2017年01月26日

絶望転じて希望となす

ぜつぼうの濁点ぜつぼうの濁点
原田 宗典・作  柚木 沙弥郎・絵

教育画劇 2006-07

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4ヶ月前、ご縁あって前職とは全く違う業界の全く異なる業種に転職をすることになった。
そして今私は、はっきり言ってこれまでの仕事人生で一番の試練の時を過ごしている。
なんて言い方をするとものすごく大変そうだが、実はものすごく楽しい。
すごく楽しいが、問題は現状では限りなく収入がゼロに近いということだ。
こうなると、いかに仕事に対し自分のモチベーションを維持するかが、そのまんま日々のQOLを左右することを、シミジミと思い知る毎日である。
だから今日は、自分で今の自分を応援するための文章を書いてみようと思う。


今の私が仕事から得られる報酬は、職務上関わったお客様のお悩みを聞き、その気持ちに寄り添い未来に明るい展望を持って頂くことで、きっとその人のこの先の人生に何かしらの良い変化をもたらしているに違いないと思える、その自負と希望、それだけだ。
或いは、未経験の仕事をするにあたり、学ばなければならないことをタダで教えてもらっているという考え方もできる。確かに今、一期一会の出会いを重ねて学ばせていただいたいることは全て、お金に替えられない貴重な経験となっている。

もちろん、転職に先立っては自分の資質や今後のキャリアプランもよくよく考慮したつもりだ。
早くて半年、おそらくは1年で自己投資を黒字化でき、その後は運と頑張り次第で収入の大幅アップも見込める、という長期展望のもとに踏み切った決断だった。
実際、奉仕活動のつもりは全くないのだが、今現在のワークライフバランスとしては完全に収支が赤なので、現状はボランティアに近いのかも知れない。
それでも、うなだれて不安に満ちた表情だったお客様が、少しでも明るい表情を取り戻して帰る姿を見送る時、私のやっていることはきっと無駄ではない、きっと少なからず社会的に意義のあることに違いない、と思えるのだ。
その自尊感情こそ、今私がこの仕事から得られる最大のベネフィットかも知れない。


おっと、このブログって絵本のレビューブログじゃなかったっけ?

正直言ってこの数ヶ月、大好きな絵本についてゆっくり考える心の余裕は全く無かった。
面白いのは、忙しかったり何かに夢中になっていたりショックな事があったりして、ことさら絵本について考える余裕がない時ほど、私の心の中にはその時その時の実生活の状況に応じて勝手に一冊の絵本が浮かび上がる。
今回も、お題として選ぶまでもなかった。それしか思いつかなかったからだ。

「ぜつぼうの濁点」
ひらがなの国で、ぜつぼうの「せ」に仕えていた「゛」が、主人が常に絶望的なのは自分の存在のせいではないかと思い悩む。
自分さえいなければ、主人の「ぜつぼう」は「せつぼう」という悪くないことばでいられたのに。
思い余った「゛」は、主人に別れを告げ、一人孤独に彷徨い、やがて・・・

紆余曲折を経て「ぜつぼう」の濁点が「きぼう」の濁点に生まれ変わるまでを描いたこの作品は、プロットから言葉の言い回しまで、原田宗典氏ならではの日本語の懐の深さとややこしさを逆手に取った諧謔に満ちていて、まるで落語のように味わい深い。
読む度につい「山田くん、原田さんに座布団一枚。」と呟きたくなるのは私だけだろうか。


働けど働けど収入は微々たるもので、思わずぢっと手を見る・・そんな毎日を絶望と捉えるか。
確かに、あまりにも不甲斐ない日々が重なると、そんな気分になることもある。
それでもやっぱり、私はこの仕事が好きなのだ。
今日はどんな人と出会えるだろうか。どんな話が聴けるだろうか。誰を笑顔にできるだろうか。
結局はその楽しみのほうが上回り、いそいそと出勤し夢中で仕事をし、気がつけば9時10時。
そんな毎日は、決して不幸ではないと思える。
むしろ、家族の理解と協力を得てそれが許されている自分はものすごく幸せな人間だと思う。

仕事はお金のためと割り切ってやり過ごし、仕事以外に人生の楽しみを見出すか。
目に見える収入には直結せずとも、やりがいのある仕事に夢中になれる喜びを糧に過ごすか。
どちらを選ぶにしろ、本人が今を幸せと感じられるならば、そこに絶望はないはずだ。

全く稼げていないくせに、無駄に前向きで楽しそうな私を見て、上司や大先輩がおっしゃる。
「現状に対してのその姿勢・その心の持ちようこそが、この仕事に向いている証拠。きっといずれ大成するから心配ない。あなたは絶対大丈夫!」
これが希望でなくてなんであろう。やっぱり私は幸せだ。


posted by えほんうるふ at 09:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 声に出して読みたい絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

大騒動から何を学ぶか

クリスマスの大そうどう (児童図書館・絵本の部屋)クリスマスの大そうどう (児童図書館・絵本の部屋)
デイビッド シャノン David Shannon

評論社 2007-11

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クリスマスを前に、海の向こうの大国での大騒動に決着が付いた。
超大国故にその全世界の政治経済への影響は計り知れず、想定外過ぎて先が読めない不安も覚えた。
まさかの結末。だと私も思ったものの、紛れもなく、これが今の世界の現実である。
どうしてこうなったのか?を考えることも大事だろうが、それ以上に大事なのはこれからどうするか?だろう。
彼の国の偉い人々はその点、非常に現実的で、賢く行動力のある人もたくさんいるはずだ。
決して楽観視はできなくとも、この想定外な選挙結果がさらに我々が想像しえなかった(いい意味で)想定外な未来へつながることを願ってやまない。

さて、アメリカ・大騒動・クリスマスと来て、ふと思い出したのが本日の絵本。
何しろちょっと膨らませば、まんまハリウッドのクリスマス映画になりそうな、良くも悪くもアメリカ的なストーリーなのである。

クリスマスを前に、ちょっとした思いつきで家族を喜ばせようと、いつもより張り切って飾り付けにとりかかったメリウェザー家のお父さん。
ところが隣人からの思わぬ反応に突如対抗心に火をつけられてしまい、際限のないデコレーション熱に侵され、突っ走った行動に出てしまう。
最初は喜んだものの、次第に困惑する家族。
はじめは賞賛していたご近所さんたちも、何かスイッチが入ってしまったメリウェザー氏のとどまるところを知らぬ暴走ぶりに眉をひそめ、しまいには反目を募らせていく。
そして楽しいはずのクリスマスイブの夜、ついに悲劇が・・・

最初にこの絵本を読んだ時は、なんとなく違和感というか不快感が残った。
心温まるはずのクリスマス絵本なのに、読後に色々と考えてしまい妙に寒々とした気持ちにさせらてしまう、珍しい作品だ。
そもそも、ささやかでも不自由なく家族に囲まれ幸せな家庭を営んでいたはずの善人を絵に描いたような凡庸な主人公が、あまりにも簡単に隣人の挑発に乗り、理性を失ったような行動に出てしまうことが理解できなかった。
そして、その暴走を無責任に煽っていた隣人たちが、手のひらを返したように正義の名のもとに集団での暴挙に出るというのも、とても恐ろしく感じた。

しかし、今一度この絵本を思い出して読み返してみた時、彼の国で実際に起こったあの大騒動とこの絵本の登場人物たちの行動が、何となくリンクしているように思えて、なるほど興味深いと改めて思ったのだ。

おそらくメリウェザー家は決して富裕層ではなく、かといって貧困層でもなく、多くを望まなければ衣食住に困ることもなく平々凡々と生活を営んでいける程度のアメリカの中流家庭なのだろう。
でも、多分メリウェザー氏は実はそんな小市民的な生活に満足はしていなかったのだ。
もっと有名になりたい!人々から賞賛されたい!!という密かな野望が、彼の心の奥底には長年燻っていたのかもしれない。
だからこそ、ちょっとしたきっかけでそのどす黒い野望に火がついてしまったのだろう。
人より目立つセレブを目指して何が悪い。もはや品格や良識などクソ食らえ。
抑圧されていたメリウェザー氏の野望は、一度表に出た途端暴走する。
それはまるで、日頃は堅実な良識派を装っていても、心の奥底ではきらびやかな世界や俗っぽい成功への憧れを捨てきれず、大どんでん返しのような変化を夢見ずにはいられない多くのアメリカの一般市民が、その奥底の気持ちを抑えきれずに、分かりやすい扇動者の言葉に乗ってその一票を託してしまった、という構図にも通じるような気がするのだ。

それでも、この絵本には最後に希望が残されている。
この寛容さと不屈の精神もまた、彼の国の人々の素敵な特性であると私は思っている。
何より、この絵本に描かれているのは子どもではなく、大人の成長物語である。
いくつになっても、人は間違いを犯すし暴走もするだろうが、本人が変わろうと思えば変われないことはないはずなのだ。
そんなわけで、初見はあまり印象のよくなかったこの絵本を、私は改めて採り上げ多くの人に紹介したくなったのだった。

イブの夜、ドナルド・”スクルージ”・トランプの元に、亡霊マーロウが現れて、彼が突如改心して大国の長に相応しい善意あふれる人格者に生まれ変わる・・・
なーんてことはあり得ないにしても、クリスマスだもの。
物語めいた夢を持ったっていいだろう。

posted by えほんうるふ at 12:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

稼ぐこと、生きること

新装版 レモンをお金にかえる法新装版 レモンをお金にかえる法
ルイズ・アームストロング/ビル・バッソ

河出書房新社 2005-05-21

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なんだかんだで私のフリマ歴は30年ぐらいになるだろうか。
私が最初に個人間の不用品売買を利用したのは、高校時代にアメリカの南西部郊外の従兄弟の家に1年間居候していた時のことだった。
そこは砂漠地帯の町の中心をどーんとハイウェイが貫き、その道に沿って点在する住宅はそれぞれが数キロも離れているような土地で、買い物といえば、週末毎に郊外型の巨大なスーパーへ車で買い出しに行くのが恒例だった。しかしそうした巨大スーパーの品揃えはコストコのようになんでもでかくて大量で、とても居候の高校生が少ない小遣いでちまちまと買い物を楽しむような雰囲気ではなかったため、もっぱら私の楽しみは、行き帰りの道すがらに立ち寄る個人の住宅でのガレージセールだった。Garage SaleやらYard Saleやらの張り紙や看板を目を凝らして見つけては叔父に車を停めてもらい、アメリカの田舎の一般家庭が放出する日用雑貨や二束三文の中古服を喜々として買い漁った。在米時の私にとっては、驚くほどの安値で何でも手に入るガレージセールでの買い物が娯楽の少ない田舎生活の唯一の楽しみだったのだ。

ちょうどその頃から、日本でも民間団体によるフリーマーケットが各地で盛んに開催されるようになり、帰国した私は早速出店を申し込み、アメリカから持ち帰ったガラクタをばんばん売った。フリマ出店の為に買い付けていたわけではないが、チープな舶来雑貨が若者に受けていた時代でもあり、並べるそばからよく売れて、とても面白かった。

しかし、お店やさんごっこは楽しかったものの、フリマは出店準備も当日の作業もとても大変だった。一日仕事になるし、交通費や食費や手間暇を考えると大抵売上はチャラになってしまった。そんなこんなでだんだんと面倒になり、さらに仕事やら結婚やらでしばらくフリマから遠ざかった。

そして気がつくと世間はネットオークション大流行。煩雑な会場型フリマをやっていた者にとっては、手元のパソコンでほぼ全ての作業が完了するなんて夢のように楽に思え、これまた早速参入。それまでの対面販売と全く同じくつもりで丁寧な対応をこころがけ、評価は4桁にまでなった。

そうこうするうちに我が子らも小学生になり、本人達に部屋の片付けなどをさせる度に、大量の「要らないもの」が出るようになった。
そんなある日、長女が学校でもらってきたのが「キッズフリーマーケット出店者募集」のチラシ。売り手も買い手も子どもに限定され、運営側がその手順をかなり丁寧に指導してくれるので、本物のお買い物ごっこを経験させるには丁度いい。早速子供たちは友達と一緒に出店に応募して、準備にとりかかった。

どうやったら売れるか。
どんな事態が想定されるか。
子どもなりにあれこれ考え工夫をしているのを見て、ふと私が思い出したのが今日の絵本だった。

「レモンをお金にかえる法」はアメリカで発行され1982年に邦訳版が刊行された「経済の絵本」だ。確か最初に私がこの本を手にしたのも小学生の頃で、親がやっている商売の流れもこんなものかと、膝を打つ思いで繰り返し読んだものだった。
思えばあのアメリカの片田舎でのガレージセールでも、その家の子どもが片隅に自分のコーナーを作り、私物に値段をつけて並べていたりしたものだった。彼らがそのお店屋さんごっこを、この絵本に描かれたような発展性のある事業として捉えていたとは到底思えないが、なるほど店構えというか雰囲気はまさにこんな感じだった。

さて、我が家の子供たちのフリマ初出店の顛末は・・。
お店屋さんごっこ自体は大いに楽しんだようだったが、面倒な準備と当日の大騒ぎを経てようやく得られた利益のあまりの少なさに呆然としていたように思う(笑)
たった数百円の純利益を得るのがいかに大変か!
それを思い知っただけでも充分だと母はほくそ笑んだ。

今となっては、長女はフリマアプリなどを使いこなし、もっと手軽に不要になった私物を現金化しているようだ。それでも、あの泥臭く面倒な手売りの現実を経験したことで、たとえ相手の姿が見えなくても、あくまでもそれは生身の人間相手の取引であり、単なるネットを介したモノとカネの交換ではないことを認識し易いのではと思う。

私より上の世代の親たち、特に経済的に恵まれた層の人々にとっては、子どもがお金のことで知恵を絞るなんて浅ましい、卑しいという考え方も根強いようだ。しかし、好むと好まざるとに関わらず、資本主義社会に生まれて生きていく以上は、経済に対し受け身ではいられない場面に度々直面する。ただ親に小遣いをもらってそれを消費するだけでは、絶対に身につかない智恵と行動力が必要になってくる。渡る世間の世知辛さは大人になれば嫌でも思い知るので、無邪気な子どものうちにこそ、お金について考え、自ら行動する面白さを経験しておくのも悪くなかろう。

参考リンク:キッズフリーマーケット公式サイト

posted by えほんうるふ at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 実用的な絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

異性育児の醍醐味

おいていかないで (幼児絵本シリーズ)おいていかないで (幼児絵本シリーズ)
筒井 頼子 林 明子

福音館書店 1988-01-30

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我が家には3歳違いの姉弟がいる。
幼い頃から周囲に感心されるほどやたらと仲が良く、
兄弟仲がかなり険悪な家庭で育った親としては
ことさら仲良くすべしと躾けた覚えもないのに
私の子の兄弟仲がこんなにいいはずがない!
と思え、純粋にとても不思議だった。
まあ、我が子同士の仲の良さを訝しむあまり、
このままいくと将来ヤバイ関係になるのでは・・・
などと余計な心配する母親は私ぐらいかもしれないが、
とにかく本当にいつも、仔犬や子猫が
じゃれあうように仲良く育ってきたのだった。

そして、どうせ思春期にもなれば口もきかなくなるよ、
という周囲の予想をよそに、まさに青春真っ只中の今も
毎日楽しそうにゲラゲラ笑い合っている。

最近面白いのは、たった3歳とはいえ、
確実に姉のほうが歳は上なのに
傍目には完全にキャラが逆転しているというか、
息子のほうがお兄ちゃんぶっていることが多いことだ。

例えば、何か家事の手伝いを頼んでも
娘はなんだかんだと調子よく役目を免れ、
結局「しょうがねぇなぁ・・・」と腰を上げるのは
息子のほうだったりする。

その様子はまさに今日の絵本「おいていかないで」
に出てくるあやことおにいちゃんのようで、
私はこの絵本を読む度に思わずくすりと笑ってしまう。

あざとい!と言ってしまえばそれまでだが、
作中でおにいちゃんを思いのままに操るあやこは、
まさに天性の小悪魔である(笑)
いや、こうして小悪魔は育まれるというべきか。

一人で外に遊びに行きたいおにいちゃん。
でも、あやこのお陰でちっとも思い通りに動けない。
くっそー!
・・・・でも可愛いから許す。
なのである。はーっはっは!

でもそんなおにいちゃんがまた、
母の目から見ると可愛くて仕方ない。

実際のところ、我が家の娘も実は
かなりクールなところがある子なので
上手に甘えたほうが自分も楽だし
弟の自尊心も満足させられるということを
無意識に分かってやっていそうなところが
ちょっと怖かったりもする(^_^;)
でも、息子も息子でそんな姉のしたたかさを
分かっていながらワガママを許しているらしく、
女、怖え〜!とかオモテウラ半端ねぇ〜!
とよく笑っている。
ようは、お互いに身近な異性として
その性差の理想と現実を
日々目の当たりに学んでいるらしい(笑)

でも、そんな姉弟でもお互いの彼氏彼女の話は
照れくさくてなかなかしないようで、
それぞれが私にだけこっそり打ち明けてきたりする。
そんな時の彼らは姉や弟に見せる姿とは
また違って、まんま歳相応の
自信も経験値も足りない子どもでしかない。
かわいいなぁ、と思う。
それぞれ、一番身近な異性から学んだことを
将来の良い恋に活かせるといいねぇ・・・
などど、呑気に母は思うのであった。
(これ、あの子達の目に入ったら激怒されそう(^_^;))

posted by えほんうるふ at 12:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | ニヤニヤしちゃう絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月26日

権利の持ち腐れ

みんなの世界 (岩波の子どもの本)みんなの世界 (岩波の子どもの本)
マンロー・リーフ

岩波書店 1982-01

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まさか、我が家の朝夕の食卓でこれほど「政治」が話題に登ろうとは。

昨年6月、改正公職選挙法が成立し、
選挙権年齢が20歳以上から18歳以上に引き下げられた。
先日行われた参議院議員選挙はこの新法が初適用され、
18,19歳の約240万人が新たな有権者として現れたことになる。
奇しくも我が家には、まさにその当事者たる今年18になる子がいるため、
思い切り身近なニュースという実感があるのだ。

果たして、参院選から一夜明けて総務省から公表されたその
「新たなる層」の投票率は、18歳51%、19歳39%と、
あれほど世間が大騒ぎしていた割に二人に一人は棄権という
残念な結果であった。

非力な一市民とはいえ、確かに国政に参加している実感が持てる
めったにない機会なのに、しかも今回それに初参加できるなんて
それだけで歴史に参加できるという面白い経験だろうに、
なぜ放棄してしまうのだろうと素朴に不思議に思った。
何も面倒なことはない、投票所に行って紙切れに数文字書くだけだ。
ネットを覗いて大事件のスレッドに記念カキコする程度の行動力で、
それよりずっと意義のある祭りに参加できるというのに。


その場の空気を読むことが何より大事な社会に育った私達は
とにかく表立っての自己主張が苦手だ。
まして私の知る限り、この国の事勿れ社交術の基本は常に
「不特定多数の人前での政治と宗教の話はタブー」であったし、
それは今も、年代を問わず人付き合いの不文律として
脈々と受け継がれているように思う。

それらを堂々と主張できる人々は、強い人々なのだ。
叩かれようと避けられようと、それを上回る信念で動けるのだ。
でもほとんどの人はそこまで強いメンタルは持っていない。
変に主張して強い人々に目を付けられるのが怖い。
圧倒的多数のモノ言わぬ弱い人々の間にいて、
目立って叩かれたり笑われたりするのも怖いのだ。

そりゃ私だって慣れないことをするのは怖い。
こんな辺鄙な匿名ブログですら政治の話をするなんて、ビクビクものだ。
でも、本当に怖いのはそんなことじゃない。
怖がりの大人だからこそ、無知な子ども達に教えなくてはいけない。

彼らは気づいているだろうか。
与えられた権利を行使しないということは、
その全権を他人に委ねるという意思表示をしていることになることを。
良し悪しにかかわらず現状を肯定していることになることを。
未来がどうなろうと文句が言えない立場に自分を追い込んでいることを。
君たちが大好きな「自分探し」やら「自分らしく生きる」こととは、
真逆の道を進んでしまうということを・・・。


おっと、また全く絵本に関係のない話を書き連ねたようだが、
それでも今日ここで紹介する絵本は、まさにこのテーマの重要さを
幼い子どもにも噛み砕いて説く一冊だと私は思っている。

さらに痛烈なのは巻末に続く「困った人図鑑」である。
これらの頁を子どもたちに読み聞かせる時、
なんとなく後ろめたい気持ちになる人もいるかもしれない。
少なくとも、私はそんな情けない大人の一人だ。

初版は1953年に発行された古い古い作品ということもあり、
世の中の現状を鑑みると必ずしも全面的に賛成できる内容ではないが、
小さな子どもと政治の話なんて出来るわけがないとお思いの方には、
きっかけになる一冊として大いにお勧めしたい絵本である。

posted by えほんうるふ at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

このさきにどとあえなくても

ねずみとくじら (評論社の児童図書館・絵本の部屋)ねずみとくじら (評論社の児童図書館・絵本の部屋)
ウィリアム・スタイグ作  せた ていじ訳

評論社 1976-12

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先日、友人が主催した絵本好きが集う会に参加するにあたり、
「出会いを描いた絵本」を紹介して欲しいという話があり、
とっさに思い浮かべたのがこの絵本だった。

海が好きなねずみは、自作の船の処女航海中、
アクシデントで海に落ちてしまう。
そこへたまたま通りかかったくじらに助けてもらったのが
ふたりの出会いだった。

ねずみの命を救ったくじらは、旅の道すがら、
ねずみを故郷の象牙海岸へ送り届けてやることにした。
大海原の上で共に過ごすうちにふたりは親友となるが、
やがて別れの時がきて、ねずみはくじらに感謝を述べ、
いつかその恩返しをすることをくじらに誓うのだ。


「いつも、いのちのおんじんとおもっているからね。

ぼくのたすけがいるときがあったら、よろこんで

やくにたつつもりだから、わすれないでくれたまえ。」



溢れる気持ちに嘘はなくとも、小さなねずみがいったいどうやって
くじらに恩返しができようか。
それでもくじらは笑ってねずみの思いを受け止める。


「あのちいさいねずみくんが ぼくのやくにたちたいとさ。

なりはちいさいが、しんせつのかたまりだな。

ぼくはかれがすきだ。わかれるなんて、つらいなあ。」



こうしてふたりは別れ、またそれぞれの暮らしを始める。
月日は流れ、それぞれがもう若くなくなったころ、
今度はくじらが嵐でアクシデントに見舞われる。
浜に打ち上げられ、どうにもならないくじらのもとへ
現れたのは、なんとあの日別れたきりの友達だった。
さて、ねずみはあの日の約束を果たせるのだろうか・・?

その姿形大きさは似ても似つかないけれど、
実は同じ哺乳類という大きな共通点のあるふたり。
でも、作中ではそれはサラリと触れられているだけだ。
むしろ、それぞれがどんなに異なっていたか、
どんなふうに、その違いゆえの失敗を許し合い、
かけがえのない友情を育んでいったかが、
淡々と語られている。

そう、物語は、最後までひたすら淡々と進んでいくのだ。
それなのに、いや、だからこそだろうか、
何度読んでも私は最後のページで目が霞んでしまう。

初めてこの絵本を手にとったのは近所の図書館だったと思う。
もともとスタイグは大好きな作家で、
なかでも代表作とされる「ロバのシルベスターと魔法の小石」や、
「ゆうかんなアイリーン」などは我が家の子ども達もお気に入りで、
かなり頻繁に繰り返し読み聞かせをねだられたものだった。

そんなお馴染みのちょっと野暮ったいスタイグ作品に並んで
ひときわシックでお洒落な装丁の一冊がこの絵本だった。
おお?っとソソられて何気なく読んでみての感想は、
深夜にテレビをつけたら古い洋画をやっていて、
何気なく見てみたら思いがけず大当たりの良作でホクホク、
ぐらいのものだった。
でも、その後何度も読み返す度に、じわじわ沁みるようになった。
とにかく、この絵本の何が好きって、
甘さを抑えたスタイグの絶妙な色使いの絵ももちろんだが、
なにより、瀬田貞二さんの訳による、
上品で端正な日本語文がたまらないのである。
読み返す度に、うっとりしてしまう。

最終頁の完璧な文章は別格として、
作中で私が一番好きなのは、この一節。


ボーリスは、ねずみの ちいさい かわいさややさしさ、

かるいふるまいやこわね、ほうせきのようなめの

かがやきに ひきつけられましたし、エーモスは、

くじらの おおきなからだやどうどうとしたようす、

ちからやうごき、ひびくこわねやあふれるしんせつに

うたれました。



自分にないものを持つ相手を好ましく思い、
慕い敬い惹かれ合うふたりの気持ちが、
無駄のない美しい日本語で贅沢に表されている。

最初にこの文章に出会った時は、なぜだか妙に嬉しくなって
何度も小さな声で音読してみては、
はあぁ・・日本人でよかったぁ・・・・
とため息と共に遠くを眺めてしみじみしてしまうほど、
ことばフェチの私の心は、
うたれました。とさ。

posted by えほんうるふ at 12:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 泣ける絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

憧れの樹上生活

おおきなきがほしい (創作えほん 4)おおきなきがほしい
佐藤 さとる/村上 勉

偕成社 1971-01

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小学校低学年の頃、私は妖精だった。
正しく言えば、妖精になった気でいた。
小学校の入学式で出会って以来ずっと仲良しだった友達と二人で、
学校から帰ると毎日のように「妖精ごっこ」に興じていたのだ。

都内とはいえ私が生まれ育った町は比較的緑や田畑の多い土地柄で
当時、家の近所にはまだ子どもが隠れやすい小さな茂みやら
狭い雑木林なども点在していた。
その中の一つに、私達が「ようせいのもり」と呼んでいた
小さな築山があった。
それは住宅街の外れ、せせこましく区切られた田んぼの脇にあり、
灌木と雑草がこんもりと生い茂った丘のようなものだった。

からまった蔦や灌木の陰にケモノ道のような小道があり、
くぐり抜けて中に入り、一番高いところに登って行くと
ぽっかりと空が開け、ちょうど小部屋のように
少しだけ広いゴキゲンな空間になっていた。
外周には外部からの侵入者を見張るのにちょうどいいような
イイ感じに枝の張り出した低い木も生えていた。
まさに天然の秘密基地のようなその場所に私たちは入り浸り、
そこに住む妖精としてせっせと巣作りに励むという、
ファンタジーのようで妙に生活感溢れるごっこ遊びに興じていた。

思えば当時から私は間取りフェチだったのかもしれない。
ごちゃごちゃと植物が生えた狭苦しい小山の踊り場スペース中で
こっちはお風呂、こっちは台所、こっちは寝室・・
などと、壁もないのに無理矢理に間取りを想定して、
小石や枝をそれらしく配置するのが楽しかった。

今日の絵本「おおきなきがほしい」に最初に出会ったのも
まさにその頃だったと思う。
木の上に自分で自分の居場所を作るというその発想に
ドキドキするほどの共感を覚え、
何度も何度も繰り返し読んだ覚えがある。

大好きな絵本だったけれど、当時から何となく反感を感じてもいた。
なにしろ、作中、主人公かおる少年が木の上に作った自分の部屋は、
ガラスサッシの窓やら、天井から下がる蛍光灯の照明器具やら、
本棚に机に椅子にベッド、おまけにガスも水道も完備で、
あまりにも全てが整い過ぎていたのだ。
これではほとんど地上の快適な自分の家を一人暮らし用に縮小して
そのまま木の上に移設しただけではないか。
キャンプのように不便だが野趣あふれるアウトドア活動の醍醐味や
森の妖精ならではの生活の知恵、みたいなものが入る隙がない!

そりゃ、木の上で自分で作って食べるホットケーキは格別だろうけど、
かおるったらちゃっかりエプロンとスリッパなんて身につけて
タワマンのカウンターキッチンよろしく窓の外の眺望を眺めつつ、
プロパンガス使用の昭和感漂う簡易コンロで
何の苦労もなくホットケーキを焼いている・・・ように見える。

違う違う、ちがーう!!
そこはやはり、樹上の小屋の竈で魔法のように火をおこして
黒光りするスキレットでたっぷりバターで焼いてこそ、でしょーが!

・・・なんてことまで幼心に思ったかどうか定かではないが、
私は未だにこの絵本を読む度に、そのクライマックスとも言える、
樹上の部屋で快適な四季を過ごす素晴らしい情景描写のところで
究極のアウトドア物件に対する個人的な思い入れが邪魔をして、
名状しがたい「コレジャナイ感」に地団駄を踏むのである(笑)


さて、私が例の「ようせいのもり」に入り浸り、
夢中になって遊んでいたのはせいぜい1〜2年ぐらいだったろうか。
だんだんとその場所は通り過ぎるだけの風景となり、
足を踏み入れることはなくなった。
やがて灌木が伐採され、気が付くと更地になっていた。
月日が流れ、私も友達もそれぞれ結婚して地元を離れた。
帰省の折り、ふと思い出して車窓から目を走らせたが、
最寄り駅に続く私鉄線路から見えたはずの例の小山は、
住宅地がさらに造成されて、跡形もなく消えてしまっていた。

可愛かった(はずの)妖精たちも、すっかりおばさんになった。
それでもあの日々の思い出は、半分湿った枝の匂いや
夢中で集めて指先を染めたヤマゴボウの実の色やらと共に
鮮やかなまま、私の記憶の中できらきらと輝いている。

posted by えほんうるふ at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月24日

少年よ、フォースと共にあれ。

ラチとらいおん(世界傑作絵本シリーズ―ハンガリーの絵本)ラチとらいおん
(世界傑作絵本シリーズ―ハンガリーの絵本)

マレーク・ベロニカ
福音館書店 1965-07-14
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ジェンダーレス男子、という人々がいるらしい。
メイクやファッションで中性的なビジュアルをアピールし、
女性以上に高い美意識を持つという彼ら。
あまりテレビを見ない私は最近ようやくその存在を知ったのだが、
個人的には非常につまらない人々に思えた。
なにしろ、彼らの存在定義はあくまでも外見が中性的であることでしかなく
たとえばLGBTの人々のように、自己のイデオロギーに関する葛藤だとか
生き方そのものを左右する信念や主義主張があるわけでもなさそうだ。
たまたま恵まれた容姿の演出が目新しくてウケタ、ぐらいのもので、
恐らくマスコミに飽きられるまでの人寄せパンダでしかないだろう。
彼らはその拠り所である若さと美しさを失った時、どう生きていくのだろう。

さて、彼らのようなイロモノはそこらに置いておくとして、
その他の一般男性の多くにとっては今も「美しくなりたい」よりも
「強くなりたい」という願いこそが普遍的なものなのではないだろうか。

女の私からすると、強けりゃいいってもんじゃないだろ!と思うが
闇雲に強くなりたがる男子のアホっぽさは、それはそれで愛おしい。
ちなみに、いかにも筋骨隆々でたくましく強そうな男性が
実は異様にメンタルの弱いナイーブな性格だったりするのは珍しくないらしいが、
それもやはり、男子たるもの強くなくては!というジェンダー刷り込みから
自分の内面の弱さを肉体という鎧でカバーしようという流れだとすると
なんとも健気でカワイイではないか。

今日の絵本「ラチとらいおん」の主人公ラチ君も、そんなごく普通の
「強くなりたい」男子だ。
弱虫で仲間はずれにされていた彼は自分の弱さを自覚しており、
強さの象徴である百獣の王ライオンに憧れる。
そこへ突如ジェダイ・マスターのごとく現れる、「らいおん」。
どうみても強さよりも可愛さがウリに見える、マスコット的風貌のそいつは
実は鬼トレーナーで、謎の体操その他でラチ少年を鍛え上げ、
やがて弱虫だったラチは心身共に強い子に育ち、立派に独り立ちしていく・・
という、絵本ならではの激ユルスポ根のようなストーリーだ。

実際のところ、どう考えてもあのへなちょこ体操で強くなれるわけがない。
でも、ラチ少年は間違いなく本当に強くなったのだ。
いったい、らいおんはどんな魔法を使ったのだろうか?

賢い読者の皆さんならとっくにお気づきのことと思うが、
らいおんがラチに施したトレーニングは魔法でもなんでもなく、
やり方次第で誰でも自分の子供に授けてやれる力である。
つまり、人が本当に強くなるために必要なことは、
強靭な肉体でも喧嘩のテクニックでもなく、
「自分は強い」と信じられる心を持つことなのだ。

最初は不安でも、ちょっとした成功体験で気持ちは変わる。
最初は錯覚でもいい。思い切ってやってみて、たまたま成功した、でいい。
重ねていけば、それは確実に自分を支える実績になる。
ほら、バック・トゥ・ザ・フューチャーでも、
弱虫で情けなかったマーティのパパのキャラを激変させたのは、
思い切ってやってみたらビフを一発で倒せたという、
まぐれのような成功体験の賜物だったではないか(笑)!

ところで私がこの絵本のすごく好きなところは、
成長したラチ少年のもとから去っていくらいおんの
去り際が無駄にカッコイイところだ。
彼は去っていったが、その存在はいつもラチ少年と共にある。
そう、まさにルークの元を去ったジェダイ・マスター達が
いつも背後霊のように彼を見守っていたように。
らいおんが心にいる限り、ラチはもう弱虫じゃない。強い男なのだ。
ラチ少年よ、フォースと共にあれ。
(ああ、なぜか今回はやたらと私の映画好きの血が騒ぐ・・)

ちなみにこの絵本については、
このブログを始めた当初にもとりあげて既に書いているが、
今思えば、かなりあっさりした内容だった。
それでも最近のエントリーに比べたらちゃんと内容をレビューしているので、
気になる方は合わせてこちらも閲覧されたし。

posted by えほんうるふ at 03:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

なんにもないから、なくならない

おくりものはナンニモナイおくりものはナンニモナイ
パトリック マクドネル Patrick McDonnell

あすなろ書房 2005-10
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たぶん私は、物欲が少ないほうだ。
例えば、絵本。
長らく絵本好きを自称して同好の士を集めるような活動をしているので
さぞ大量の蔵書があるのではと思われがちだが、実はそうでもない。
どれほどお気に入りの絵本でも、どこかで読めるならば
別に私の手元に無くてもいいと思ってしまうからだ。
版元で売り切れると二度と出会えそうもない絵本だとか、
既に絶版になっていてたまたま古書店で再会した、
なんて場合はさすがに迷いなく購入するが、
それすらも、二度と会えないならそれはそういう縁だったのだろうと
案外さっぱりと思いを振りきれてしまうので、あまり執着しない。
もちろん、作家自身のことをすごく気に入っている場合は
機会あればよろこんで著作品を購入するが、
それも好きだから所有したい、手元に置いておきたいというより
その存在への感謝というか応援というかお布施というか
そんな気持を表したくてお金を使っているという意識の方が強い。

子供の頃も、何かが欲しくて欲しくて親に強請ったという覚えがない。
アンタは欲がなくて可愛げがない、と親に言われたことは何度もある。
実家は商売をしていて子供の目にも家計は決して楽ではなさそうで
あれこれ欲しがって親が不機嫌になるのを見るのが嫌だった。
同級生”みんな”が持っているのに私だけ持っていない、
なんてものもたくさんあったような気がするが、
それで悔しいとか悲しいとか思った記憶は無い。
むしろ人と同じ物を持つのはできれば避けたかった。
今思えばそんな可愛げのない子供だったから、
ずっと友達が少なかったのかもしれない。

おっと。
2月といえばバレンタインもあったし、ここはひとつ
ラブラブでスイートな絵本をとりあげようと思っていたのに
なんだか殺伐とした色気のない話になってしまった。
いかん、いかん。
では今回はホワイトデーのギフト需要にもばっちり応える
甘ったるい絵本を紹介してみよう。

ムーチは大好きなアールにプレゼントをしたかった。
だって今日はいつもと違う、特別な日だから。
ムーチは一生懸命考えた。何をあげようか?
でもアールはもうなんでも持ってるのだ。
なんでも持ってるひとが喜ぶ贈りものは・・・ナンニモナイ!
みんなを見ていると、ナンニモナイはそこらじゅうにあるらしい。
そこでムーチは買いに出かけた。ナンニモナイを。
街中を探したのに、ナンニモナイはどこにも売ってない。
とぼとぼと帰ってきたムーチは、ようやく気がついた。
大きな箱にナンニモナイを詰めてリボンを掛け、
心をこめてアールにプレゼントした。
果たしてアールのほしいものは、まさしくナンニモナイだった!
望み通りのものを貰ったアールはたいそう喜び、
二人はとても幸せな時間を過ごした。
めでたしめでたし。

この絵本を幼い子どもに読み聞かせたらどんな反応が返ってくるだろうか。
「すてきだとおもいます 」とか「わたしもうれしくなりました」
なんて答える子がいたら、嘘くさくて笑ってしまう。
健全で素直で無邪気な子どもなら、プレゼントの箱が空だなんて
どんな理屈を付けようとがっかりしたり怒ったりするのが自然ではなかろうか。

実際には、大人だって形あるものを貰ってこそ嬉しいと思う人が
多数派だろうから、この無邪気なお話はあくまでも絵本の中の
美しいお伽話として微笑ましく受け止められているのだろう。
まさか恋人がこの絵本が好きだからといって、真に受けて
空の箱をラッピングしてプレゼントするおバカさんもいないはずだ。
つまり、実年齢に関わらず、初めから読者ターゲットに
R18程度の精神年齢制限が想定されているとも言える。
要するにこの絵本は「オトナ向け」なのだろう。

ところで私は以前にもここで述べたとおり 、オトナ向け絵本が嫌いだ。
帯に癒やしだの謎の効能が書かれているような胡散臭い絵本や、
書店の絵本売り場よりも小洒落た雑貨店や絵本カフェ的なところが似合いそうな
妙に可愛らしい装丁の絵本は意識的に、あるいは無意識に避けてきた。
そのあざとさが鼻につく上に、内容に共感できることが少なかったからだ。

嗚呼それなのに、今日の絵本は、そんな私の硬派な選書ポリシーを
覆すような可愛らしさとラブラブ加減である。どうしてくれよう。
長らくこのブログを読んでくれている方には、
えほんうるふもついに日和ったか、と思われるやも知れぬ。

ま、それでもいいのだが。

冒頭に書いたとおり、もともと物欲が少ない私は、
四十半ばにしてますますその傾向に拍車がかかっているのである。
気がつけば所有欲だとか独占欲だとか、己を苦しめる無駄な欲から
どんどん開放されてきているような気がする。
10年ほど前に初めてこの絵本を読んだ時は、
「ふーん。さすが谷川さん。上手いねぇ。おいしいねぇ。」
ぐらいの感想しか無かった。
でも、先日久々に読み返してみたら、やけに心に残ったのだ。
作中で繰り返される、ほしいものは、ナンニモナイ!というメッセージに
なんだかシミジミと共感してしまったのである。

まだ早いと思っていたが、私の人生も恐らく折り返し地点を過ぎて、
自然と気持ちが身辺整理に向かいつつあるのだろうか。
ほしいものは、ナンニモナイ。
むしろ、あれもこれも要らないものが多すぎる。
今の私は、新しい物を手に入れるより、今持っているものの中から、
本当に必要な物だけを残してどんどん削ぎ落としたい欲の方が強い。
だから今なら、ナンニモナイをもらったら本気で喜ぶと思う。
場所も取らず、目障りでもなく、死後相続でモメる心配もない!(笑)

でもそんな完璧なプレゼント、ナンニモナイにも唯一の難点がある。
ナンニモナイは、捨てるのがとても難しいのだ。
それはその人と共有する時間のすべて。あるいは思い出のすべて。
このプレゼントをもらえて嬉しいと思える関係があってこその
相手とタイミングの限られるプレゼントなのだと思う。
posted by えほんうるふ at 20:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | ジワジワ来る絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

華麗なるフェイク人生

きちょうめんななまけものきちょうめんななまけもの
ねじめ 正一・文  村上 康成・絵

教育画劇 2008-05

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勤勉を装う怠け者は世の中にあまねく存在するもので、
根が無精なだけに詰めが甘いので、たやすくその本性を見破られる。
バレてないと思っているのは本人だけ、というおめでたさは、
まさに脳天気なナマケモノに相応しい生態かもしれない。

その逆に、怠け者を装った努力家というものも、実は結構いるらしい。
学生時代、テスト前でも妙に涼しい顔でぶらぶら出歩いていたり
学校行事での大役等、普通なら緊張を強いられるような場面でも
ひとり飄々としていて、そのくせ何でもそつなくこなしてしまう人が
あなたの周りにも一人や二人いなかっただろうか。
もちろん、その中には努力不要の真の天才も居たかもしれないが、
実際には人に見えないところで努力を重ねてその状態を維持している
隠れ秀才タイプが少なくなかったのではないかと思う。

そんな人々は、何故わざわざ怠惰を装うのだろうか?
ごく当たり前に勤勉さは人から賞賛されることなのだから、
素直に努力する様を見せればいいものを、
どうしてわざわざそれを隠すのか。

私の推測では、多分彼らはもともと怠惰な人間が安易に思いつくような
低次元なレベルとはかけ離れた高貴なプライドを持っているのだろう。
それはつまり、自分自身に対する美意識の問題なのではないか。
優雅に湖面を進む白鳥が水面下ではせっせと水をかいているように、
髪振り乱して必死にあがく醜い自分は自分が見たくない。
まして他人には決して見せたくない。
そこで、自分が理想とする自分のイメージを全力で保つべく、
こっそり人知れず努力をするのだ。

今日の絵本はそんな愛おしくもややこしい性格のナマケモノが主人公だ。
生真面目な彼は、昼間は人間たちの勝手な期待に応えて、
不本意ながらも怠惰で安穏としたキャラクターを演じている。
が、日が暮れて人目から開放される夜になると、様子は一変。
一分たりとも無駄にせず、勤勉かつ几帳面に朝までの時間を全うするのだ。

そもそも彼が何より嫌悪するのは「怠け者と思われること」だという。
ああそれなのに、何故か彼はナマケモノとして生まれてしまった。
生来の性質と真逆なキャラクターを期待される一生だなんて、
ほとんど性同一性障害に近い苦しみを背負っているかもしれない彼だが、
どうやら元々の能力が高いと見えて、そんな二重生活を破綻なく
それなりに楽しそうに全うしている姿がなんとも頼もしい。


ところで私自身は取り繕いようのない見た目通りの怠け者である。
と、自分では思っているのだが、
どういうわけか常時全力疾走の頑張り屋のように思われてしまいがちだ。
いったいどうしてそんな誤解をされてしまうのか常々疑問だったので、
自分なりに我が身の基本的な行動パターンからその理由を考えてみた。

いい歳して好奇心旺盛なのでやりたいことだけは山程ある
       ↓
時間貧乏性なのでのんびりするのが苦手で、
とにかく何かしていないと落ち着かず、常に手は動かしている
       ↓
そのくせ腰が重いので一つの作業に本気でとりかかるのが遅い
       ↓
そのくせ一度とりかかると無駄に完璧主義なので時間がかかる
       ↓
結局なんでも締め切りギリギリに全力ダッシュで間に合わせる


嗚呼、四十半ばにもなって、我ながら実に大人げない日常である(呆)

それはともかく、この行動パターンから類推するに、
恐らく私を勝手にポジティブに誤解してくださる皆さんの目には、
もしや上記の過程がこんな風に見えているのではなかろうか。


いくつになっても好奇心旺盛でいろんなことに意欲的。素敵!
       ↓
寸暇を惜しんで常に新しいことに取り組んでいる。感心!
       ↓
活動内容が多岐にわたる為、優先順位差が激しい。当然!
       ↓
しかもそれぞれ手を抜かないので時間がかかる。やむなし!
       ↓
多忙にも関わらずなんでも精一杯頑張っている。偉い!


もし私について本当にこんなに都合の良い誤解がなされているとしたら、
誠に申し訳なくもたいへんにありがたいことで、
この場を借りて皆様にお詫びとお礼を申し上げたいぐらいである。
(当然、私の本性を見抜いている賢い人もたくさんいるでしょうが・・)

というわけで本日の結論は、
「人は見かけによらず、愛は常に好意に基づく誤解の上に成り立つ。」
ということにしておこう。

posted by えほんうるふ at 07:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 目からウロコが落ちる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする