもずっと、そんなスリリングな
オトナのコミュニケーションの場でありたいと願っている。

さて、五周年記念回となる、今夜の大人絵本会のお題は
谷川俊太郎さんと長新太さんの名作、「わたし」である。
いつものみんなも、はじめましての方も、
あなたにとってのわたし、わたしにとってのあなたのことを、
いつものように好きなように好きなだけ、語ってください。

*ちなみに本日のお題「わたし」についての過去ログはこちら
posted by えほんうるふ at 17:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

美しき伝説のバカップル

キューピッドとプシケーキューピッドとプシケー
ウォルター ペーター作 エロール ル・カイン絵

ほるぷ出版 1990-08-20

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私の若い友人に、とてもキュートな女性がいる。
容姿端麗、人当たりも抜群で話題も豊富の彼女を、
周りの男性陣が放っておくわけもなく、
まあ常に恋バナには事欠かない様子である。

そんな彼女は私と顔を合わせる度に、
その整った額を歪め、はぁぁと大きなため息をついて語り始める。

「もおー、聞いてくださいよ!彼ったらぁ・・・」

という調子で始まるその話の8割以上は、
いかに彼が困ったちゃん野郎か、
そんな彼に何故か尽くしてしまう自分がいかにアホか、
さらにはそんなアホ男子の彼が
どれほど自分にぞっこんでいるか、
という話に終始する。
要するにほとんどが愚痴を装ったノロケである。
なによりご苦労なことに、
彼女はこういった日々を過ごしつつ
時に第三の男の出現と消失を交えつつ、
結局は同じ相手と別れたりくっついたりを繰り返すのである。

彼女が別れの危機を口にする度に、
私はそれなりに真剣に話を聞き、
時にはごく常識的かつ率直なアドバイスを伝えたりもする。
すると、
やっぱりそうですよね、人生の先輩さすがですぅー!と、
その時はさも有り難くそれを拝聴する素振りを見せつつ、
結局は彼女は全てを聞いていなかったかのごとく
あっけなく、悪びれずに
「アンタそれやっちゃ意味ないでしょ」という行動に出る。

嗚呼、なんというおばかさん。

さて、意外に思われるかも知れないが、
こういう分かりやすいおバカさん女子が、私は嫌いではない。
恋する人間は概ねバカである、ということを
こんなにも無防備に体現してしまっている人は
今や私の身近には珍しく、
むしろ清々しいというか、羨ましいような気すらする。

それほどまでに、恋は人を愚かにするのであろう。
だからこそ、その成就は得難く、
全ての人間にとって普遍的な憧れの対象であり続けたのだろう。

ちょっと話を美化しすぎだろうか?
いいのだ、今日はそういう方向で行くと決めたのだ(笑)


恐らく人間がもっと素直ないきものだった頃の
ずっとずっと昔の先人たちは、
人が根源的な欲求に基づいて至上の愛を求める気持ちや、
その抗し難い魅力を神聖なるものとして最大限に評価し、
その愚かしさをも美しく語り継いできた。
その大いなる遺産を今でも感じ取れる素敵な絵本がある。

今日ご紹介する絵本「キューピッドとプシケー」は、
今から100年ほど前にイギリスの作家ウォルター・ペーターが
ギリシャ、ローマ時代の神話を元に書いた物語に、
「イメージの魔術師」との異名を持つ稀代の挿絵画家、
エロール・ル・カインが美しく幻想的な挿絵をつけた作品である。

正直なところ、挿絵の美しさに心惹かれて手にとったこの作品を
読み終えた私が最初に感じたことはまさに、
うっとり〜、どころか、
嗚呼、 なんというおバカさん!
という、呆れに似た気持ちだった。

その半ば呆然とした気持ちのまま後書きを読んでみたら、
そこにもやっぱり主人公たちがいかにアホかということが
述べられていて笑ってしまった。
でもそれを超えて受け入れたくなる美がそこにはあると。

いずれにしろ、外野がどれほどバカなふたりと嘲ろうと
周りが見えぬほど幸せな二人にとってはどうでもいいことなのだ。
馬鹿になれるほどの恋をしている彼らは
誰が何と言おうと美しく、最強なのである。


ところが今や人々はあまりにも忙しくなり、
あまりにも多くの暇つぶしを手に入れてしまった。
おかげで、恋の歓喜と官能とを手に入れるために
ややこしく面倒なあれやこれやを受け入れたり、
愚かで不条理な自分に成り下がるぐらいなら、
最初から手を出さずにお利口さんでいようという
賢い小心者ばかりが増えてしまったのだろうか。

それでも、この絵本のヒロインのように、
運命の恋の前では、
「 経験から何も学ばず、いつまで経っても賢くならない。」
どんな人間もそうなってしまうのかもしれない。
いや、私はそうであって欲しいと思う。
その方が、この世界が美しく見えるような気がするから。

posted by えほんうるふ at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

憧れの秘湯

旅館すずめや旅館すずめや
雨宮 尚子 作

白泉社 2009-01

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私の自宅には和室がない。
家族4人で都心のマンションに引っ越した際、
諸条件をクリアした物件はただでさえ収納も部屋数もギリギリで、
物を置かない事が前提の畳敷きの部屋を有する余裕などとても無かった。
あれからもうすぐ10年になる。
フローリングばかりの今の我が家の生活に不満はないものの、
気が付くと、実家に帰省した際や、友人宅や旅先で、
何気なく和室に通された時に感じる安堵感が半端ないのだった。
い草の触感の心地よさに思わず嘆息し、
ああ、ありがたい。
なんて呟いてしまったり。歳だろうか。

自分が生まれ育った家も、畳敷きの部屋こそあったが、
和の歳時記を一つ一つ丁寧に執り行うような余裕や洗練とは無縁だった。
母は和服が好きでそれなりに数も持っていたようだが、
父と共に自宅兼店舗の商売を切り盛りし4人の子を育てるのに精一杯で、
年に1度も袖を通した姿を見たことがなかった。
そんな家に育った私は今でも、
持っている和服は嫁ぐ際に母が誂えてくれた喪服一式のみで、
それすら実家に置きっぱなしの体たらく。

そんな、いい年して次世代に美しい和の世界を継承できる見込みが
まるでない残念な日本人の自分なのだが、
何故だか不惑を過ぎるあたりから妙に和物に心惹かれるようになった。

自分が実際に幼少時に使っていたわけでもないのに、
火鉢やら囲炉裏やら小引き出し等の和家具はもちろんのこと、
陶の器や和服地の小物、千代紙にお手玉、干菓子に練り切り・・・
まるでアンテナでも立っているかのように、
どこへ行ってもいち早く目に止まり、
しばしうっとり見つめてしまうのだ。
これまでの実生活でそう馴染みがあるはずでもない雑貨たちに
これほど心奪われるのは、
やはり、この国に生まれ半生を過ごした者なりに、
心のどこかに刻まれた和物魂が疼くのだろうか。

さて、今日の絵本、「旅館すずめや」は、
そんな私の遅咲きの和物愛を激しく刺激する絵本である。
すずめのおかみが切り盛りする旅館「すずめや」の冬の一日を、
細々とした雑貨と共に紹介するという他愛もないストーリーなのだが、
とにかく、切り絵で表現された和物の絵柄の愛らしさに悶絶する。
また、読み進むほどに、秘湯の宿「すずめや」の
ありそうで絶対にない超絶のおもてなしっぷりに
大人の乙女心がツンツンされること請け合いである。
おまけに、巻末に「和の小物型録」と題した見開きがあり、
各ページに描かれた小物をピックアップして紹介しているという
まさに和物好き雑貨好きの痒いところに手が届く親切仕様。

寒い季節に可愛い和物を眺めて心を暖めるなんて、
若い頃には思いもつかなかった発想だが、
「おこたでみかん」すら縁遠い生活をしている今の自分には
熱い日本茶を啜りつつこの絵本をにこにこと眺める時間が
ささやかな贅沢に思えたりもするのである。
そして最後にはきっとまた呟くのだ。
ああ、温泉行きたい。

posted by えほんうるふ at 11:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月16日

ぶれない生き様

クリスマスのおくりものクリスマスのおくりもの
ジョン バーニンガム John Burningham

ほるぷ出版 1993-11
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例年この時期にはクリスマスにちなんだ絵本を採り上げている。
今年は何にしようかな、と考えた時、たまたま思い浮かんだお気に入りが
今日の絵本、ジョン・バーニンガムの「クリスマスのおくりもの」であった。

これまでこのブログでは、どの絵本を採り上げたときも、
のっけからいきなりその作家への愛を叫ぶことはなかったと思うが、
久々に大好きなこの絵本を手にした途端、やはり叫びたくなった。

私は、バーニンガムの絵本が大好きだ!

なぜ私は彼の作品が好きなのか?
一言で言うとそれは、
彼の描く主人公がいつも、
自分の進むべき道に対して迷いがないからである。
私の大好きな彼の作品に出て来る主人公は、
生まれついた属性や置かれた境遇や降り掛かる災難にも関係なく、
皆一様に清々しいほどのぶれない生き方をしているのだ。

例えば、過去にこのブログでも採り上げた、
「いつもちこくのおとこのこ・・」の主人公ジョン。
人生バラ色とは言いがたい、むしろ閉塞的とも言える境遇で
ぞっとするような毎日を生きることを強いられていても、
彼はその宿命を受け入れ、何があっても淡々とやるべきことをやる。
その清々しいほどのぶれない生き様が、何ともかっこいいのだ。
そしてそのイカした生き様は、私の好きなバーニンガム作品の主人公、
コートニー、アルド、シャーリー、シンプ、ガンピーさん・・・
なんと、しっかり皆に共通しているのである。

そしてさらに、ろくにもの言わぬ主人公に代わって、
その時その時の彼や彼女の心象を表すような、
圧倒的な色と筆致で描かれる、饒舌な背景。

即ち、キャラクターと、画力。
これが私にとって、バーニンガム作品の何よりの魅力である。
そしてもちろん、バーニンガムがクリスマス絵本を描けば、
サンタクロースもまた、この愛すべき魅力を備えた人物となる。

そんなわけで今日の絵本は、例えどんな障害に阻まれようと
任務を遂行すべく迷い無く突き進む、カッチョいいサンタのお話だ。

一年に一度の大仕事を終え、疲れきって帰宅したサンタクロース氏。
ところが、袋の中にたった一つ、配りそびれたプレゼントがあった。
もちろん、彼は迷うこと無く、すぐさま再び家を出る。
やるべき仕事をやり通す為に。

何度となく災難に見舞われても、彼は決して諦めない。
逡巡の末、或いは、失敗を繰り返した挙げ句の挫折という、
普通の人間の人生にはありがちな展開が、ここにはない。
そしてそんな彼の行く手に必ずや現れる希望の光・・・。

絵本の中でしかあり得ないその強さ、
読む者の期待を裏切らない嬉しい超展開に、
凡人の私はうっとりと憧れ、
思うようにならぬ現実をしばし忘れて心を遊ばせることができる。
私はこんな素晴らしい作品に出逢う度に、
絵本はオトナにこそ必要な「心のおやつ」なのだと思う。
posted by えほんうるふ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | カッコイイ絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

母のおにぎり

おにぎり (幼児絵本シリーズ)おにぎり (幼児絵本シリーズ)
平山英三:文 平山和子:絵

福音館書店 1992-09-15

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平山夫妻の絵本「おにぎり」をテーマに記事を書こうとして、
このブログを始めて間もない頃に既に採り上げていたことを思い出した。

*過去ログ → 究極のおにぎりとは

絵本のレビューとして書きたい内容は既にこちらに書いたので、
今回は私自身の母のおにぎりの記憶と、
それに関連して最近気がついたことを改めて記しておこうと思った。


私の母の作るおにぎりは、丸かった。
丸いのに綺麗に海苔が巻かれていたような記憶がある。
いつも忙しい母は、腹を空かせた4人の子供達を待たせまいと、
コロコロとリズミカルに掌の上で転がしながら
ホレボレするような勢いで次々と全く同じ形大きさの
丸いおにぎりを握っては皿に並べていたものだ。

高校生の頃だったろうか、自分で弁当を作るようになった時、
料理上手な母への反抗心だったのだろうか、
何となくやってみたくて、わざと三角のおにぎりを作ってみた。
意外と簡単に出来て、私はほくそ笑んだ。
海苔も巻き易いので、それ以来私の作るおにぎりは三角形に定着した。

つい先日、ふと思いついて、
母が作っていたような丸いおにぎりを作ろうとしてみたが、
思うように握れなかった。
どうしても歪な丸になってしまい、母が次々と作っていた
あの綺麗で手にしっくりと馴染むやさしい丸形にならないのである。
全体に均等なアールを付けようとやっきになっているうちに、
握っているうちに具の配置が偏ってしまったり、
米粒が潰れて妙に歯ごたえのある固いおにぎりになっていたりする。

そして私は気がついた。
実は角を付けて握るより、まんべんなくまあるい形を
綺麗に作るほうが難しいのだった。
三角のおにぎりなら、何となくでも角さえ付いていれば
おにぎりとしての最低限の体裁は保たれるような気がするのに、
丸いおにぎりの場合、丸みのバランスにちょっとでも崩れがあると
妙に目について、やたらと無様な握り飯に見えてしまう。
人間の目の認知能力はとても素晴らしくて、
実は角より丸の方が、ごまかしが効かないのである。

いや、もしかするとそれは、視覚的な問題ではなく、
気持ちの問題なのかもしれない。
角はそもそも須く崩れるものだから、多少の歪さは仕方ない。
(というか、寸分違わず同じ大きさ同じ角度の三角のおにぎりが
手作りで量産されていると、逆にちょっと人間味を感じないというか、
まるでロボットの仕事のように思えてしまうのは私だけだろうか。)

でも、丸は丸いことに意義があるのだから、
少しでも崩れていると、どうにも心が落ち着かない。
どうにかして、美しい完璧なまんまるを追求したくなってしまう。
機械ではないのだから、どこにも歪みの無い究極の丸なんて
出来るわけないと、頭では分かっているのに・・・。

実家は商売をやっていて、母は常に時間に追われていたが
子供に食べさせる食事だけは、いつも精一杯手をかけてくれていた。
でも、私が食事の支度を手伝うとかえって邪魔をするばかりで、
自分でやった方が早いと苛々と私の手元を見つめる母の視線に耐えられず、
私はすごすごと引き下がって見学者に戻るのが常だった。
かと言って「ただ見てるだけ」の娘も母には面白くなさそうだったので、
触らぬ神になんとやらと、やがて台所に寄り付かなくなった私だった。

そんな、穏やかさとは無縁の日常を必死で取り回していた母がいつも
作っていたのは、角ばった三角ではなく丸いおにぎりだったのだ。
それは、見事に揃った、美しい丸いおにぎりだった。
あっちもこっちも歪みだらけで、今にも崩壊しそうな家族を支えながら、
母は何を思いながら日々それを拵えていたのだろう。
気丈な母の切なる願いを、今さらながら思い知ったような気がする。


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2014年10月24日

いつか木になれるその日まで

きはなんにもいわないのきはなんにもいわないの
片山 健

復刊ドットコム 2014-09-19

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我が息子はいわゆる脳内ダダ漏れタイプの人間である。
彼は、目に入るものやその場の思いつきの全てを即、
言葉にせずにはいられないらしく、
朝から晩まで、こっちが聴いているかどうかはお構いなしに
一人で延々とマイペースにしゃべり続ける。
あまりにも煩いので、今までに何度も
「あのさー、ちょっと集中したいから黙っててくれない?
じゃあ、君がどれぐらい黙っていられるか、計ってみようか?
と言って目の前でタイマーをオンにしてみたことがあるのだが、
なんと2分と黙っていられないのであった(笑)

どちらかというと静寂を愛する私や娘にとって、そんな息子の存在は、
消したくても消せないつけっぱなしのラジオみたいなもので、
彼が合宿等で長期不在ともなると、
家の中の静けさに思わず顔を見合わせて
「ああ、静かでいいねぇ・・・」とうっとりしてしまうほどだ。

そんな息子が中学生になって半年が過ぎた。
先輩ママさんたちの話では、
男の子は中学生にもなればだんだん家では無口になり、
親ともロクに口をきかなくなるとのことだった。
私はそれを聞いた時から息子の激シブ進化を心待ちにしていたのだが、
なぜか一向に、奴が無口になる気配がない。
相変わらず、食ってるときと寝てる時以外、ラジオは常時つけっぱなしだ。
どういうことだ!?

とは言え。
息子に言わせれば、私の方こそうるさい母親に違いない。
それこそ、もう中学生になったと言うのに。

あああ。だって、どうして黙っていられようか?!

宿題、終わったの?
弁当箱、出した?
汗だくのユニフォーム、またどこかに入れっぱなしじゃないの?
脱いだ服は置き場はそこじゃないよ!
ゴミはゴミ箱あたりに捨てるんじゃ無くて、中に捨ててくれない?
歯、磨いた?え?じゃあなんで口の周りに色々ついてんの?
学校から○○が配布されてるはずなんだけど・・?
定期テストまであと○日なんだけど、知ってた?
・・・

ええ、ええ、そりゃあ煩いでしょうよ。
でもでも、これでも、極力何も言わないよう、
あるいは要らぬ非難を言葉に含めないようにと、
母は日々努力をしているのだ。
君にはそうは見えないだろうが。

そんなわけで、今日の絵本は
私にとっては、永遠に叶わない憧れであり、
羨ましくももどかしい、
絵本だからこそありえるような、
理想の親子関係が描かれている作品だ。

主人公のすーくんは、父親と遊びにきた公園で、無邪気に乞う。

「ねえ おとうさん きに なって。」

そして言われた通り、父親はその場で息子のために「木になる」のだった。
木になったおとうさんは、すーくんがなかなか木に登れなくても、
何を見ても何を問いかけても何に驚いても何を懇願しても、
決してなにもしない、なにもいわない。
だって、

(きは なんにも いわないの)

だから。

木になったおとうさんは、
手も出さない、口も出さない。ただそこにいるだけ。
それでもすーくんは、そんなもの言わぬ父親の、
渾身のサポートを全身で受け止めている。
そのままの自分を受け止め、信頼して黙って見守ってくれること。
それは、幼い少年をどんなに勇気づけることだろう。
だからすーくんは、のびのびと五感を解放し、
試行錯誤を繰り返しながら一人で目的を達成してみせる。

かぜが ふいて います。
そよそよ そよそよ。


ああなんて、夢のように美しい親子像だろう。

嗚呼、できることなら私も、木になりたかった。
いや、今からだって、なれるものならなりたい。
この父親のように、
何も言わずに、母なる大地のように、
あるいは泰然とたたずむ巨木のように、
ただただ慈愛と寛容の権化となり我が子を見守っていられたら・・・

無理。

残念ながら、子どもを育てる、あるいは共に暮らすことの現実は、
この絵本のように長閑で優雅なものではない。
少なくとも、私の場合はそうだった。
それこそ、毎日が待った無しのエキサイティングな攻防戦であり、
だからこそ、やりがいもあり面白くもあり、時に投げ出したくもなった。

でも、もしかしたら、こんなやり方も出来たのかもしれない。
或いは、いつか親も子も成長すれば、
こんな風に穏やかな日常が、我が家にも訪れるのかもしれない。

シビアな現実の子育てにお疲れのお父さんお母さんが、
この絵本に描かれた夢の世界を想像して、
遠い目になって、ちょっと一息つけたらいいと思う。
子どもが生きるのにファンタジーが必要なように、
大人にだって、いや大人にこそ、
時にはこんな極上のファンタジーに浸って
心を遊ばせる時間が必要に違いないのだから。

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posted by えほんうるふ at 03:09 | Comment(2) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月25日

死に至る幸福感

きつねのおきゃくさま (創作えほん)きつねのおきゃくさま (創作えほん)
あまん きみこ 二俣 英五郎

サンリード 1984-08-20

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絵本に出て来る擬人化された動物たちの多くは、
自然界のセオリーを無視した行動をとる。
年少向けの絵本では、あっけらかんと
肉食動物が本来獲物であるはずの小動物と仲良く暮らす様子が描かれる。
それが、だんだんと対象年齢が上がり、作品の内容が複雑化するにつれ、
「この物語はフィクションです。」の免罪符のもとに、
あえてその生物学上のタブーを逆手にとったドラマが好んで描かれる。
捕食者と被食者が奇跡の友情を育んだり、
たまさかの疑似家族、果ては禁断の疑似恋愛・・なんでもござれだ。

それがぱっと見には絵的に無理が無いように見えてしまうのは
所謂擬人化マジックのなせる技なのだろうが、
私はむしろ、人間こそがこういった弱肉強食のルールには
シビアな生き物だと思っている所為か、
基本的にこのあざとさに生理的な気持ち悪さを感じてしまう。
この件については
過去のエントリー
で散々述べたので詳細は割愛するが、
これら自然界の法則をガン無視もしくは妄用する絵本の中にも
なぜか私が妙に気に入ってしまう作品があり、
今日はその一冊を紹介しようと思う。


今日の絵本、「きつねのおきゃくさま」は
小学校低学年向けの国語の教科書にも採り上げられる、
いわばお上のお墨付きの日本の名作童話である。
時間の無い人の為にそのストーリーを雑に説明すると

「獲物にするはずの小動物におだてられていい気になったキツネが
調子に乗って彼らを守る為に狼と闘って死んでしまい、
残された者達が墓に手を合わせ涙を流す」


という素晴らしく分かり易い悲劇である。

まさに正当派御涙頂戴物語ともいえそうなこの作品に、
私としたことが、まんまと一読で号泣させられてしまった。
なんだか悔しくなってその理由を探ろうと
険しい顔で最初から順番にページをめくり直していくと、
とあるページであっけなく私の涙腺は再び決壊した。

そのばん。
きつねは、はずかしそうに わらって しんだ。


・・・・・

カ、カッコつけたまま死んでんじゃねーよ!

ううう、こんなお約束展開にまんまと泣かされるなんて。
バカヤロー、おまえのせいだー!!

しかしここで私は、気付いたのである。
私がこの作品に心を鷲掴みされた理由を。

この物語は、決して、ファンタジーの世界にしかいない
現実離れした心優しいきつねの物語ではない。
むしろこのきつねは、私やあなたと同様、
弱くてずるくて自信の無い、器の小さい奴だ。
そいつが、恐らく生まれて初めて、
赤の他人に手放しで褒められ、
無条件に信頼され、
その思いがけない快感にハマってしまったのだ。

それまでの半生で散々周囲に疎まれ嫌われて
孤独に生きて来た彼にとって、
それはきっと、普通の食事で食欲を満たす以上の
麻薬並みに中毒性のある快感だったのだろう。
そして、その快感の絶頂で、彼は死んだ。
遠のく意識の中、身体中の痛みを遥かに超える
エンドルフィンの多幸感に包まれながら、
依存性の高い麻薬に負けて、
ついには本能まで差し出した
愚かな自分に恥じ入りながら・・。

とまあ、相変わらず個人的な経験に基づく
妄想の色眼鏡越しにこの作品を鑑賞してしまった私は
ただただ、どうしようもなく、
この馬鹿丸出しのきつねが愛おしく思えたのだった。

でもって、こんなことをドヤ顔で書いちゃってる
自分が猛烈に恥ずかしくなってきたので
今日のブログはこれにて終わりっ。
とっぴんぱらりの ぷう。

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posted by えほんうるふ at 08:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | 危なっかしい絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

天性のジゴロ

How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen (Captain Najork 1)How Tom Beat Captain Najork and His Hired Sportsmen
Russell Hoban Quentin Blake

Walker Books Ltd 2014-04-03

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残念ながらこの絵本の日本語版は現在のところ絶版のようです。
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
(ラッセル・ホーバン文 クェンティン・ブレイク絵)
よろしければこちらから是非、復刊リクエストにご投票を!




「ただしイケメンに限る」というフレーズが如実に表すように、
外見さえ良ければあらゆるハンデは免除されると思われ勝ちな昨今だが、
実際には、判定者がよほどのお馬鹿さんでない限り、
ルックスだけで中身がまるでイケていない人間を「イケメン」と称するほど、
女性の目は甘くないのが普通である。

その一方で、女性は惚れた男に甘い。アホみたいに甘い。
ダメンズに尽くして身を持ち崩す女はもとより、そこまでいかずとも、
男の身勝手さに振り回されつつ、惚れた弱みでそれを許し
母親のように世話を焼いて甘やかす女は多い。
そしてその愛情度合いに於いて、いわゆる世間一般の相対評価における
ルックスはまるで関係ない。

それどころか、取り立てて外見的にアドバンテージも無い上に、
ひたすら好き勝手に生きているフリーダム野郎にしか見えないのに、
どういうわけか女が寄って来て切れない、という男がいる。
いわゆるジゴロタイプのその男はなぜ愛されるのか?
それはひとえにその男のルックスも生き様もひっくるめた存在そのものが
その女の心を溶かす「愛しのイケメン」だからに他ならない。

では、そんな女を惑わすフリーダムなイケメンとはいったいどのような男なのか?
なんと、その一例を分かり易く図解してくれている絵本があるのだ。

今回とりあげる、このやたらとタイトルの長い絵本、
「さすがのナジョーク船長もトムには手も足もでなかったこと」
の主人公トムは、清々しいほど好き勝手に生きている少年である。
彼の面倒を見ているトンカチーン・トテモジャナイおばさんは
その名の通り草木も枯れるほどの超堅物人間。にも関わらず、
トムは平然とおばさんの大嫌いな「ばかばかしいこと」に精を出し、
自由気ままに毎日を過ごしている。
そんな彼を見かねたトンカチーンおばさんは、トムの性根を叩き直すべく、
ナジョーク船長とその部下のナンデモ水夫の一行を呼び寄せる。
ところが、話はトンカチーンおばさんの思惑を大きく外れ、
思いがけない展開に・・・・

という楽しいお話である。
そしてこのトムこそがまさに、私の思うところの
女性の心を鷲掴みにするフリーダム・イケメン野郎なのだ。
ちなみに私独自の分析による、トムのイケメンっぷりはこんなところだ。

1. 好き勝手やってるだけなのに、何故か大人に負けない超人ぶり。  
  
  これはもう、この絵本の一番の見所である、トムとナジョーク船長との
  謎競技での攻防戦を見てもらえば一目瞭然である。
  なんだかんだ言って女子の多くは恐らく本能的に身体能力の高い男子、
  なおかつ権威に屈しない自由人に惹かれるものだ。

2.好き勝手やってるようで、決して無駄に女に逆らわないスマートさ。

  こう見えてトムは、トンカチーンおばさんに決して逆らわないのである。
  身の毛のよだつような食事を食べるように言われても、
  退屈な勉強を言いつけられても、
  しまいには恐ろしげな外部講師による調教を宣告されても、
  決まってあっさりと「いいよ。」と答えるのだ。
  食事や勉強については、トムが実はそれらを心底嫌っていたことが
  後に判明するが、その場ではそんな感情をおくびにもださず、
  諍いによる無駄なストレスを避けるかのようにスマートに処理してみせる。
  つまりトムは、そこらの成長しきれていない「少年のような」成人男性より
  実はずっと女の扱いに長けた「大人顔負けの」賢い少年なのである。

3.何も考えてなさそうで、実は女心の機微に敏い繊細さ&狡猾さ

  最後の勝負に先立ち、形勢不利なナジョーク船長にさりげなく合図して、
  トンカチーンおばさんに聞こえないように、とある取引を持ちかけるトム。
  もうね、すごいですトム。ある意味怖いです(笑)
  このシーンの面白さは是非、絵も見て味わって頂きたい!

4.サラリと自分の我を通す、スマートすぎる開き直り。

  めでたくトンカチーンおばさんをお払い箱にしたトムは、なんと自分で
  新聞広告を出し新パトロン、もとい、新おばさんを募るのだ。
  しかも、今まで黙って我慢していた案件は最初からしっかり条件提示し、
  さらりとクリアしてみせる。それでも、
  「てごろなおばさんが、すぐ、みつかった。」そうだ。どういうこと・・?


・・・と、ここまで書いて来て、
推定年齢10才と思しきトムのヤバいほどのジゴロっぷりに震撼する私である。
ちなみにここで、「ジゴロ」の意味を改めてwikiで見てみると・・・

「年上の女性(と付き合い、その女性)から援助を受けている、
あるいはどのように生活を成り立たせているのかはっきりしない、若い男」

とある。
ひょえー。これはまさにトムの生き様そのものではないか。
実はこの絵本、まだ毛も生えぬ(かどうか実は確認していないが)
アホ男子(現在12才)の息子のお気に入りの一冊であるのだが、
もしかしてこれを幼少時から男子に愛読させてしまうのは、
教育的にアレだっただろうか?!

・・・ま、いっか。
折角男に生まれたなら、モテないよりはモテる方が人生面白かろう。
そのヒントをまさか絵本から学べるとは素晴らしいじゃないか。
息子よ、大志を抱け!目指すは自由なイケメンだ!!
ただし女を泣かすなよ!

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posted by えほんうるふ at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする