2018年01月19日

ある絵本図書館の話

新年一本目のエントリーとしてはあまりにも残念な内容になるが、久しぶりに腹に据えかねることがあったので、やはり時をおかず記しておこうと思う。

ビットコインには手を出したことがない私だが、ネットを介した投資といえばクラウドファウンディングには何度か出資をしてきた。
いずれも出資者への謝礼内容に惹かれたわけではなく、ましてリターンを期待する投機的な気持ちも毛頭なく、ただ単純に面白そうだったり意義があると思える活動を応援するつもりで純粋に寄付としてやってきたことだ。だから、各事案が後にポシャることはもちろん想定内で、それでも惜しくない程度の微々たる支援しかしてきていない。
ただ、折しもつい最近、私が3年ほど前にそのシステムの存在を知り初めて実際に出資してみた案件が、どうにも残念過ぎる顛末になっていることを人づてに知り、何とも嫌ぁ〜な気持ちになったので、自分への戒めも込めて書き残しておこうと思った。

それは、地域住民の交流の場としてごく小規模な私設の絵本図書館を作りたいという話だった。
私にとっては同じ区内というご近所の縁もあり、もちろんどんな形であれ人々が絵本を楽しむ場が増えるのは大歓迎だし、なにより建物が大正時代に料亭だったという古民家物件でとても素敵な雰囲気だったので、あまりよく調べもせず気軽に応援出資をしてしまったのだった。

現地に行ってみると、建物と環境は確かに噂通りに趣があり素敵だった。蔵書は全て寄贈で賄うとのことだったので、私も一番好きな絵本を一冊持参しメッセージと共に納めた。
ただ、実際に館長を名乗るS氏に話を伺ってみると、ご本人の好きな絵本に対するコメントが妙に浅く、特に絵本というメディアに思い入れがないのがすぐに分かり拍子抜けした。さらに話すほどに、絵本出版についても図書館運営についても私以上に何も知らない素人であることが分かり、語られた今後の運営方針の曖昧さに首を傾げるところも多く、聞けば聞くほど「大丈夫なのー?」という印象が強くなったものだった。

それでも、絵本好きとしてご近所にそれを楽しめるスポットができるのは喜ばしかったし、新しい試みに挑戦するのは悪くないだろうと応援するつもりでいた。
当時の職場が近かったので、何度か様子を見に立ち寄ったが、いつもそれなりに地元の親子連れで賑わっていて、放課後の時間帯には小学生達もいたりご近所のお年寄りも顔を出したりして、当初のコンセプト通り地域の異世代交流の場として機能しているようだった。

だが、それからほどなくして折り入って相談があると代表者に呼ばれて行ってみると、絵本や図書館の話ではなく、区議選に出馬するので「えほんうるふ」として公的に(?)応援してもらえないか、という話をいきなり切り出され、ポカーンとしてしまった。
ハァ?である。開館から日も浅く運営も未だ中途半端なのに何を言ってるんだろう?
もちろん、はっきりお断りした。冗談じゃない。
私が出資した僅かな費用や寄贈した絵本はそのまま地元の皆さんの交流に役立ててもらえればそれでいいと思い、それ以来一切の交流を絶ち、現地に足を向けることもなくなった。

ところがつい先日、友人が久しぶりに問い合わせをしようとしたところ、サイトは閉鎖されていて絵本図書館だったはずの古民家はレンタルスタジオとして営業していることが判明。
不審に思った友人がクラウドファウンディングの運営会社を経由し連絡をとると、ほどなく代表のS氏から直接電話が来たそうだが・・・なんと、号泣しつつひたすら己の至らなさを詫びるばかりという唖然とするような内容だったという。
地元無視の区議選出馬で地元民にそっぽを向かれ、図書館は閉鎖、私や友人達が寄贈した絵本も知人に配るなどして勝手に処分していたそうで、あまりの杜撰さ幼稚さ無責任さに怒る以前に呆れてしまった。

どんなに綿密に計画を立て誠実に運営したところで、新規事業がポシャることはいくらでもある。それはもちろん想定内なので別にいい。ただダメならダメで、関わった人々、協力してくれた人々に詫びを入れるなり最低限の筋を通すのが社会人として当然のケツの拭い方、もとい、責任のとり方ではないだろうか。
何より、私がどうにも許しがたいのは、この絵本図書館が全ての蔵書を善意の人々からの寄贈で賄っていたこと、しかも「不要な絵本ではなく、思い入れのある『大切な絵本』を寄贈して下さい」と呼びかけていたことだ。
そうしてタダで集めた大切な絵本たちを、寄贈者に無断で無責任に処分していたとは!
活動の主旨に賛同しその呼びかけどおりに思い入れのある絵本を寄贈した人たちの思いを何だと思っているのか。あまりに酷すぎる所業である。
どれほど状況が追い詰められていたとしても、せめて、HPなりSNSなりで告知して、絵本の寄贈者に「大切な絵本」の返却を申し出ることぐらいできただろう。
100歩譲って悪気がなかったとしても、責任能力があるはずの大人が人として最低限のことが出来ないほど愚かであることは、悪意をもった犯罪者と同様に人を傷つけかねないということを思い知らされた。

かくいう私も相手を良く知らないままに賛同し出資し、安直にSNSで紹介もしてしまったことを猛省している。私のRT等を見てこの企画を知り、賛助してしまった人がいたとしたら、本当に申し訳なく思う。この場を借りてお詫び致します。

私が寄贈した「やっぱりおおかみ」は今どこにあるのだろう。まさかウチの近所のブックオフにあったりして。せめて、どこかの絵本好きのお宅の蔵書となっていることを願うばかりだ。
確か、かの図書館の蔵書印と共に寄贈者として「えほんうるふ」の名前もどこかに入っていたと思うので、見かけた方は是非ご一報下さいませ。
せめてそんな奇縁に繋がれば、痛い勉強をしたエピソードの救いになりましょう。
posted by えほんうるふ at 22:15 | Comment(2) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

いつも心にお地蔵様を

かさじぞうかさじぞう
瀬田 貞二/再話 赤羽 末吉/絵

福音館書店 1966-11-01

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ああ今年ももう終わる。
毎年性懲りもなく年初には今年こそは断捨離を決行!などと言っているのに、一向に成果が上がったためしがない。
整理が出来ないわけではない。要るものと要らないものを分類する作業までは得意なのだ。
ただし、私が冷徹にコトを成せるのはそこまで。
気がつくと、部屋の片隅に「処分予定の不用品」の山ができる。そして、いずれ消滅するはずのその山は月日と共に不動の存在感を示し、ジワジワとその裾野を広げ高さを増していくのである。

こんなことになる理由はもちろん自分が一番よく分かっている。
「ただ、捨てる」ができない私は、不用品を処分するのにいちいち手順を踏みすぎるのだ。
もう絶対要らないと分かっているのに、そのままゴミ袋に突っ込んで即座に捨てるということがなかなか出来ない。
欲しい人を探したり、ネットフリマやバザーに出したり、或いは切り刻んでボロ布にしようとしまいこんだり・・・そうして処分に至る手順ばかりが複雑になり、気がつけば未だ私の手元で厳然と存在し続けるモノたち。

今年もまた同じことを繰り返し、幼少時から培われたしぶとい貧乏性に我ながらほとほと嫌気がさし、このままでは来年もきっと進歩がないだろうと、改めてこの状況の打開案を考えていて気がついたことがひとつ。
この私のやっかいな行動パターンを制しているもったいないおばけの正体は、ほとんど盲信に近い罪悪感なのではあるまいか。

そもそも私は、一度供された食べ物を残すことも凄まじく苦手だ。
さすがに会食中に他人の皿の物にまで手を出すことはしないが、大皿で供される呑み会などでは、お開きの時間になっても大量に料理が残っていると居ても立ってもいられず、挙句誰に頼まれたわけでもないのに自ら残飯処理班を引き受けては動けなくなる直前までせっせと自分のお腹に収めてしまう。
ものすごくカッコ悪いし貧乏くさいし、もちろん美容上にも甚だしく問題のある行為である。
わかっちゃいるけどやめられない。病気だろうか。
でも、そっと胸に手を当てて考えてみると、まだ食べられる料理が無残にも残飯として一緒くたに生ゴミバケツにぶち込まれる様子が浮かぶ。或いは、その食材を育ててくれた農家の皆さん、漁業の皆さん、我が身を呈してくれたウシさんブタさんトリさんたちの姿が目に浮かび、心が痛む。
・・というのはもちろん大げさだが、とにかくその料理がそこに存在するまでのあれこれを思うと「ちゃんと食べてあげられなくてごめんね」という気になってしまうのは事実で、要するに私はこの感情が、食べ物以外のありとあらゆる物に対しても働いてしまうのだ。

でも、断捨離が苦手な人なら、思い当たるフシがないだろうか。
たとえ自分にはもはや利用価値が見い出せずとも、きっとまだ使えるものの潜在価値を全否定してゴミとして投げ捨ててしまうことに対する、そこはかとない後ろめたさ。
せっかく縁あって私と巡り合ったのに、あなたの使命を存在価値を全うさせてあげられなくて、ごめんなさい・・・。そんなふうに、物を捨てる際に心のなかで思わず手を合わせてしまうのは、私だけではないと思いたい。


さて、ここでようやく絵本の話である。相変わらず長い枕に耐えてくれてありがとう。
冒頭の書影を見てとっくにお気づきの読者もいるかもしれないが、「かさじぞう」は私のような「捨てたいのに捨てられない人」にとって、胸のすくような素晴らしいおとぎ話なのである。
断言しよう。日本全国のさまよえる断捨離落伍者よ、これさえ読めばあなたは救われる!

何しろこのお話の主人公のじいさんは、なけなしの売り物をあっさりさっぱり、豪快にも一気に手放すのである。
何がいいって、そこに迷いが全くないことだ。
だって、そこにはそれを手放す理由が明確すぎるほどに存在しているのだから。
さらに素晴らしいのがその妻、ばあさんである。それこそ本人達の明日を左右するはずの大事ななけなしの商品を、あっさり路傍に捨ててきた夫に対し「どうせ持って帰ってきたって今夜の足しにはならんし、お地蔵さんにあげてよかったな」と、まるっと全肯定!妻として見習うべき、ありえないほどの人格者である。

それにしても、ああ、羨ましい。
私が捨てきれずにいるあの不用品たちも、こんな風に迷いなく、間違いなくそれを必要とする人々にごっそりまとめて差しあげてしまえたら、どんなにすっきりさっぱりすることだろう。こちらはモノを捨てることへの罪悪感から開放され、相手にも喜んでもらえるなんて。それだけでも十分win-winなのに、おまけに予想もしなかったボーナスまで届くなんて、まさに僥倖ではないか。断捨離に憧れる亡者にとっては完璧過ぎるエンディングである。

結果的にただの売れ残りとなった手作りのかさ。餅すらないまま年末を迎えた老夫婦にとって、それはまさに不用品だったに違いない。
それでも、少しでもいい年越しをと藁を編み市場へ出かけ報酬を得る努力をした、つまりやるだけのことをやりきったじいさんにとって、かさはある意味ジリ貧の大晦日の一日を前向きに生きる活力となり得たわけで、もうそれだけでその存在理由を全うしていたのかもしれない。
そして多分、断捨離に惑う私のような者にとって最大のヒントはここにあるのだ。

手放し給え。されば汝は救われる。

これを呪文のように唱えながら新年を迎えれば、ついに私も次のステージへ行けそうな気がする。

posted by えほんうるふ at 08:02 | Comment(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

プロフェッショナル仕事の流儀・本音ダダ漏れ編

さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ)さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ)
レイモンド・ブリッグズ 作/絵

福音館書店 1974-10-25

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生まれてこのかた、ずっと冷え性のような気がする。
この季節ともなれば、家の中でも靴下2枚重ねにレッグウォーマーにモコモコの極暖スリッパで完全防備。上半身もヒートテックに始まりたくさん着込み、最後はモコモコのロングガウンで全身を覆うという念の入れよう。正直、とても人に見せられる格好ではない。それでも以前は宅配便のお届けなんぞ来る度に何とかもう少しまともな格好で応対せねばとあわてて取り繕ったりしたものだったが、もう怖いもののないオバサンなので平然とそのまま玄関口で受け取ったりしている。女として終わっている。
いやいや、女として終わらないための冷え性対策なのである。
たまたま昨日会食した女友達は、私より1コ上世代のお姉さんなのについ先週まで年下だと思いこんでいたぐらいとても可愛らしい女性なのだが、やはり冷えにはかなり警戒しているという。最近何かやってますかと聞けば、腹巻き+カイロを全力でお勧めされた。彼女はもともと腹巻きを愛用していたそうだが、最近はそれにカイロをプラスして一年中お腹を温めているという。オフシーズンに使うために春先にはカイロを箱買いし、夏場に汗疹を作ってまで腹巻きカイロを励行してしまう彼女はさすがに特殊例かもしれないが、やはり冷えを制す女は加齢を制す説は正しいのかもと改めて感心した次第。

さて、そんなこんなで今日の絵本は私と同じく寒がり屋が主人公だ。
「さむがりやのサンタ」は小さい頃から大好きな絵本だった。初版は1974年。今私の手元にあるのは、娘の5歳の誕生日にプレゼントした第50刷だが、現在も当たり前に書店で購入できる。ということは、今はいったい何刷になっていることやら。紛れもない堂々のロングセラーである。
思うに、この絵本がここまで読み継がれている最大の理由は、クリスマス絵本として、プレゼントを受け取る側ではなく届ける側、つまり絵本のメイン読者である子どもたちに対しては大人の事情でアンタッチャブル案件であったはずのサンタクロースの実像に焦点をあてて描かれた絵本の元祖である、ということではないだろうか。

今でこそ、クリスマス絵本のネタも出尽くして、ありとあらゆる個性的なサンタクロースが絵本に描かれるようになっているが、当時はここまでサンタ氏個人の人となりに迫った絵本はなかったように思う。
サンタさんといえば、何しろたった一人で一夜にして全世界の子どもたちにもれなくプレゼントを配るという重責を担っている人物である。そもそもそんなことが出来るのは神の領域の人間でしかなく、その夢を後押しするがごとく、子どもたちの絵本においてはほとんど画一的に神格化された好々爺が描かれものだった。そのルックスはおしなべて某揚げ鶏屋の看板おじさん同様の恰幅がよく白いあごひげを蓄えた老人男性のイメージが踏襲され、ましてその人格を疑うものなど誰もなく、一様に包容力と慈愛に溢れた人物として登場し、多くの場合は無口でその私生活は謎に包まれたままだった。

ところがこの絵本で描かれるサンタ氏は、世界中の子どもたちに愛される男のカリスマ性なんぞ皆無の単なる「働くおじさん」なのだ。
そしてこのおじさん、従来の威厳と慈愛と仕事への誇りに満ちた人格者のイメージには程遠く、とにかくやたらと愚痴っぽい。コマ割りでセリフの多い絵本だが、実にその9割が年に一度の大仕事に対する愚痴や文句なのだから笑ってしまう。確かに骨の折れる仕事だろうが、何もそこまで義務感丸出しに嫌々やらなくても、と思うぐらい、仕事中の不機嫌な独白が延々と続き、挙句その労をねぎらう子どもたちからのささやかなプレゼントにさえケチをつける始末・・。

この絵本の低評価レビューで「子どもたちの夢を壊す」というものを見たことがあるが、確かに自分の手元のプレゼントがこんな風に不機嫌なオッサンがやっつけ仕事で届けてくれたものだと知ったら、無邪気な小さい人たちの中には、がっかりする子もいるかも知れない。
ちなみに私がこの絵本に出会ったのは小学校高学年の頃だっただろうか。早くも大人に対する不信感をムクムクと募らせていた私はこの絵本のサンタを見て「ほらやっぱり!そうでしょうそうでしょう・・・」と膝を打ちたいような気持ちになり、むしろとても楽しくうれしくなったものだった。
その後も繰り返し折りに触れ読み返していたものだが、自分が大人になるにつれ、見どころ味わいどころが違ってくるのも面白い絵本だと思う。今の私にとっては、仕事中の彼よりもその前後に描かれる私生活描写に興味が惹かれる。長年のやもめ生活ならではの一人暮らしを愉しむ細々としたこだわりが随所に表れているのは人として愛おしく思うし、イギリス人らしい生活習慣がきっちり描かれていることから作者ブリッグズの日常生活やその生真面目な人となりを想像するのも楽しい。

絵本の終盤、一年分の仕事を終えて嬉しいベッドタイムを迎えた彼が満ち足りた表情で寝室に運ぶトレーの上には、禁断のお夜食と共に湯たんぽが。こんな細かい描写がなんとも微笑ましい。
私も今夜あたりは湯たんぽを引っ張り出して、冷えを撃退しつつ南の島でのバカンスを夢みよう。

posted by えほんうるふ at 10:06 | Comment(0) | キャラクターに惚れる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

持てる貧しさと持たざる豊かさ

おさらをあらわなかったおじさん (岩波の子どもの本)おさらをあらわなかったおじさん (岩波の子どもの本)
文フィリス・クラジラフスキー 絵バーバラ・クーニー

岩波書店 1978-04-21

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社会人になってしばらく経った頃のこと。
私はふと、もう自分は大人なんだからこれからは量より質の生活を目指そう、と思い立った。
それは、正社員として働きはじめ、今までより格段に自分の自由になるお金が増えた私の、人生初のお買い物フィーバーの熱がようやく落ち着いて、正気を取り戻した朝だったのかもしれない。
落ち着いて部屋を見回して見れば、短期間に激増したモノのおかげで私の居場所は明らかに狭くなっていた。
ベッドの上には、毎朝の出勤前のファッションショーの残骸が積み上がっている。
ベッドの下には、読みかけの本と買ったまま積読するばかりの本、そして雑誌がこれまた山を成している。
うんざりした気分でそれを一枚一枚畳み直し、ハンガーにかけ、タンスにしまい・・・なんてやっているうちに、私もようやく気がついた。
モノが豊富にあることが、生活を心を豊かにするわけではないことを。
むしろ大量のモノを管理もできぬまま所有だけはしているという状態は、ひとつひとつのモノへの愛着を薄れさせ、日々の生活そのものを投げやりにやり過ごす、ろくでもない習慣につながりかねないことを。

よし、とにかく、まずは少しずつでも物を減らそう。
次に何か買う時は、一つ増やす前に二つ処分しよう。
断捨離という言葉がブームになるずっと前に私はそれを決意したのだった。

と、ここまで思い出したところで、私が断捨離というと真っ先に思い出す一冊の絵本をご紹介しよう。
別に断捨離がテーマの絵本ではないのだが。

主人公は一人暮らしのおじさんである。
おじさんは仕事から帰るときちんと自炊して夕食を取る。家事も出来る自立した男なのだ。
だがある日、いつもよりお腹を空かして帰宅したおじさんは、勢いいつもより料理も頑張ってしまい、ようやくそれを食べ終えた時はヘトヘトで、つい出来心で夕食後の食器洗いをサボってしまうのだ。

ああ、分かる!!非常によく分かる・・・
私もよく、外出や仕事から帰ってきて大急ぎで家族全員分の夕食を作り、何とかそれぞれに食べさせたまでは良かったが、そこで電池が切れたようにダイニングテーブルから立ち上がれなくなってしまう。
下手すればそのままそこで寝落ちし、ハッと気がつくと家族は誰もいない・・・
ああまたやってしまったと自分で自分にうんざりしつつ、やれやれと立ち上がり、夜中に一人で皿を洗う。
もっと酷い時はとにかく汚れた皿を流しにまとめるだけまとめて、そのまま朝に持ち越すことすらある。
が、「それをやっちゃぁ、おしめえよ!」とばかりに、私の良心に潜むハウスキーピングの神様が現れて叩き起こしてくれるので、結局家族の誰よりも早起きして明け方に一人で皿を洗っていたりする。

残念なことに、決して本来ズボラでもないはずのこのおじさんの心にその神様はいなかったらしい。
幸い、皿ならまだまだいっぱいあるので、ちょっとぐらい家事をサボっても支障はない。
翌日も、その翌日も、日が経つほどに汚れた皿は積み上がり、ますます皿洗いは億劫になる。
やがて手持ちの食器を使い果たし、石鹸皿や灰皿や、果ては植木鉢まで総動員して食器にする。
バーバラ・クーニーの小粋な挿絵のおかげで、家中に汚れた皿が積み重なり足の踏み場も無い様を描いた頁から悪臭が漂う気配はないが、これがリアルなら間違いなく小バエがブンブン飛び回る地獄絵図である。

そしてついに家中を探し回っても、皿にできるものがなくなった時、おじさんは・・・?
ここで、あっと驚く実に絵本らしいナイスな展開が待っているので未読の方は是非読まれたし。

さて、私がこの絵本を最初に読んだ時に思ったこと。
諸悪の根源はこのオッサンが一人暮らしの癖に手持ちの皿数が多すぎることではなかろうか。
そもそも使ったら即洗わずには皿がない、という状態にしておけば、こんなことにはならなかったものを。
ましてダークサイドに堕ちる前に引き戻してくれる心の神様もいないとなれば、やはりこのおじさんが今すぐ着手すべきはズバリ、断捨離である!


さて、私がひとり密かに断捨離を決意したあの日から、早くも20年以上の月日が流れた。
巷ではミニマリストなどと呼ばれる断捨離を極めた仙人のような人々まで現れ話題になっているというのに、私自身の状況にはほとんど進歩が見られず、忙しい朝にファッションショーの跡がベッドの上に残されるのも相変わらずだし、ベッドサイドには読みかけの本が今日も山積みである・・・嗚呼。
それでも、少なくとも生活用品に関しては無闇に新たな買い物はしなくなった。何かが欲しいとか足りないとか思った時は、まずは手持ちのものをチェックして、あればそれを使う。あるいは何かで代用する。ついでに見つけた不用品を処分する。
食品も、何かを切らしたら買う前にストックをチェックする。ついでに使いそびれてる食材を見つけて使う。
衣類や服飾雑貨なんかは、1枚買ったら2枚捨てる。
・・・なんてことを日々心がけるようにはなった。
おお、ちゃんと進歩しているではないか!
この調子なら、あと数年もすれば私の所持品は半減して今よりずっと身軽で快適な生活を楽しめるはずだ。
さあて、今日は何を捨てようかな?
posted by えほんうるふ at 06:45 | Comment(0) | 身につまされる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

絵本ジャケ買いのススメ

うきわねこうきわねこ
蜂飼 耳 牧野 千穂

ブロンズ新社 2011-07-01

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私の友人・知人には絵本や書籍に詳しいというか、それに関する仕事に就いている所謂プロの方が少なからずいて、彼らの専門知識や造詣たるや、私なんぞ足元にも及ばない。
お仕事なので当然といえば当然かもしれないが、彼らはそれぞれそのキャリアに基づく絵本に対する価値基準をしっかり持っていて、作品としての絵本の良し悪しをきちんとした論拠を元に語ってくれる。その度に無知な私は学ばせてもらうばかりで、友人に恵まれていることをしみじみありがたく思うのだった。

ちなみに私は専門家でもないただの絵本好きなので、例えそれが参加者の多いイベントだろうと、多くの識者が見ている可能性があろうと、常に選書は堂々と「私個人の好き嫌い」が基準である。
ところが面白いことに、単純に好き嫌いだけで選んでいるだけなのに、その私が一読してうわ、ダメだこりゃと思う絵本はやはりプロの目から見ても残念なシロモノだったりするらしい。
さらに面白いというか謎なのは、そんなふうに私の周囲では素人の私とプロの友人たちの価値観が期せずして一致することが多いのに、それがいわゆる世間の価値観とは必ずしも一致しないということだ。
早い話が、私と私の周囲ではほぼ満場一致でOUTな絵本が何故か巷では話題になっていたりする。

これは一体どういうことなのだろうか。
私はSNSやリアルのおつきあいを通じて、おそらく同性同年代の平均的な人よりもかなり多くの絵本好き・絵本愛好家・絵本関連のプロフェッショナルと交流があると思うのだが、にも関わらず、そのうちの誰かがその巷で話題のバカ売れ(ということになってる)絵本を絶賛しているのを未だかつて見聞きしたことがないのだ。
私が絵本好きだと思っている皆さんと世間一般の絵本購入層とはよほど乖離があるのだろうか。
つまり、絵本を買う人が絵本好きとは限らないということか。
あるいは、絵本好きが買う絵本と、圧倒的に数が多いその他大勢が買う絵本は一致しないということだろうか。

そもそも私は絵本に関して売上げランキングのようなものには全く興味がない。大抵、自分の好みや価値観には全く沿わない作品ばかりが並んでいるからだ。
つまり絵本だったら欲しいものは自分で選べるから、見知らぬ大勢のオススメは必要ない。
でも、自分が良くわからない分野のモノ、例えば子どもに頼まれた文房具とか壊れた家電等をあまり時間をかけずに購入する必要がある場合は、私もやはり手っ取り早くランキングを頼ることがある。
ということはやはり、あの売り上げランキングというものを左右する大多数の人々は、そのジャンルの商品に普段詳しくもなく、特段のこだわりや思い入れを持たず、そして時間の無い人なのだろうと想像する。
なるほどそれならば、ランキングに並ぶ絵本と私と私の親しい人々との評価が一致しないのも至極当然である。

絵本に限らず、かように物を選択する根拠を他人の評価に頼っている限り、いつまでたっても自分自身の意志や選択に自信が持てない→マジョリティの意見に依存する→ますますオリジナルの価値観が鈍る→マスコミに容易に操作される付和雷同型人間に成り下がる・・・というのは極端だが、笑えない現実でもある。
ただでさえ日本人は同調圧力に弱い民族だ。(私の周囲に限って言えば全くそうでもないが)
皆と同じ意見なら安心だ。皆が良いと言ってるものなら良いはずだ・・・
その盲信は、自分の頭で考えることを放棄していることにほかならない。
まして、メディアがとりあげて絶賛すれば、イコール「世間の総意」だろうと判断するなんて、幼い子供が親に何かをねだる時の根拠にする「クラスの『みんな』が持ってる」というのと同じぐらいバカバカしいことだ。
そんな調子で、絵本一冊自分で選べないなんて、大人としてあまりにも情けないではないか。

いや、だったらむしろ、絵本選びから始めてみればいいじゃないか、と思う。
今日から一人でこっそり出来るささやかなオリジナル選択眼研鑽法として、こんなにとっつきやすいものはないだろう。
時に長編小説にも負けない深い味わいを持ちながら、一冊を丸ごと読むのにたいして時間もかからないから、忙しい現代人にもピッタリだ。そして絵本だったら、例え周囲の誰にも賛同されなくても「でも私はこれが好き!」と主張しやすいような気がする。気の弱いアナタにもぴったりだ。

そこで手始めに私がオススメしたい絵本選びの方法はズバリ、「ジャケ買い」である。
敢えて中身を読まず、もちろんレビューも読まず、表紙だけを見て直感で選んでみるのだ。
ここで大事なことは、ネットで書影を見るのではなく、書店なり図書館なりで実際に手にとってみて、生のその作品の佇まいごと味わって判断することだ。
そこで一目惚れするような表紙なら、まず間違いない。絵の持つ力とタイトルというごく短い文章だけで、その作品は既に明らかな存在感を放つ実力を持っているからだ。
何となく手には取ってみたけど、今ひとつ決定力に欠けるような・・・そんな時にはこう考えてみよう。
「自分はその表紙の原画を見たいと思うか否か?」
私の経験上、この観点でのYes/Noは絵本の判断基準としてかなり有効である。

あああ、絵本のレビューブログのはずなのに、またしてもとんでもなく枕が長くなってしまった。
つまり今日紹介する「うきわねこ」は、私自身がここ数年にやってみた「完全なるジャケ買い」の中でも群を抜いて大当たりだった作品のひとつなのだ。
正直なところ、絵本としては特に斬新な内容ではないと思う。でも、絵はもちろん、ストーリー展開、登場人物のキャラ設定、言葉選び、装丁・・・絵本たるものこうでなくちゃ、と私が勝手に思う外せない要素をきっちりクリアしていて、久々のジャケ買い大成功の喜びも含めて、初めて読み終わった時の新鮮な満足感がなんともうれしかったのを覚えている。


さらに全然話は違うが、このところ私は基礎代謝量の低下をひしひしと感じている。
要は加齢と共に身体が重くなり、余計なものを身につけやすく落としにくい体質にじわじわと変化をしているのを日々実感しているのだ。
たかが四十半ばでこんなことでは先が思いやられる。更年期目前、いや多分片足突っ込んでいるとはいえ、私はまだまだ自分の意志で身体を動かせるしなやかな人間でいたいのだ。
そう思って近頃始めたのが週3回のスロトレである。日頃の運動不足で衰えた私でも無理なく始められて、ちゃんと習慣化すれば間違いなく今後の健康維持と基礎代謝向上に効くはずだ。がんばろう。

それと同じく、感性だって中高年こそ筋トレが必要で、使わなければどんどん衰える一方なのではないだろうか。
失敗を恐れてネットのクチコミやランキングに頼ってばかりで、自分の手足や五感を使った試行錯誤から学んで自分の意思決定のコアとなる感性を鍛える努力をサボっていたら、いずれ自分の頭でものを考えられなくなってしまう。
というわけで親愛なる大人の皆さん、心と感性の筋トレに、絵本のジャケ買いチャレンジを是非お試しください。

posted by えほんうるふ at 02:07 | Comment(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

オトナ向け絵本について、再び。

華々しき鼻血華々しき鼻血
エドワード ゴーリー Edward Gorey

河出書房新社 2001-11-01

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私は「大人向け絵本」と称されるジャンルの絵本全般にかなり強いアレルギーがある。
単なる偏見だろうとも思うのだが、これがなかなかどうして根強くて、小洒落た書店でうっかり「大人向け絵本コーナー」なんてポップを見かけようものなら、それだけでもう鼻がムズムズして目が痒くなり動悸が激しくなる。ぐらいの気分にはなる。困ったものだ。
かつてこのブログを始めるにあたり、訪れる読者の多くは間違いなく大人かつ絵本好きだろうと想定して、そんな私の頑固な体質或いは認知傾向についてはなるべく早く表明しておかねばと思い、初期のエントリーでもわざわざ偉そうに書き残している。

だが、そんな私が初めてこのブログでR指定絵本の傑作として紹介したのが、他でもないこの「華々しき鼻血」であった。
念のため当時のエントリーを読み返してみたところ、何ら今も思うところに変化無しだったので、超長文を読みやすいように若干体裁を整えるにとどめて、そのまま今夜の大人絵本会の参考レビューとして挙げておこう。作者エドワード・ゴーリーの人物像が伺えるインタビュー集についても触れているので、興味のある人には参考になるかと思う。
(過去ログ)活字中毒のオトナに贈る絵で読むホラーコメディ


思えばあれから十数年もの時が経った。
その間に出会ったたくさんの素晴らしい絵本の中には、ある程度の人生経験があればこそ味わえるだろうと思えるものや、子どもに読ませるにはもったいない、むしろ大人のお楽しみとしてこっそりとっておきたいような、まさしく「大人向け」の傑作と思える作品も少なからずあり、改めて、絵本の世界の豊かさと懐の深さに感動と感謝をおぼえ、そしてこの先どんな作品に出会えるだろうという期待におとなげなくワクワクしてしまう。ムフフ。

というわけで私の「大人向け絵本アレルギー」は順調に寛解へ向かっている。めでたい。
ところが、安心してはいられないのだ。
なんとも鬱陶しいことに、このところ「子ども向けを装った」「思いっきり大人向けの絵本」なんてものが企画・出版されていて、そのデカくて醜悪な釣り針に気が付かない大人たちが面白いように釣れるものだから、金の匂いを嗅ぎつけたマスコミにもてはやされ新作ベストセラーに飢える絵本出版界が飛びつき作者はドル箱扱いされているとか・・・

私もその話題の一冊を恐る恐る立ち読みしたことがあるが、もはや絵本というより質の悪い大人のおもちゃのように思えるシロモノで、個人的には手に取るのも憚られる最悪の部類であった。ぺっぺっぺ、である。
せっかく克服しつつあるアレルギーなのに、うっかりこういうものを手放しで絶賛している人のレビューなど目に入ろうものなら、恥ずかしさのあまりアナフィラキシーを起こしそうで大変危険である。くれぐれも、慎重に距離を置かねばならぬ。
そして私と私の愛する人々の穏やかな老後の為にも、心ある人には地道にその危険性を訴えていく所存である。

posted by えほんうるふ at 01:29 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

愛しきはみ出し者たちの城

アンドルーのひみつきちアンドルーのひみつきち
ドリス・バーン

岩波書店 2015-07-08

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秘密基地。
嗚呼、なんと甘美な響きのする言葉だろうか。
別にそこに引きこもって悪巧みをしたいわけではないが、とにかく人知れず安心して過ごせる自分だけの場所が欲しい。
それは老若男女に関わらず、ある程度自立心を持った人間ならば誰でも持っている感情ではないかと思う。

以前このブログで佐藤さとる氏の「おおきなきがほしい」を採り上げた時にも書いたが、私も幼いころ友達と一緒に秘密基地を作ったことがあった。
作ったと言ってもせいぜい築山に石を運び込んで竈に見立てたり、自然に生えている蔦を引っ張って間取りの境界にしたり、茂みを手で押し広げてくぼみを小部屋と称したりという、理想の巣作りのへの創意と工夫の殆どが想像力で補完されるような他愛のないものだったが、それでも、そういう「場」が実際にあるというだけで、さらに幼い頃のおままごととは一線を画した充実感を感じていたのも事実だ。

今日の絵本、「アンドルーのひみつきち」の主人公アンドルーは、次々と訪れるワガママな施主たちのオーダー通りに、バラエティに富んだ秘密基地をたった一人で、限られた材料と工具で、しかも一日三棟という驚異のスピードで作り上げてしまうミラクルな匠である。
しかも、それぞれの秘密基地は小規模ながらかなりの建築技術を要しそうな難易度の高い建物で、施主である個性豊かな子ども達の夢をきっちり実現した心憎い意匠となっている。もし私が初めて秘密基地に憧れる年頃にこの絵本に出会っていたら、間違いなく夢中になってしまっただろう。

しかしながら、全く建築工程を見せること無く一瞬で施工完了する見事な秘密基地の数々を見ていると、絵本だからってファンタジーにも程があるよな・・・と若干鼻白んでしまうのは、私の心が汚れているからだろうか。

いやいや、そうではないと思いたい。
思うに、人が秘密基地を切望する気持ちには、それに先立つ「誰にも邪魔されず思い切り○○をしたい!」というオタク的な行動欲求と「城を持つことで自分のIDを人知れず主張したい!」という隠しきれない承認欲求とが、少なからずあるはずなんである。ただ単に今いる場所から逃れたい、という逃避願望だけならば、秘密といいつつ実はみんなに見せびらかしたい基地なんてものをわざわざこしらえずに、もっと目立たぬありふれた場所にこっそり潜伏すればいいのだから。

であればこそ、である。
こんな安直な「アンドルー!ぼくも秘密基地がほしいよぉ!」「はい、できました!」
なんてドラえもん的な超速展開ではなく、依頼者それぞれの秘密基地への思い入れだのコダワリだのをいかに限られた資源で実現するかという、それこそ施主と匠との丁々発止のやりとりの過程があってしかるべきではなかろうか。
いや、この絵本の主題はそこじゃない!子どもにとって絵本とは無邪気な冒険心とささやかな自立心とをすんなり盛り上げてくれるワクワクするようなファンタジーであることが重要であってだな・・・などと仰る向きもいらっしゃるかも知れない。
それはそうかもしれないが、そこに敢えてツッコミを入れてこそのオトナノトモである。
私は個々の子どもの夢の実現の過程が観たいのだ、過程が!
憧れが魔法のように一瞬で叶ってしまっては味気ないし、ありがたみも半減である。
素敵な絵本ではあるけれど、その辺りの描写がそっくり省かれてしまっているのが何とも片手落ちというか、私にとっては歯がゆい作品でもある。


ところで、この絵本が個人的にタイムリーだった理由がもうひとつ。
高校生になった息子が学校で進路指導の話を聞いてくるようになり、いつの間にか建築関係の仕事への興味を口にするようになった。
今までは趣味の釣りの延長で水産や海洋研究等の仕事に興味を示していたので、親も何となくそんな系統の進路を想像していただけに、その方針転換はかなり意外で家族の皆がびっくりしたものだ。
実際に彼がこの先どんな仕事に就くことになるのかはまだ見当もつかないが、思えば確かに彼は幼い頃からモノづくり系の遊びに夢中になってきた。その傾向は今も変わらず、学校でも美術や技術の授業で出された制作課題に取り組む時は驚くほどの集中力で何やら凝ったものを作り上げている。親としてはその情熱の一部でも主要科目の勉強にも向けてくれれば・・・と思わないこともなかったが、これはこれで好き勝手に伸びるに任せていれば案外面白い方向へ成長していくのかもしれない。
そして、そんな凝り性の息子がもし本当に将来誰かの秘密基地建築を仕事として手がけることがあれば、きっとアンドルーに負けない面白い仕事ぶりを見せてくれるんではなかろうか・・・?
たかが一冊の絵本を読んでここまで幸せな妄想ができるのだから、私も大概おめでたい親である。

posted by えほんうるふ at 07:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | オトナが地団駄を踏む絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月28日

おたのしみはこれからだ

いまがたのしいもんいまがたのしいもん
シャーロット・ゾロトウ文  エリック・ブレグヴァド絵

童話屋 1991-07

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子どもはいいな、好きなことができて。
子どもはいいな、遊んでばっかりで。
子どもはいいな、堂々と恥がかけて。
子どもはいいな、誰かに甘えられて。
子どもはいいな、泣きたい時に泣けて。
子どもはいいな・・・

大人が子どもを羨む理由はいくらでも思いつく。
しかし、私は彼らを羨ましいとは全く思わない。
無邪気に遊ぶ子どもたちを見れば微笑ましいとは思うものの、不思議と自分もあんな子どもの頃に戻りたいなどとは、金輪際思わないのだ。

自分自身の幼少時代がものすごく不幸だったからか?
いやいや、決して裕福な家庭環境ではなかったが、かと言って衣食住に困っていたわけでも虐待されていたわけでもなく、私の子ども時代は悲惨だった!と胸を張れるほどのドラマも身に覚えがない。

覚えがあるとすれば、幼いころの私は恐らく、大人が羨ましく思うほど無邪気な子どもではなかったのだ。
性格もあるだろうし、生まれ育った環境のせいもあるだろう。とにかく私は可愛げのないマセた子どもだった。

むしろ大人になるにつれて、ようやく自由に自分を表現できるようになった私にとって、今日の絵本「いまがたのしいもん」は大人であることの幸せを再確認するような、なんだかうれしい絵本なのだ。

絵本の中で主人公の少女は、いかに子どもの自分が自由で、大人が不自由な存在かということを、あれやこれやと例をあげて得意げに母親に語っていく。

でも実際は、幼い彼女が語る「子どもの特権」はどれも全て、大人になっても自分の意志で楽しめることばかりなのだ。
大人であることは、実は子どもが思っているほど不自由で窮屈なものではない。むしろ子どもよりもずっと自由で楽しくて広い世界が待っている。

確かに、大人になるほど自分の中の「オトナ像」に縛られて、笑われるのが怖くなり、どんどん心が不自由になる人もいるだろう。
なんて残念なことだろうと思う。せっかく自分で自分の言動の責任をとれるぐらい大きくなったのに、自らを分別の鎖で縛るとは。

ちなみに私の場合、冒頭に書いた、子どもはいいな・・・と世間一般に思われる理由のあれこれもみな、大人になってから、それも最近になってようやく出来るようになったことばかりだ。
いわば大人になってようやく、少しずつ心が自由になって、コドモになる楽しみを覚えたとでも言おうか。

だから私は、作中後半「おとなだって たのしいもん!」と母親が少女に反撃するシーンではいつも、「そうだそうだ!大人こそ今が楽しいもん!子どもの頃なんかより、ずっとずっと今が楽しいもーん!」と、おとなげなく叫びたくなってしまうのだ。
オトナ、万歳!!


posted by えほんうるふ at 07:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

もしも願いが叶うなら

ロバのシルベスターとまほうの小石 (児童図書館・絵本の部屋)ロバのシルベスターとまほうの小石
(児童図書館・絵本の部屋)

ウィリアム スタイグ William Steig

評論社 2006-03

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小さい頃から、絵本や童話を読んでいて、突然心優しい魔法使いが現れて、
主人公がなんでも好きな願いを叶えてもらえるというシチュエーションを見かける度に、
「早まるな!まずはその特権を死ぬまで回数無制限に使えるようにお願いするんだ!」
と、幼心に意地汚く思っていたのは私だけだろうか。
今ならばさらに浅知恵が働いて、
「いや待てよ。そんな強欲なことを口に出したら、バチが当たってなけなしの1回すら権利抹消になるかもしれん!しからばここはひとつ、なるったけ謙虚に見せかけつつ、出来るだけ汎用性の高い願いをば・・・」
などど、グダグダ考えているうちに時間切れになるような気がする。

今日のお題絵本「ロバのシルベスターとまほうの小石」も、そんな願いごと叶ったりの絵本。
主人公のロバの男の子シルベスターは、小石を拾い集めるのが趣味。
ある日、たまたま見つけた奇妙な赤い小石に、触れただけで思いついた願いを何でも叶えてくれる不思議な力があるらしいと気が付いたシルベスター。ところが、ヒャッハー!と舞い上がったのも束の間、直後に絶体絶命のピンチに遭い、本能的に身を守ろうとした彼はこともあろうか「岩になりたい」などと思ってしまい、願いどおり物言わぬ岩に変身してしまうのだ。
もはや小石に触ることすらできない哀れなシルベスター。果たして彼は無事、元のロバの子に戻れるのか・・・?


それにしても私はこの絵本を読む度に、ああやはり神様はよい子をちゃんと見ているのだな、と思ったものだった。なにしろ幼く無邪気なシルベスターは、小石が希望を叶える力に気づくと、健気にまずこう考えるのだ。

「なんてうんがいいんだろう。これからは、のぞみがなんでもかなうぞ。
父さんや母さんはもとより、しんるいや、友だちにも、すきなことをさせてやろう!」


もう、言ってることが美しすぎて心の汚れた大人の自分が恥ずかしくなってくる。
自分の願いよりも先に他人の幸せを考えられる心やさしく無欲なシルベスター。
そんな彼だからこそ、魔法の小石が見つけられるのだろう。半世紀近くも生きてきたのに、一向に私がそんな稀有な小石と巡り会えそうにないのは至極当然というものだ。

それなのに、折角の僥倖をとっさの判断でみすみす無にしてしまう、あんまりな展開。
このシーンも読む度に私はもどかしさのあまりキーッ!!とハンカチを噛み締め引き裂いてしまいたいような気分になる。(ちなみにこれまでの人生で、悔しい時に本当にそんなリアクションをしている人を見たことはない。一度見てみたいものだ。)

でもこの残念展開、実は自分たちが気がついていないだけで、現実世界で誰にでも普遍的に起きていることなのかもしれない、とふと思う。
絵本で読めばこそ、この「やっちまった」展開のトホホっぷりは誰にも一目瞭然で、読者は一様に「キーッ!」となるわけだが、実際のところ、私やあなたが毎日無意識にやりすごしている、その場その場の状況に応じた意思決定も行動選択も、見る人が見れば、あるいは賢者や神から見れば、折角の千載一遇のチャンスをみすみす無駄にしているのかもしれない。
そのほとんどは本人が気付かないまま流れていってしまうのだろうが、たとえ十分チャンスを認識していてもなお、最善の選択ができないことだって多かろう。
つまり、誰もシルベスターを笑えない。
人は愚かで、残念な選択を繰り返す生き物なのだと思う。
そしてまた、自分の気が付かないところで天の采配に助けられたりしているのかも・・・。

なんて考えると、平凡な自分の毎日も案外面白くスリリングに思えてくるのでオススメである。

posted by えほんうるふ at 06:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | 身につまされる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

笑える絵本と笑えない現実

もっとおおきな たいほうを (こどものとも絵本)もっとおおきな たいほうを (こどものとも絵本)
二見正直

福音館書店 2009-11-10

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自分では季節感ぐらいしか気にしていないつもりなのだが、月に一度の大人絵本会のお題作を発表する度に、「タイムリーですね」と言われることが多い。
今回の絵本も、最初に読んだ時から面白いなぁと気に入って、いつかは皆で語りたいと候補に入れておいたものなのだが、今回のお題に採り上げたことで、妙にタイムリーな選書になってしまった。
今回に限っては、嬉しくもない偶然なのだが・・・

主人公の王様は、代々持っている立派な大砲を打ちたくて仕方がない。
ついには隣国にいちゃもんをつけ、いきなり大砲をぶっ放すという大胆な威嚇行動に出てご満悦。
ところが敵にあらずと高をくくっていた相手国から思わぬ反撃を受け、あっという間に二国はより仰々しい兵器を作ってはこれ見よがしに国境に配置するという威嚇合戦に突入する。
もっと、もっともっと、もっともっともっと大きな大砲を・・・!
やがて大きさ勝負では埒が明かないと悟った王様は、作戦を変更。
もっと派手にとかもっと面白い形にとか、兵器としての性能からどんどんズレていく大砲。
もはやハリボテと化した双方の大砲がついに打たれたその時、何が起こったか?

とぼけた味の絵柄から緊張感はまるで伝わってこないが、一国の君主が躍起になって国威発揚にいれあげること、ましてそれを隣国と競って暴走していく様がテンポよく描かれている。
それがいかに滑稽でバカバカしいことか子どもでもよく分かる、面白くて興味深い絵本である。

ところで、私がこの絵本と出会ったのはこどものともとして配本された時ではなく、後にその傑作集として改めてハードカバー版が発行された2009年であった。
そしてそれは、奇しくもかの大国でオバマ政権が誕生した年である。
福音館書店のことだから、恐らくは周到にタイミングを見計らってのハードカバー化だったのだろうが、とにかく大国の新リーダーが全面に打ち出した対話路線の外交政策に世界中が注目し、平和への期待が高まっていた時だったと言えよう。
いくらこの絵本の主人公の言動が我が隣国の厄介な君主のそれに重なろうとも、対する相手国のリーダーは少なくともキツネよりは冷静で賢明で、その挑発にやすやすと乗るとは思えなかった。
だからこそ、私もこの絵本はファンタジーとして微笑ましく受け入れ、無邪気に笑っていられたのかも知れない。

ところが、あれから月日は流れ、今や現実の国際情勢がこの絵本をタイムリーだと悠長に笑っていられるほど安穏なものではなくなってしまった。
身勝手極まりない我が隣人の傍若無人な振る舞いはエスカレートする一方で、彼らの敵国たるかの大国のリーダーもまた、個人的には史上最悪とも思えるまさかの人物が担っている有様だ。
その二国に挟まれ、いつ何時有事に至るかと戦々恐々としている我々は、さしずめ小川に棲んでキツネに喰われるばかりだったピンクの魚であろうか。

軍事力を誇示し、兵器の強力さをやたらに吹聴したところで、地球という狭い土俵上で戦っている以上、土俵を壊せば自分の足元だって揺らぐことになる。
お互いそんなことは先刻承知の上での無意味な茶番を演じているのだと思いたいが、何しろ「王様」は常識の通じない相手である。日頃どれほど平穏な日常生活を享受できていても、刃物を所持したキ○ガイが隣に住んでいて引っ越しも出来ないという状況に変わりはなく、この平和がいつまで保たれるのかは誰にも分からない。

絵本の終盤、まぬけな二国が双方に打ち合った大砲はどちらも使い物にならなかった。
王様の大砲はポチャンと目の前の川に落ち、相手国には届かなかった。
果たして、ピンクの魚たちは無事だったろうか。
できそこないの大砲が怪しい生物兵器などでは無かったことを祈ろう。

posted by えほんうるふ at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 笑える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする