2015年10月22日

大人絵本会を絵に描いたら・・

おはなししましょう (日本傑作絵本シリーズ)おはなししましょう (日本傑作絵本シリーズ)
谷川俊太郎 元永定正

福音館書店 2011-09-20

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気がつけば、私がたまたま使い始めたツイッターを利用して
大人絵本会というおそらく国内で他に類のない絵本専門の
オンライン読書会を立ち上げて早5年半が経過してしまった。
当然ながら、リツイートの仕組みすらよく分からないまま
おっかなびっくり呟いていたスタート時と較べたら、
事前のお題告知にはじまり、開催直前の参加案内ツイートも
開催中のタイムラインの放置具合も手慣れたもので、
ほとんどオートパイロット(と聞くとついComNiftyやら茄子R
なんて単語を思い浮かべてしまうパソコン通信世代の私である)
状態で、私自身はスタートと終了を宣言するぐらいで、
何もせずとも参加者同士で勝手に楽しく盛り上がって頂けるという
非常に楽チンな状態に至っている。

そもそも、私が折りに触れあちこちで説明している通り、
大人絵本会には特に明確な参加ルールというものはない。
参加したいと思ったら、ただ当会独自のタグ#ehonbcをつけて
お題絵本について好き勝手に呟くだけで誰でも参加できる。
流れを無視して通りすがりに一言言い捨てるもよし、
深くしつこく独自の妄想を展開するもよし、全くの自由である。
初参加だろうが飛び入り参加だろうが挨拶は無用で、まさしく
来るもの拒まず去るもの追わずをモットーとしている。

そんなこの会を主宰する私が密かに誇りに思っていることは、
悪意や暇人がはびこるネット上で、これほど無防備に門戸を開き、
実際に多種多様な意見が飛び交う場でありながら、
これまでいわゆる「荒らし」に遭ったためしが無いことである。

かと言って、別に現実世界の大人の社交ルールよろしく
妙に気を使い合って本音をはっきり言わないというわけでもない。
むしろ皆さん、好きも嫌いも遠慮無くガンガン言い合っている。
それでも不思議と、よくネットで見かけるような醜い罵り合いに
発展するようなことはこれまで一度もなく、
たとえ意見が真っ向から食い違ったとしても、ごく自然に
「そういう考え方もあるね」と相手の考えを尊重したり
面白がったり、あるいはサラリと受け流していらっしゃるのだ。
毎度のことながら、私はこうした参加者の皆様の
良識と知性と寛容さとユーモア感覚、それこそ
大人絵本会に相応しい「大人っぶり」に、
毎度毎度、心から感謝すると共に多くを学ばせて頂いている。

それにしても、入会規定があるわけでもないこの会に、
何故これほど素敵な大人の趣味人ばかりが集まってくるのか?
それはもう、主宰である私の人徳にほかならない!
と言いたいところだが、正直言って、謎である。
単に今まで運が良かっただけかもしれないが、今のところは、
絵本を愛する大人に悪い人はいない。
・・・ということにしておこう。

ところで、絵本を愛する大人にいわゆる悪人はいなくても、
愛すべき変な人はいっぱいいるようで、
変人好きの私にとっては誠に喜ばしいことである。
実際、こんなおかしな会を5年以上も続けていると、
常連として残る方々はそれぞれに際立つ個性をお持ちの、
いわゆる「キャラが立つ」人々であることが見えてくる。
そして大人絵本会の愛好者の中には、決して自らは
タイムライン上に姿を表さず、そんな常連さん達の
掛け合いをまるで群像劇を見るかのように
楽しんでいる人すら、実はいるとかいないとか・・・。

また、私のような単なる素人の絵本好きではなく、
実際に仕事として絵本や制作や流通・普及に関わる人たちから、
「プロならでは」の意見が聞けることも増えてきた。
それはたいへん有り難いことなのだが、彼らの発言は
プロだけに有無を言わせぬ力を持っていて、
その場の話の流れを一方的に決定づけてしまいかねない。

つい最近の回でも若干そんな雰囲気になったことがあり、
思わずワンマン主宰の強権を発動して、軌道修正させてもらった。
そしてその時、パッと頭に浮かんだのが今日のお題絵本、
「おはなし しましょう」だった。
(ああやっと、今回の絵本に辿り着いた!)

まさにこの絵本「おはなししましょう」のように、
誰もが自由に、好きなように自分の考えを口に出せ、
誰からもジャッジされず、悪ふざけも脱線も大歓迎。
まさにブレインストーミングを絵に描いたような
様々な吹き出しが並ぶだけのこの絵本のイメージこそが、
私が目指している大人絵本会の理想のかたちなのである。
ああ何て分かりやすい、素敵な絵本だろうか。

そもそも私が大人絵本会を始めたのは、あくまでも
一冊の絵本を大人ならではの自由な発想で楽しむためであって、
何らかの基準でその作品価値にジャッジを下したり、
批評のための分析や研究をしようという気は全く無かった。
もちろん、当会の参加者としてそれに類する意見を書き込むことも
各人の自由ではあるが、
もしそういった方向で話を突き詰めたいのならば、
それに相応しい他所でやってくださいと私は言わざるをえない。

要するに、私がここで皆さんと語り合いたいのはあくまでも
その絵本が
「好きか嫌いか」「面白いか否か」であって
「良いか悪いか」「正しいか否か」ではないのである。

だって、折角その両方を堂々と楽しめる大人になったんだもの。

ついでに付け加えておくと、
この会は私が誰に強制されることもなく1人で運営しているもので、
採り上げるお題は全て、主宰である私が独断と偏見で選んだ
私個人のお気に入り絵本である。
私は自分が大好きなものを誰かが大嫌いでも何とも思わないが、
ひとたびそれに対して頭ごなしに「無価値」「間違っている」等の
勝手な評価を押し付けられたら、ほとんど脊髄反射的に
私の中のパンク魂が牙を剥くので、用心されたし。(笑)

ともあれ、この先、我が大人絵本会に参加される皆さんには是非、
この「おはなし しましょう」の世界をイメージしていただき、
この自由さこそが当会のポリシーであることを、
どうか忘れずに楽しんで頂きたいと切に願う。
これからも、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

posted by えほんうるふ at 20:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月24日

背中で伝える慈しみ

いしゃがよい (幼児絵本シリーズ)いしゃがよい (幼児絵本シリーズ)
さくら せかい さくら せかい

福音館書店 2015-05-13

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年一度、毎年この時期に健康診断を受けている。
幸いにも今まで特にシビアな結果が宣告されたことは無い。
そもそも出産以外で病院に入院したこともなく
骨を折ったことも倒れて救急車に乗せられたこともなく
風邪すら年に一度ひくかひかないか。
丈夫だけが取り柄とは思いたくないが
とりあえず健康に恵まれていることは確かだろう。

唯一私が過去に医者通いをしたのは、
もう10年以上前になるが、
初めてギックリ腰をやってしまった時のことだ。
子どもを保育園に送っていこうと、いつものように
子どもを抱え上げて自転車の前座席に乗せようとしたら、
子どもの足が自転車のハンドルに当たり、
バランスを崩して倒れそうになった。
とっさに子どもを落とさぬよう妙な姿勢で踏ん張った、
その瞬間、まさに腰から脳天に痛みが突き抜けた。
あまりの痛みに一瞬息ができないほどだった。
だがしかし母は強し。
いったいどうやって行ったのか覚えていないが
どうにかこうにか私は子どもを保育園に送り届け
職場と夫に連絡を入れ、その後は夫が帰ってくるまで
家で一人で倒れていた。

とにかくまずは安静が一番と言われたものの、
母業主婦業に休みはないのである。
最初の全く動けない時期から脱すると
ヒーヒー言いつつも腰をかばいながら
仕事も家事も周囲に助けてもらいつつなんとかこなした。

だがとにかく何をするにも痛みが付きまとう。
朝目が覚めて起き上がるのも、顔を洗うのも一苦労。
救いを求めて整形外科・整骨院・マッサージ・カイロ・鍼灸・・
藁をもつかむ思いであちこちに行きまくった。

その後、何が効いたのやら腰の痛みそのものは収まったが
坐骨神経痛が長く残ってしまい、これを解消するために
さらにあれやこれや、良いと言われるものを試しまくり、
最終的にはブックオフで偶然見つけた自力整体の本に救われた。
というのが私のギックリ腰克服の顛末。
その後何回か再発の憂き目に遭ったが、
自分で対処できるようになったので医者通いもそれっきりだ。

どうやら私は痛みに強い方らしく、
一人目の時に早期破水した時と同様に
まっすぐ歩けないほどの腰痛を抱えての医者通いも
常に一人で行っていた。
でも、行った先で施術を受けて、なんかちょっと良くなったかも?
と少し上向きな気持ちになるものの、
家に帰り着けばもとの木阿弥、ということもよくあった。
痛みがなかなか引かなかった頃、何をしても効かなくて
気持ちが鬱屈してしまいがちな日々が続いた。
結局そういう時に一番効いた痛み止めは、
家族や経験者の友人たちの優しい声がけや励ましだった。

どんなに孤独や痛みに強いつもりでいても、
一人では生きていけないのだなぁ、有り難いなぁと
素直に思ったものだった。

今日の絵本はその名も「いしゃがよい」である。
小さくて身体の弱いパンダの子を、献身的に育てるエンさん。
身寄りの無いパンダの子が、こんなにしょっちゅう
あちこち痛がってはエンさんに医者通いをさせたのは、
その背中に思い切り抱きついて、
我が身を想って自転車を漕ぐエンさんのやさしさを
体いっぱい感じたかったからではないだろうか。
そうしてエンさんの愛情をたっぷり受けて
大きく丈夫に育ったパンダの子だからこそ、
年老いて身体が弱り、きっと心細くもなっただろう
エンさんに、自分の背中で感謝を伝えたかったのだろう。
なんてことのないシンプルなお話だけれど、
私はなんだか読む度に目頭が熱くなってしまうのだ。


先日受けた今年の健康診断の結果は、まだ来ない。
今年もまた「異常なし」が並ぶ紙を無事受け取れるだろうか。
もし無事にそうなったとしても、やはり自分の歳を考えればきっと
なにかしらどこかしら数字に現れない僅かな変化で
身体に少しずつガタが来ていることは間違いないだろう。
それでなくても毎日不規則な生活かつ万年寝不足の私は
たとえ自分が元気なつもりでもある日突然倒れないとも限らない。
だからこそ、いつか自分の番が来るまでは、
与えられる側、ケアできる側の幸せを感じていたいものだ。

posted by えほんうるふ at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 泣ける絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

みえるひと、みえないひと、みたくないひと

怪談えほん (3) いるの いないの (怪談えほん3)怪談えほん (3) いるの いないの (怪談えほん3)
京極夏彦作 町田尚子絵

岩崎書店 2012-01-28

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夏の飲み会の定番ネタと言えば怖い話。
こんな時、順繰りに持ちネタを披露するとなるとやはり、
「聞いた話」ではなく「自分が体験した話」の方が俄然臨場感がある。
そこで一躍スポットライトが当たるのが、いわゆる霊感体質の人。
ところが、日頃から自己主張激しく口も達者なキャラクターの人物が
待ってました!!とばかりに語りだす「とっておきの怖い話」は
ほおほおふんふん、ワーッ、ギャーッ、こええー!!
と変に盛り上がって大騒ぎになり、聞いている方は意外と怖くない。
稲川氏を例に出すまでもなく、話術巧みに語られる怪談はそれだけで
エンターテイメントとして十分通用するので、
それだともう単なる「すべらない持ちネタ」になってしまうのだろう。
むしろ、
なるべく控えめで目立たず視線も俯きがちな印象ぐらいの人が
何かないかとせがまれて「別にいつものことですけど・・」と
大して面白くもなさそうに淡々と
「みえちゃう・きこえちゃう私の日常」を語りだす方がよほど怖い。

今日紹介する「いるの いないの」という絵本は
まさにその「みえるきこえる日常がすぐそこにある怖さ」の演出が
なかなか素晴らしく、作家陣を見るにつけ、思わず、
さすが、分かっていらっしゃる!と膝を打ちたくなってしまう。

ただし、その結末は・・・
素で叫んだという人もいる。
立ち読みしていた本を思わず投げてしまい、
買ったものの開けられず本棚の奥に封印しているという人もいる。
折角なのでネタバレはしないでおくが、私自身は爆笑してしまった。
賛否両論あるだろうが、
怪談エンターテイメントとして秀逸な一冊であることは間違いない。


ところで、私自身は全く霊感体質ではない。
と、自分では思っているが、
仲間内で怖い話で盛り上がるときに話すネタはそれなりにある。
多分、このブログではまだ書いたことがないので、
これを機会にここでも披露してしまおう。

幼い頃はよく自宅で寝ている時に金縛りにあった。
多分に妄想力豊かな子供だったせいだろうが、
その度に、何かどんよりと重い物がのしかかってくる気配や、
絶対目が合っちゃうから開けちゃダメだという確信があった。
あまりに度々そういうことがあるので、
だんだん対処法が身に付いた。
怖い怖いと息を詰めているとどんどん苦しくなるので、
とりあえず、全力で抵抗を試みることにしたのである。
なあに、どうせ相手にはこちらに実害を及ぼす力はないのだ。
そう思って、遠慮無く罵詈雑言を浴びせることにした。
目は開けられないし声も何故か出せないのだが、
バカ野郎、重いじゃねーか、どきやがれ、あっち行けー!!
などと必死で声なき声で叫んでいるうちに、
気が付くと金縛りは解け、目が覚めると朝になっていた。

ところがたった一度だけ、この作戦が効かなかったことがある。
いつものように、私は声なき声で見えない敵と戦っていた。
が、やはりどうにも苦しい。
あー、どうしよう。疲れてきた。
と思った瞬間、
ドン!と背中に衝撃が来て、私はベッドから転げ落ちていた。

一瞬、何が起こったのか分からなかった。
当時の私のベッドは、壁際に置いてあり、つまり片側は壁である。
背中には生々しく手のひらの感触が残っていた。

さすがにこの時はチビりそうに怖くなり、
親が寝る部屋へ駆け込んで無理やり布団に潜り込んだ・・
ような気がする。よく覚えていない。
後にも先にも一度だけのことだった。

思えば、我が実家は色々とポルターガイストまがいの現象が
起こる家だった。
テレビが勝手についたり消えたりなどは日常茶飯事なので
みんなそんなもんなんだろうと思っていた。
ただ、父親がガレージを増設するのに元々あった古い井戸を
埋めてしまった時は、さすがに色々とヤバかった。
当人は大怪我をし、その後入院するはめにもなり、
途方に暮れた母が知人を介してその筋の人に相談し
然るべき方角の神社へ家族全員でお参りしたりもした。
そこらへんの詳しい話を聴きたい人は、飲んだ時にでも。

それでも私には、霊感は全くない。あってたまるものか。
posted by えほんうるふ at 10:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 怖い絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月23日

通学路の思い出

なつのいちにちなつのいちにち
はた こうしろう 作

偕成社 2004-07

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私は東京都府中市というところで生まれ育った。
地図を見れば、東西に細長い東京都の、ちょうど真ん中ぐらいの地域である。
沿線である私鉄京王線の終点が新宿で、
そこまで出るのに鈍行と特急を乗り継いで約30分。
その距離感はほとんど千葉とか埼玉とか、隣接県に住んでいる感覚に近い。
だから、生まれも育ちも東京です、などと言うと、
地方出身の人には実態とかけ離れたイメージを持たれてしまいそうで、
自己紹介の際など、訊かれてもいないのに、
「東京・・・の田舎です。」とか「西の方」とか「多摩地区」とか、
つい余計なくくりを付けてしまうのだった。

まして私が育った町は、今でも駅前にさして大きな建物もないような
のどかなところで、実家の周りには今も田畑が豊富にあり、
道端に野菜の無人販売所があったりする。

そんな町で育った私の夏の思い出と言えば、通学路だ。
小学校までの通学路は、子供の足で20分もあっただろうか。
その大部分は、田んぼの脇のあぜ道のようなところだった。
夏になると昼も夜もカエルが盛大に鳴いていた。
特に、他の音が静まる夜は、カエル達の大合唱ばかりが
ひときわ大きく辺りに響き渡って、煩いぐらいだった。

カエルはそのほとんどが小さくて綺麗な黄緑色のアマガエルで、
あまりにたくさんいるので、わざわざ捕まえる気にもならなかったが、
可愛いので登下校中に眺めるのが好きだった。
時々、もっと大きなヒキガエルに遭遇すると、
そのふてぶてしい佇まいにびっくりしたものだ。
なかなか姿を見せてくれないものの、
野太い声で不動の存在感を示すウシガエルの声を聞きつけると、
あわてて側溝を覗き込み、じーっと佇むこんもりしたシルエットを
見つけてにんまりしたりしていた。
他にも、キャベツ畑に分け入って青虫を集めたり、
果樹園の脇の生け垣でカナヘビを捕まえて両手に5〜6匹も
ぶらさげて帰り、母親に露骨に嫌な顔をされたりした。

同級生の女の子達の中には、そういったもの全てを忌み嫌い
キャーキャー言って近寄らない子もいたが、
私は手足がどろんこになるのも全然平気で、
むしろ汚れを気にしなきゃいけないようなお洒落な
可愛い服は着るのが面倒で、ほとんど着た記憶がない。
日焼けも虫刺されも擦り傷も、気にしたことはなかった。

そんな私だったのに、今はどうだろう。
足元が汚れるからと田んぼには近づかないし、
直射日光で湿疹が出るので日焼け止めや日傘が手放せない。
それでも炎天下に長くいると偏頭痛を起こす。
気がつけば情けないほど弱々しい大人になってしまった。

大人になる過程はあまりにも緩慢でゆるやかで、
無意識に選ぶ「心地よさ」や「うれしい・たのしい」が
少しずつ変化して、ついには子供の頃のそれとは
180度違ってしまっても、自分ではなかなか気が付かない。
だからだろうか、「なつのいちにち」という絵本を初めて手にした時、
突如あの頃の自分を思い出して、妙に胸がどきどきした。

何より胸にズキンと響いたのは、この絵本のどこまでも明るい
鮮やかな夏の日差しと色彩を際立たせている、真っ黒な影だった。
そうなのだ。あの頃の自分にとって、夏といえば
青い空白い雲以上に強烈に印象を残すのは、影の濃さだった。
真っ白な日向の明るさと真っ暗な日陰の陰影が、
そのクラクラするような鮮やかな対比こそが、
真夏の景色だった。
外出時にはサングラスをかけ、常に日陰から日陰へと
目を伏せて歩を進めるばかりの今の自分は、
その対比の妙を愉しむことをすっかり忘れていた。

それから、田んぼの脇に跪いたり、暗い側溝を覗きこんだり、
キャベツ畑にしゃがみこんだり、突然降りだした雨を仰いだり、
あの頃の自分は、めまぐるしく視点が変わる生活をしていた。
その、ダイナミックに視点が移り変わる瞬間の面白さが、
この絵本には余すところなく表現されていて、
これまたあの頃の自分のイキイキとした感受性が蘇るようで
読み進むほどに嬉しくなったのだった。


私が今住んでいるところは、JR山手線の内側なので、
まさに東京の中の東京といってもいいのかもしれない。
それでも意外なほどにこの近辺は緑が豊富で
夏には玄関先にコクワガタやバッタが飛んできたり
近所の空き地には野生の狸が家族で棲み着いていたりする。
すぐ近くの公園には、蛇も蛙もヤモリもカナヘビもいる。
それらと戯れながら育った我が家の子ども達が、
その鮮やかで色彩豊かな夏の情景を、
子どもならではのみずみずしい感性で享受した思い出を、
大人になっても記憶に留めてくれますようにと
願わずにはいられない。



posted by えほんうるふ at 08:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月23日

やっぱりロバが好き

わたしのろば ベンジャミンわたしのろば ベンジャミン
ハンス・リマー 文
レナート・オスベック 写真
松岡享子 訳
こぐま社 1994-07

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使っているアイコンとニックネームのせいか、
私の好きな動物と言えば、もちろん狼だろうと想定されることが多い。
それは確かに間違いではないのだが、
実は私には狼と並んで偏愛する動物がいくつかいて、
そのひとつが、ロバなのである。

彼らは馬ほど美しくはない。
むしろ不格好で不器用で、古今東西の童話や物語においても
残念なルックスや愚鈍なキャラの代名詞のような扱われ方。
けれどその瞳はどこまでも澄んでいて美しく、
気はやさしくて力持ち、そして焦れったいほどのお人好し。
さらに彼らを人に例えるなら、
普段は無口で目立たず裏方に徹しているようで、
表立った自己主張やスタンドプレイはせずとも、
ただその存在感だけで周囲を安心させてくれるような人。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
・・と、まさに、
かの有名な宮沢賢治の詩に表された人物像そのものである。
とにかく、たとえ周囲からバカにされようと
いつも変わらず振り向けばそこにいてくれる、
実は誰よりも信頼できる人物、のように思える。

もちろん絵本の中にも、そんなイメージのままに描かれた
愛おしく頼もしいロバたちがたくさんいる。
今日はその中で、私の一番お気に入りのロバの話をしよう。

「わたしのろば ベンジャミン」
そのタイトル通り、この絵本の主人公の幼いスージーには
いつもやさしく彼女に寄り添うロバ、ベンジャミンがいる。

ベンジャミンは何をするわけでもない。
ものも言わず、家畜としての使役もせず、
ただただいつも、スージーのそばにいるだけだ。
ベンがスージーに寄り添うその姿は常に奥ゆかしく、
潤んだ大きな瞳はいつも伏し目がちで、
それでもいつもやさしい光をたたえている。
そしていつもさりげなく、スージーに寄り添っている。

小さなスージーはそんなベンが大好きで、
全幅の信頼と共に無邪気に甘え、好き放題をする毎日。
その様子はまさに(ちょっとあざといほどの)
天真爛漫さに満ちていて、たいへんに微笑ましい。
一方、物言わぬベンジャミンは、無邪気なスージーが
あれやこれやと構ってきても為すがままになっている。
そして、大人の目には見るからにロバにとっては
ありがた迷惑だろうと思えるような所業でも、
不思議とベンジャミンは迷惑がっているようでも、
耐え忍んでいる様子でもなく、
むしろそれこそが彼の喜びであるかのように、
120%の慈愛でもって受け入れているように見える。

こうしてスージーとベンジャミンは、表現は真逆でも
お互いを思う気持ちをまっすぐに相手に捧げているのだ。
要するにこの二人はラブラブなんである。

それでも、どんなに心広いベンジャミンでも、
時には一人になりたい時がある。
そして、唐突にその日は訪れる。
「まったくもう、やってらんねーぜ!」とばかり、
ふらっとスージーの元を離れるベンジャミン。
もちろんスージーは大パニックだ。
必死で愛するベンジャミンを追いかけ追いつき、
しおらしく彼に一緒にいたいと懇願してみせる。
快諾しつつも、ちょっと強気に自分の我を通すベン。
立場が逆転したように、黙って彼についていくスージー。
こうなるともう、この作品ならではの
地中海に浮かぶロードス島の美しい背景もあいまって、
まるで古いイタリアの恋愛映画を見せられているようで、
私の枯れかけた乙女心がキュンキュンしちゃうのである。
とはいえこれはやはり絵本なので、映画のように
主人公がひと夏の恋でちょっと大人になる・・・
なーんてわけもなく、甘えん坊のスージーは
そのまま甘えん坊のまま、微笑ましくハッピーエンドを迎える。

まーそれでも、よいではないかよいではないか。
だってロバだもの!とにかく可愛いんだもの!!
カワイイは正義だ!とここで思わず私のロバ偏愛の血が騒ぐ。

だがしかし、ご想像の通り私のロバ愛にはそれなりに拘りがあり、
ロバが出ていりゃーなんでもいい、というわけではない。
私が思うロバの愛らしさがしっかり表現されていなければ、
たとえロバが主人公であろうと私の食指は動かない。

ちなみにベンジャミンは、人間の幼児のスージーに比べたら
ずいぶんと大きな身体だけれども、まだ子どものロバだ。
モノクロームの写真から見えるベンジャミンの佇まいは
やはり幼くて、なんとも愛くるしい。
私は年老いたロバの哀愁漂う姿にも目がないのだが、
子どものロバの可愛さときたら異常である。
しかもベンジャミンは写真で出てくる。反則である。

さて、そんな偏屈ロバ愛の持ち主である私がオススメする
世界の三大ロバ絵本といえば、今日ご紹介したこの「わたしのろば ベンジャミン」の他に、
・フランソワーズの「ロバの子シュシュ」
・バーバラ・クーニーの「ロバのおうじ」
の二冊を挙げておこう。とにかくロバ好きにはたまらない作品である。

というわけでもしこれを読んだ同好の士で
私に薦めたいロバ絵本をご存じの方がいらしたら
是非とも教えていただきたく、よろしくお願い致します。
posted by えほんうるふ at 18:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

今の自分にできること

ペレのあたらしいふく (世界傑作絵本シリーズ―スウェーデンの絵本)ペレのあたらしいふく (世界傑作絵本シリーズ―スウェーデンの絵本)
エルサ・ベスコフ

福音館書店 1976-02-03

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現代日本の都会に住む私は、
生活必需品はほぼ不自由なく手に入る環境にいる。
そうしてごく当たり前に便利で快適な生活をしているけれど
思えば私が日々享受しているモノやサービスの全ては、
計り知れないほど多くの人の手を介して私のもとに届いたものである。
恐らく、今私の身の回りにある大量のもののなかで、
私がゼロから自分一人の力で作り出せるものなど、
ひとつもないだろう。

今日の絵本「ペレのあたらしいふく」が制作されたのは、
なんと今から100年以上前の1910年代のスウェーデン。
衣食住の全てが人の手を介し、目に見えるところで回っていた時代。
もちろん、今とは比べ物にならないほど、
人々は日々の暮らしに骨を折っていただろうに、
そこに描かれる地に足の着いた生活の美しいことといったら!

そんな時代のスウェーデンの片田舎の農村(と思われる地)
に暮らすペレ少年は、子羊を一匹飼っていた。
彼はその羊を自分だけのものとして、
全ての世話を自分一人で(ここ大事)取り仕切っていた。

ある日ペレ少年は、自分の成長と共に服が小さくなったことに気づく。

ここで、現代日本の同じ年頃の子供たちならきっと、
親に新しい服がほしいと訴え、
親は瞬時に新しい服を購入して子に与えるだろう。
いや、そもそも子供自身がそれを要望する以前に、
親の方が気がついてさっさと新しい服を着せるのかもしれない。

ところがペレ少年は、全く違う、驚きの行動に出る。
幼い彼は、自分で不足に気付き、それを解消するために
自分にできることを考え、さっそく取り掛かったのだ。
つまり、自分が持っている羊の毛を新しい服の素材とすべく、
自らそれを刈り取り、しかるべき工程を辿っていったのである。

ここからの、ペレの羊の原毛が多くの人の手を介し加工され、
ついに新しい素敵なウールのスーツが完成するまでの
丁寧かつ無駄のない描写は、まったく見事としか言い様がない。
人々の手仕事が連なり、ゼロから何かが作り出される様子は、
何度見ても本当にワクワクするものだ。

もちろん、幼いペレにできることは限られていた。
だからこそ彼は、自分でできることは自分でやり、
出来ないことは、人にやってもらう代わりに、
その人に自分が出来る範囲の労働力を差し出したのである。
なんという賢さ。なんという生活力。
DASH村のお兄さん(おじさん?)たちも顔負けである。
ひょっとすると、今あなたの隣にいるお金持ちの男性よりも、
ペレは頼りになる男かも知れない。

お金さえあれば何でもできる時代に生きる便利さは、
お金がないと何もできない人間になりさがるリスクを伴う。
そのことに気がついて、思わずぢっと手を見る私であった。


その一方で、この絵本の持つ力強くあたたかいメッセージは、
読む度に、子どものみならず大人をも励ましてくれるのだ。

いや、むしろそれは、大人の心にこそ響くものかも知れない。

口には出さなくとも、大人は大人なりに、
きっと誰しもが無邪気で大胆な夢を持っている。
けれど、己の無力さを知るほどに、
やりたいことがあっても、欲しいものがあっても、
どうせ自分の力では到底及ばないものと、
最初からあきらめてしまうようになる。
それこそが大人の分別として、自分を納得させるようになる。

けれど、私はこのペレのお話を読む度に、
どれほど大それた、人に話せば笑われるような夢でも、
とにかく今自分にやれることをやる、という
シンプルで間違いのないスタート地点を照らされる思いがして、
まるで恐れを知らぬこどものように、
根拠の無い勇気と元気が湧いてくるのだ。

今の自分にできないことを思い悩むより、
今の自分にできることを見つけて、夢中でやってみる。
きっとその方が、人生は楽しい。

posted by えほんうるふ at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 元気が出る絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月25日

大人絵本会5周年に寄せて

わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)わたし (かがくのとも傑作集―わくわくにんげん)
谷川 俊太郎 ぶん 長 新太 え

福音館書店 1981-02-02

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ネットで知り合った人に会いに行く。
と、その時、それまでさんざん活字でやりとりを重ねていた相手が、
いざ実際に会ってみるとこちらの想像とはかけ離れた実像だった、
という顛末は、誰しも多少は身に覚えがあることだろう。

私はわりあい文字情報から相手を推し量ることが得意なのか、
これまでのところ、対面のその瞬間に相手を見て
極端にびっくりさせられることはなかった。
ところが逆に私自身は、初めて実際に会った相手に、
こちらが恐縮するほど驚愕されてしまったことが何度かある。

これは、いったいどういうことなのだろうか。
別に誰かを欺こうと敢えて別人格を演じているわけもなく、
プライバシーやセキュリティを考慮して
自分についての情報の開示範囲や表現を変えているだけなのに
人々の受け取り方、その読み取り方は、驚くほど多様だ。

そもそも、人はいったい何をもって相手の属性や人となりを、
或いは自分との関係性を判断しているのだろう。

ごく単純に実社会での人間関係を思い起こせば、
相手が誰であれ最初は出会った時の状況がそのまま、
自分と相手との関係を明示している。
何しろ目の前にいるのだから、分かりやすい。
なんなら、その場で相手に確かめることもできる。

ところが、ネット経由の関係ではそうはいかない。
一つの言葉の真意を前後の文脈から判断するように、
自分と相手だけでなく、出会った場所や時間や状況などの
バックグラウンドを含めた情報を受け取れるリアルの関係と違って
画像であれテキストであれ、所詮データ化された断片情報しか
受け取ることのできないネット経由の関係では、
お互いのID認識が著しく乖離するのも無理はないだろう。

ただ、実社会であろうとネット上であろうと、
出会った関係の全てに共通していることがひとつある。
自分で認識しているつもりの「あなたから見たわたし」と
相手が認識している「わたしから見たあなた」は、
常に変化し続ける
ということだ。

一期一会のスタートの瞬間から、付き合いが長くなり
付帯情報が増えるにつれ、お互いの認識は変わる。
故に、どれほど長い付き合いになったとしても、
常にそれは、どこかしら食い違い続けるものなのだろう。
そしてその「永遠の分かり合えなさ」こそが、
人と人との関わりに豊かなドラマを生み出し、
人生を喜劇あるいは悲劇たらしめているのかも知れない。


ところで、たいへん面白いことに、人間関係構築においては
限られた情報源でしかないはずのネットを介して、
リアルでどれほど顔を合わせても知り得なかった相手の本質が、
恐ろしいほど赤裸々に露呈されてしまうことがある。

その一例が、ツイッターである。
バカ発見機などと揶揄されて久しいこのSNSは
誰でも気軽に思ったままを即全世界に向けて発信してしまえる為、
何気ない一言の呟きでめでたく人生を棒に振ることもできる。

ちなみに、私が主宰をしている大人絵本会という月に一度の
ツイッター上の宴会でも、一冊の絵本について参加者それぞれが
好きなことを好きなように語っているだけなのに、
恐ろしいほど各人のキャラクターや人生観が露わになってしまう。
おそらく、参加者の誰一人とも面識のない人でも、
ログを眺めているうちに、おぼろげながらも主な登場人物、もとい、
常連参加者たちの人物像を掴んでしまうのではないだろうか。

いみじくも、前回の締めにこんなことを呟いてくれた人がいた。

「大人絵本会が進むうちに、絵本が好きな、やさしい人たちの奥底に潜んでいる、こだわりや好み、さらには生きかたまでもが投影されていく。『注文の多い料理店』のように、ふと気づくと、身ぐるみはがされ、食べられかけたりしてることも。だから、本当は怖い大人絵本会です。」
( tweeted by @bluebirdland )


「本当は怖い大人絵本会」
このフレーズを、私は非常に気に入っている。
気がつけばこの会はこの春5周年を迎えるのだが、
これからもずっと、そんなスリリングな
オトナのコミュニケーションの場でありたいと願っている。

さて、五周年記念回となる、今夜の大人絵本会のお題は
谷川俊太郎さんと長新太さんの名作、「わたし」である。
いつものみんなも、はじめましての方も、
あなたにとってのわたし、わたしにとってのあなたのことを、
いつものように好きなように好きなだけ、語ってください。

*ちなみに本日のお題「わたし」についての過去ログはこちら
posted by えほんうるふ at 17:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

美しき伝説のバカップル

キューピッドとプシケーキューピッドとプシケー
ウォルター ペーター作 エロール ル・カイン絵

ほるぷ出版 1990-08-20

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私の若い友人に、とてもキュートな女性がいる。
容姿端麗、人当たりも抜群で話題も豊富の彼女を、
周りの男性陣が放っておくわけもなく、
まあ常に恋バナには事欠かない様子である。

そんな彼女は私と顔を合わせる度に、
その整った額を歪め、はぁぁと大きなため息をついて語り始める。

「もおー、聞いてくださいよ!彼ったらぁ・・・」

という調子で始まるその話の8割以上は、
いかに彼が困ったちゃん野郎か、
そんな彼に何故か尽くしてしまう自分がいかにアホか、
さらにはそんなアホ男子の彼が
どれほど自分にぞっこんでいるか、
という話に終始する。
要するにほとんどが愚痴を装ったノロケである。
なによりご苦労なことに、
彼女はこういった日々を過ごしつつ
時に第三の男の出現と消失を交えつつ、
結局は同じ相手と別れたりくっついたりを繰り返すのである。

彼女が別れの危機を口にする度に、
私はそれなりに真剣に話を聞き、
時にはごく常識的かつ率直なアドバイスを伝えたりもする。
すると、
やっぱりそうですよね、人生の先輩さすがですぅー!と、
その時はさも有り難くそれを拝聴する素振りを見せつつ、
結局は彼女は全てを聞いていなかったかのごとく
あっけなく、悪びれずに
「アンタそれやっちゃ意味ないでしょ」という行動に出る。

嗚呼、なんというおばかさん。

さて、意外に思われるかも知れないが、
こういう分かりやすいおバカさん女子が、私は嫌いではない。
恋する人間は概ねバカである、ということを
こんなにも無防備に体現してしまっている人は
今や私の身近には珍しく、
むしろ清々しいというか、羨ましいような気すらする。

それほどまでに、恋は人を愚かにするのであろう。
だからこそ、その成就は得難く、
全ての人間にとって普遍的な憧れの対象であり続けたのだろう。

ちょっと話を美化しすぎだろうか?
いいのだ、今日はそういう方向で行くと決めたのだ(笑)


恐らく人間がもっと素直ないきものだった頃の
ずっとずっと昔の先人たちは、
人が根源的な欲求に基づいて至上の愛を求める気持ちや、
その抗し難い魅力を神聖なるものとして最大限に評価し、
その愚かしさをも美しく語り継いできた。
その大いなる遺産を今でも感じ取れる素敵な絵本がある。

今日ご紹介する絵本「キューピッドとプシケー」は、
今から100年ほど前にイギリスの作家ウォルター・ペーターが
ギリシャ、ローマ時代の神話を元に書いた物語に、
「イメージの魔術師」との異名を持つ稀代の挿絵画家、
エロール・ル・カインが美しく幻想的な挿絵をつけた作品である。

正直なところ、挿絵の美しさに心惹かれて手にとったこの作品を
読み終えた私が最初に感じたことはまさに、
うっとり〜、どころか、
嗚呼、 なんというおバカさん!
という、呆れに似た気持ちだった。

その半ば呆然とした気持ちのまま後書きを読んでみたら、
そこにもやっぱり主人公たちがいかにアホかということが
述べられていて笑ってしまった。
でもそれを超えて受け入れたくなる美がそこにはあると。

いずれにしろ、外野がどれほどバカなふたりと嘲ろうと
周りが見えぬほど幸せな二人にとってはどうでもいいことなのだ。
馬鹿になれるほどの恋をしている彼らは
誰が何と言おうと美しく、最強なのである。


ところが今や人々はあまりにも忙しくなり、
あまりにも多くの暇つぶしを手に入れてしまった。
おかげで、恋の歓喜と官能とを手に入れるために
ややこしく面倒なあれやこれやを受け入れたり、
愚かで不条理な自分に成り下がるぐらいなら、
最初から手を出さずにお利口さんでいようという
賢い小心者ばかりが増えてしまったのだろうか。

それでも、この絵本のヒロインのように、
運命の恋の前では、
「 経験から何も学ばず、いつまで経っても賢くならない。」
どんな人間もそうなってしまうのかもしれない。
いや、私はそうであって欲しいと思う。
その方が、この世界が美しく見えるような気がするから。

posted by えほんうるふ at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

憧れの秘湯

旅館すずめや旅館すずめや
雨宮 尚子 作

白泉社 2009-01

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私の自宅には和室がない。
家族4人で都心のマンションに引っ越した際、
諸条件をクリアした物件はただでさえ収納も部屋数もギリギリで、
物を置かない事が前提の畳敷きの部屋を有する余裕などとても無かった。
あれからもうすぐ10年になる。
フローリングばかりの今の我が家の生活に不満はないものの、
気が付くと、実家に帰省した際や、友人宅や旅先で、
何気なく和室に通された時に感じる安堵感が半端ないのだった。
い草の触感の心地よさに思わず嘆息し、
ああ、ありがたい。
なんて呟いてしまったり。歳だろうか。

自分が生まれ育った家も、畳敷きの部屋こそあったが、
和の歳時記を一つ一つ丁寧に執り行うような余裕や洗練とは無縁だった。
母は和服が好きでそれなりに数も持っていたようだが、
父と共に自宅兼店舗の商売を切り盛りし4人の子を育てるのに精一杯で、
年に1度も袖を通した姿を見たことがなかった。
そんな家に育った私は今でも、
持っている和服は嫁ぐ際に母が誂えてくれた喪服一式のみで、
それすら実家に置きっぱなしの体たらく。

そんな、いい年して次世代に美しい和の世界を継承できる見込みが
まるでない残念な日本人の自分なのだが、
何故だか不惑を過ぎるあたりから妙に和物に心惹かれるようになった。

自分が実際に幼少時に使っていたわけでもないのに、
火鉢やら囲炉裏やら小引き出し等の和家具はもちろんのこと、
陶の器や和服地の小物、千代紙にお手玉、干菓子に練り切り・・・
まるでアンテナでも立っているかのように、
どこへ行ってもいち早く目に止まり、
しばしうっとり見つめてしまうのだ。
これまでの実生活でそう馴染みがあるはずでもない雑貨たちに
これほど心奪われるのは、
やはり、この国に生まれ半生を過ごした者なりに、
心のどこかに刻まれた和物魂が疼くのだろうか。

さて、今日の絵本、「旅館すずめや」は、
そんな私の遅咲きの和物愛を激しく刺激する絵本である。
すずめのおかみが切り盛りする旅館「すずめや」の冬の一日を、
細々とした雑貨と共に紹介するという他愛もないストーリーなのだが、
とにかく、切り絵で表現された和物の絵柄の愛らしさに悶絶する。
また、読み進むほどに、秘湯の宿「すずめや」の
ありそうで絶対にない超絶のおもてなしっぷりに
大人の乙女心がツンツンされること請け合いである。
おまけに、巻末に「和の小物型録」と題した見開きがあり、
各ページに描かれた小物をピックアップして紹介しているという
まさに和物好き雑貨好きの痒いところに手が届く親切仕様。

寒い季節に可愛い和物を眺めて心を暖めるなんて、
若い頃には思いもつかなかった発想だが、
「おこたでみかん」すら縁遠い生活をしている今の自分には
熱い日本茶を啜りつつこの絵本をにこにこと眺める時間が
ささやかな贅沢に思えたりもするのである。
そして最後にはきっとまた呟くのだ。
ああ、温泉行きたい。

posted by えほんうるふ at 11:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月16日

ぶれない生き様

クリスマスのおくりものクリスマスのおくりもの
ジョン バーニンガム John Burningham

ほるぷ出版 1993-11
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例年この時期にはクリスマスにちなんだ絵本を採り上げている。
今年は何にしようかな、と考えた時、たまたま思い浮かんだお気に入りが
今日の絵本、ジョン・バーニンガムの「クリスマスのおくりもの」であった。

これまでこのブログでは、どの絵本を採り上げたときも、
のっけからいきなりその作家への愛を叫ぶことはなかったと思うが、
久々に大好きなこの絵本を手にした途端、やはり叫びたくなった。

私は、バーニンガムの絵本が大好きだ!

なぜ私は彼の作品が好きなのか?
一言で言うとそれは、
彼の描く主人公がいつも、
自分の進むべき道に対して迷いがないからである。
私の大好きな彼の作品に出て来る主人公は、
生まれついた属性や置かれた境遇や降り掛かる災難にも関係なく、
皆一様に清々しいほどのぶれない生き方をしているのだ。

例えば、過去にこのブログでも採り上げた、
「いつもちこくのおとこのこ・・」の主人公ジョン。
人生バラ色とは言いがたい、むしろ閉塞的とも言える境遇で
ぞっとするような毎日を生きることを強いられていても、
彼はその宿命を受け入れ、何があっても淡々とやるべきことをやる。
その清々しいほどのぶれない生き様が、何ともかっこいいのだ。
そしてそのイカした生き様は、私の好きなバーニンガム作品の主人公、
コートニー、アルド、シャーリー、シンプ、ガンピーさん・・・
なんと、しっかり皆に共通しているのである。

そしてさらに、ろくにもの言わぬ主人公に代わって、
その時その時の彼や彼女の心象を表すような、
圧倒的な色と筆致で描かれる、饒舌な背景。

即ち、キャラクターと、画力。
これが私にとって、バーニンガム作品の何よりの魅力である。
そしてもちろん、バーニンガムがクリスマス絵本を描けば、
サンタクロースもまた、この愛すべき魅力を備えた人物となる。

そんなわけで今日の絵本は、例えどんな障害に阻まれようと
任務を遂行すべく迷い無く突き進む、カッチョいいサンタのお話だ。

一年に一度の大仕事を終え、疲れきって帰宅したサンタクロース氏。
ところが、袋の中にたった一つ、配りそびれたプレゼントがあった。
もちろん、彼は迷うこと無く、すぐさま再び家を出る。
やるべき仕事をやり通す為に。

何度となく災難に見舞われても、彼は決して諦めない。
逡巡の末、或いは、失敗を繰り返した挙げ句の挫折という、
普通の人間の人生にはありがちな展開が、ここにはない。
そしてそんな彼の行く手に必ずや現れる希望の光・・・。

絵本の中でしかあり得ないその強さ、
読む者の期待を裏切らない嬉しい超展開に、
凡人の私はうっとりと憧れ、
思うようにならぬ現実をしばし忘れて心を遊ばせることができる。
私はこんな素晴らしい作品に出逢う度に、
絵本はオトナにこそ必要な「心のおやつ」なのだと思う。
posted by えほんうるふ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | カッコイイ絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする