2016年05月24日

このさきにどとあえなくても

ねずみとくじら (評論社の児童図書館・絵本の部屋)ねずみとくじら (評論社の児童図書館・絵本の部屋)
ウィリアム・スタイグ作  せた ていじ訳

評論社 1976-12

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先日、友人が主催した絵本好きが集う会に参加するにあたり、
「出会いを描いた絵本」を紹介して欲しいという話があり、
とっさに思い浮かべたのがこの絵本だった。

海が好きなねずみは、自作の船の処女航海中、
アクシデントで海に落ちてしまう。
そこへたまたま通りかかったくじらに助けてもらったのが
ふたりの出会いだった。

ねずみの命を救ったくじらは、旅の道すがら、
ねずみを故郷の象牙海岸へ送り届けてやることにした。
大海原の上で共に過ごすうちにふたりは親友となるが、
やがて別れの時がきて、ねずみはくじらに感謝を述べ、
いつかその恩返しをすることをくじらに誓うのだ。


「いつも、いのちのおんじんとおもっているからね。

ぼくのたすけがいるときがあったら、よろこんで

やくにたつつもりだから、わすれないでくれたまえ。」



溢れる気持ちに嘘はなくとも、小さなねずみがいったいどうやって
くじらに恩返しができようか。
それでもくじらは笑ってねずみの思いを受け止める。


「あのちいさいねずみくんが ぼくのやくにたちたいとさ。

なりはちいさいが、しんせつのかたまりだな。

ぼくはかれがすきだ。わかれるなんて、つらいなあ。」



こうしてふたりは別れ、またそれぞれの暮らしを始める。
月日は流れ、それぞれがもう若くなくなったころ、
今度はくじらが嵐でアクシデントに見舞われる。
浜に打ち上げられ、どうにもならないくじらのもとへ
現れたのは、なんとあの日別れたきりの友達だった。
さて、ねずみはあの日の約束を果たせるのだろうか・・?

その姿形大きさは似ても似つかないけれど、
実は同じ哺乳類という大きな共通点のあるふたり。
でも、作中ではそれはサラリと触れられているだけだ。
むしろ、それぞれがどんなに異なっていたか、
どんなふうに、その違いゆえの失敗を許し合い、
かけがえのない友情を育んでいったかが、
淡々と語られている。

そう、物語は、最後までひたすら淡々と進んでいくのだ。
それなのに、いや、だからこそだろうか、
何度読んでも私は最後のページで目が霞んでしまう。

初めてこの絵本を手にとったのは近所の図書館だったと思う。
もともとスタイグは大好きな作家で、
なかでも代表作とされる「ロバのシルベスターと魔法の小石」や、
「ゆうかんなアイリーン」などは我が家の子ども達もお気に入りで、
かなり頻繁に繰り返し読み聞かせをねだられたものだった。

そんなお馴染みのちょっと野暮ったいスタイグ作品に並んで
ひときわシックでお洒落な装丁の一冊がこの絵本だった。
おお?っとソソられて何気なく読んでみての感想は、
深夜にテレビをつけたら古い洋画をやっていて、
何気なく見てみたら思いがけず大当たりの良作でホクホク、
ぐらいのものだった。
でも、その後何度も読み返す度に、じわじわ沁みるようになった。
とにかく、この絵本の何が好きって、
甘さを抑えたスタイグの絶妙な色使いの絵ももちろんだが、
なにより、瀬田貞二さんの訳による、
上品で端正な日本語文がたまらないのである。
読み返す度に、うっとりしてしまう。

最終頁の完璧な文章は別格として、
作中で私が一番好きなのは、この一節。


ボーリスは、ねずみの ちいさい かわいさややさしさ、

かるいふるまいやこわね、ほうせきのようなめの

かがやきに ひきつけられましたし、エーモスは、

くじらの おおきなからだやどうどうとしたようす、

ちからやうごき、ひびくこわねやあふれるしんせつに

うたれました。



自分にないものを持つ相手を好ましく思い、
慕い敬い惹かれ合うふたりの気持ちが、
無駄のない美しい日本語で贅沢に表されている。

最初にこの文章に出会った時は、なぜだか妙に嬉しくなって
何度も小さな声で音読してみては、
はあぁ・・日本人でよかったぁ・・・・
とため息と共に遠くを眺めてしみじみしてしまうほど、
ことばフェチの私の心は、
うたれました。とさ。

posted by えほんうるふ at 12:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 泣ける絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

憧れの樹上生活

おおきなきがほしい (創作えほん 4)おおきなきがほしい
佐藤 さとる/村上 勉

偕成社 1971-01

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小学校低学年の頃、私は妖精だった。
正しく言えば、妖精になった気でいた。
小学校の入学式で出会って以来ずっと仲良しだった友達と二人で、
学校から帰ると毎日のように「妖精ごっこ」に興じていたのだ。

都内とはいえ私が生まれ育った町は比較的緑や田畑の多い土地柄で
当時、家の近所にはまだ子どもが隠れやすい小さな茂みやら
狭い雑木林なども点在していた。
その中の一つに、私達が「ようせいのもり」と呼んでいた
小さな築山があった。
それは住宅街の外れ、せせこましく区切られた田んぼの脇にあり、
灌木と雑草がこんもりと生い茂った丘のようなものだった。

からまった蔦や灌木の陰にケモノ道のような小道があり、
くぐり抜けて中に入り、一番高いところに登って行くと
ぽっかりと空が開け、ちょうど小部屋のように
少しだけ広いゴキゲンな空間になっていた。
外周には外部からの侵入者を見張るのにちょうどいいような
イイ感じに枝の張り出した低い木も生えていた。
まさに天然の秘密基地のようなその場所に私たちは入り浸り、
そこに住む妖精としてせっせと巣作りに励むという、
ファンタジーのようで妙に生活感溢れるごっこ遊びに興じていた。

思えば当時から私は間取りフェチだったのかもしれない。
ごちゃごちゃと植物が生えた狭苦しい小山の踊り場スペース中で
こっちはお風呂、こっちは台所、こっちは寝室・・
などと、壁もないのに無理矢理に間取りを想定して、
小石や枝をそれらしく配置するのが楽しかった。

今日の絵本「おおきなきがほしい」に最初に出会ったのも
まさにその頃だったと思う。
木の上に自分で自分の居場所を作るというその発想に
ドキドキするほどの共感を覚え、
何度も何度も繰り返し読んだ覚えがある。

大好きな絵本だったけれど、当時から何となく反感を感じてもいた。
なにしろ、作中、主人公かおる少年が木の上に作った自分の部屋は、
ガラスサッシの窓やら、天井から下がる蛍光灯の照明器具やら、
本棚に机に椅子にベッド、おまけにガスも水道も完備で、
あまりにも全てが整い過ぎていたのだ。
これではほとんど地上の快適な自分の家を一人暮らし用に縮小して
そのまま木の上に移設しただけではないか。
キャンプのように不便だが野趣あふれるアウトドア活動の醍醐味や
森の妖精ならではの生活の知恵、みたいなものが入る隙がない!

そりゃ、木の上で自分で作って食べるホットケーキは格別だろうけど、
かおるったらちゃっかりエプロンとスリッパなんて身につけて
タワマンのカウンターキッチンよろしく窓の外の眺望を眺めつつ、
プロパンガス使用の昭和感漂う簡易コンロで
何の苦労もなくホットケーキを焼いている・・・ように見える。

違う違う、ちがーう!!
そこはやはり、樹上の小屋の竈で魔法のように火をおこして
黒光りするスキレットでたっぷりバターで焼いてこそ、でしょーが!

・・・なんてことまで幼心に思ったかどうか定かではないが、
私は未だにこの絵本を読む度に、そのクライマックスとも言える、
樹上の部屋で快適な四季を過ごす素晴らしい情景描写のところで
究極のアウトドア物件に対する個人的な思い入れが邪魔をして、
名状しがたい「コレジャナイ感」に地団駄を踏むのである(笑)


さて、私が例の「ようせいのもり」に入り浸り、
夢中になって遊んでいたのはせいぜい1〜2年ぐらいだったろうか。
だんだんとその場所は通り過ぎるだけの風景となり、
足を踏み入れることはなくなった。
やがて灌木が伐採され、気が付くと更地になっていた。
月日が流れ、私も友達もそれぞれ結婚して地元を離れた。
帰省の折り、ふと思い出して車窓から目を走らせたが、
最寄り駅に続く私鉄線路から見えたはずの例の小山は、
住宅地がさらに造成されて、跡形もなく消えてしまっていた。

可愛かった(はずの)妖精たちも、すっかりおばさんになった。
それでもあの日々の思い出は、半分湿った枝の匂いや
夢中で集めて指先を染めたヤマゴボウの実の色やらと共に
鮮やかなまま、私の記憶の中できらきらと輝いている。

posted by えほんうるふ at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | うっとりする絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月24日

少年よ、フォースと共にあれ。

ラチとらいおん(世界傑作絵本シリーズ―ハンガリーの絵本)ラチとらいおん
(世界傑作絵本シリーズ―ハンガリーの絵本)

マレーク・ベロニカ
福音館書店 1965-07-14
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ジェンダーレス男子、という人々がいるらしい。
メイクやファッションで中性的なビジュアルをアピールし、
女性以上に高い美意識を持つという彼ら。
あまりテレビを見ない私は最近ようやくその存在を知ったのだが、
個人的には非常につまらない人々に思えた。
なにしろ、彼らの存在定義はあくまでも外見が中性的であることでしかなく
たとえばLGBTの人々のように、自己のイデオロギーに関する葛藤だとか
生き方そのものを左右する信念や主義主張があるわけでもなさそうだ。
たまたま恵まれた容姿の演出が目新しくてウケタ、ぐらいのもので、
恐らくマスコミに飽きられるまでの人寄せパンダでしかないだろう。
彼らはその拠り所である若さと美しさを失った時、どう生きていくのだろう。

さて、彼らのようなイロモノはそこらに置いておくとして、
その他の一般男性の多くにとっては今も「美しくなりたい」よりも
「強くなりたい」という願いこそが普遍的なものなのではないだろうか。

女の私からすると、強けりゃいいってもんじゃないだろ!と思うが
闇雲に強くなりたがる男子のアホっぽさは、それはそれで愛おしい。
ちなみに、いかにも筋骨隆々でたくましく強そうな男性が
実は異様にメンタルの弱いナイーブな性格だったりするのは珍しくないらしいが、
それもやはり、男子たるもの強くなくては!というジェンダー刷り込みから
自分の内面の弱さを肉体という鎧でカバーしようという流れだとすると
なんとも健気でカワイイではないか。

今日の絵本「ラチとらいおん」の主人公ラチ君も、そんなごく普通の
「強くなりたい」男子だ。
弱虫で仲間はずれにされていた彼は自分の弱さを自覚しており、
強さの象徴である百獣の王ライオンに憧れる。
そこへ突如ジェダイ・マスターのごとく現れる、「らいおん」。
どうみても強さよりも可愛さがウリに見える、マスコット的風貌のそいつは
実は鬼トレーナーで、謎の体操その他でラチ少年を鍛え上げ、
やがて弱虫だったラチは心身共に強い子に育ち、立派に独り立ちしていく・・
という、絵本ならではの激ユルスポ根のようなストーリーだ。

実際のところ、どう考えてもあのへなちょこ体操で強くなれるわけがない。
でも、ラチ少年は間違いなく本当に強くなったのだ。
いったい、らいおんはどんな魔法を使ったのだろうか?

賢い読者の皆さんならとっくにお気づきのことと思うが、
らいおんがラチに施したトレーニングは魔法でもなんでもなく、
やり方次第で誰でも自分の子供に授けてやれる力である。
つまり、人が本当に強くなるために必要なことは、
強靭な肉体でも喧嘩のテクニックでもなく、
「自分は強い」と信じられる心を持つことなのだ。

最初は不安でも、ちょっとした成功体験で気持ちは変わる。
最初は錯覚でもいい。思い切ってやってみて、たまたま成功した、でいい。
重ねていけば、それは確実に自分を支える実績になる。
ほら、バック・トゥ・ザ・フューチャーでも、
弱虫で情けなかったマーティのパパのキャラを激変させたのは、
思い切ってやってみたらビフを一発で倒せたという、
まぐれのような成功体験の賜物だったではないか(笑)!

ところで私がこの絵本のすごく好きなところは、
成長したラチ少年のもとから去っていくらいおんの
去り際が無駄にカッコイイところだ。
彼は去っていったが、その存在はいつもラチ少年と共にある。
そう、まさにルークの元を去ったジェダイ・マスター達が
いつも背後霊のように彼を見守っていたように。
らいおんが心にいる限り、ラチはもう弱虫じゃない。強い男なのだ。
ラチ少年よ、フォースと共にあれ。
(ああ、なぜか今回はやたらと私の映画好きの血が騒ぐ・・)

ちなみにこの絵本については、
このブログを始めた当初にもとりあげて既に書いているが、
今思えば、かなりあっさりした内容だった。
それでも最近のエントリーに比べたらちゃんと内容をレビューしているので、
気になる方は合わせてこちらも閲覧されたし。

posted by えほんうるふ at 03:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

なんにもないから、なくならない

おくりものはナンニモナイおくりものはナンニモナイ
パトリック マクドネル Patrick McDonnell

あすなろ書房 2005-10
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たぶん私は、物欲が少ないほうだ。
例えば、絵本。
長らく絵本好きを自称して同好の士を集めるような活動をしているので
さぞ大量の蔵書があるのではと思われがちだが、実はそうでもない。
どれほどお気に入りの絵本でも、どこかで読めるならば
別に私の手元に無くてもいいと思ってしまうからだ。
版元で売り切れると二度と出会えそうもない絵本だとか、
既に絶版になっていてたまたま古書店で再会した、
なんて場合はさすがに迷いなく購入するが、
それすらも、二度と会えないならそれはそういう縁だったのだろうと
案外さっぱりと思いを振りきれてしまうので、あまり執着しない。
もちろん、作家自身のことをすごく気に入っている場合は
機会あればよろこんで著作品を購入するが、
それも好きだから所有したい、手元に置いておきたいというより
その存在への感謝というか応援というかお布施というか
そんな気持を表したくてお金を使っているという意識の方が強い。

子供の頃も、何かが欲しくて欲しくて親に強請ったという覚えがない。
アンタは欲がなくて可愛げがない、と親に言われたことは何度もある。
実家は商売をしていて子供の目にも家計は決して楽ではなさそうで
あれこれ欲しがって親が不機嫌になるのを見るのが嫌だった。
同級生”みんな”が持っているのに私だけ持っていない、
なんてものもたくさんあったような気がするが、
それで悔しいとか悲しいとか思った記憶は無い。
むしろ人と同じ物を持つのはできれば避けたかった。
今思えばそんな可愛げのない子供だったから、
ずっと友達が少なかったのかもしれない。

おっと。
2月といえばバレンタインもあったし、ここはひとつ
ラブラブでスイートな絵本をとりあげようと思っていたのに
なんだか殺伐とした色気のない話になってしまった。
いかん、いかん。
では今回はホワイトデーのギフト需要にもばっちり応える
甘ったるい絵本を紹介してみよう。

ムーチは大好きなアールにプレゼントをしたかった。
だって今日はいつもと違う、特別な日だから。
ムーチは一生懸命考えた。何をあげようか?
でもアールはもうなんでも持ってるのだ。
なんでも持ってるひとが喜ぶ贈りものは・・・ナンニモナイ!
みんなを見ていると、ナンニモナイはそこらじゅうにあるらしい。
そこでムーチは買いに出かけた。ナンニモナイを。
街中を探したのに、ナンニモナイはどこにも売ってない。
とぼとぼと帰ってきたムーチは、ようやく気がついた。
大きな箱にナンニモナイを詰めてリボンを掛け、
心をこめてアールにプレゼントした。
果たしてアールのほしいものは、まさしくナンニモナイだった!
望み通りのものを貰ったアールはたいそう喜び、
二人はとても幸せな時間を過ごした。
めでたしめでたし。

この絵本を幼い子どもに読み聞かせたらどんな反応が返ってくるだろうか。
「すてきだとおもいます 」とか「わたしもうれしくなりました」
なんて答える子がいたら、嘘くさくて笑ってしまう。
健全で素直で無邪気な子どもなら、プレゼントの箱が空だなんて
どんな理屈を付けようとがっかりしたり怒ったりするのが自然ではなかろうか。

実際には、大人だって形あるものを貰ってこそ嬉しいと思う人が
多数派だろうから、この無邪気なお話はあくまでも絵本の中の
美しいお伽話として微笑ましく受け止められているのだろう。
まさか恋人がこの絵本が好きだからといって、真に受けて
空の箱をラッピングしてプレゼントするおバカさんもいないはずだ。
つまり、実年齢に関わらず、初めから読者ターゲットに
R18程度の精神年齢制限が想定されているとも言える。
要するにこの絵本は「オトナ向け」なのだろう。

ところで私は以前にもここで述べたとおり 、オトナ向け絵本が嫌いだ。
帯に癒やしだの謎の効能が書かれているような胡散臭い絵本や、
書店の絵本売り場よりも小洒落た雑貨店や絵本カフェ的なところが似合いそうな
妙に可愛らしい装丁の絵本は意識的に、あるいは無意識に避けてきた。
そのあざとさが鼻につく上に、内容に共感できることが少なかったからだ。

嗚呼それなのに、今日の絵本は、そんな私の硬派な選書ポリシーを
覆すような可愛らしさとラブラブ加減である。どうしてくれよう。
長らくこのブログを読んでくれている方には、
えほんうるふもついに日和ったか、と思われるやも知れぬ。

ま、それでもいいのだが。

冒頭に書いたとおり、もともと物欲が少ない私は、
四十半ばにしてますますその傾向に拍車がかかっているのである。
気がつけば所有欲だとか独占欲だとか、己を苦しめる無駄な欲から
どんどん開放されてきているような気がする。
10年ほど前に初めてこの絵本を読んだ時は、
「ふーん。さすが谷川さん。上手いねぇ。おいしいねぇ。」
ぐらいの感想しか無かった。
でも、先日久々に読み返してみたら、やけに心に残ったのだ。
作中で繰り返される、ほしいものは、ナンニモナイ!というメッセージに
なんだかシミジミと共感してしまったのである。

まだ早いと思っていたが、私の人生も恐らく折り返し地点を過ぎて、
自然と気持ちが身辺整理に向かいつつあるのだろうか。
ほしいものは、ナンニモナイ。
むしろ、あれもこれも要らないものが多すぎる。
今の私は、新しい物を手に入れるより、今持っているものの中から、
本当に必要な物だけを残してどんどん削ぎ落としたい欲の方が強い。
だから今なら、ナンニモナイをもらったら本気で喜ぶと思う。
場所も取らず、目障りでもなく、死後相続でモメる心配もない!(笑)

でもそんな完璧なプレゼント、ナンニモナイにも唯一の難点がある。
ナンニモナイは、捨てるのがとても難しいのだ。
それはその人と共有する時間のすべて。あるいは思い出のすべて。
このプレゼントをもらえて嬉しいと思える関係があってこその
相手とタイミングの限られるプレゼントなのだと思う。
posted by えほんうるふ at 20:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | ジワジワ来る絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

華麗なるフェイク人生

きちょうめんななまけものきちょうめんななまけもの
ねじめ 正一・文  村上 康成・絵

教育画劇 2008-05

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勤勉を装う怠け者は世の中にあまねく存在するもので、
根が無精なだけに詰めが甘いので、たやすくその本性を見破られる。
バレてないと思っているのは本人だけ、というおめでたさは、
まさに脳天気なナマケモノに相応しい生態かもしれない。

その逆に、怠け者を装った努力家というものも、実は結構いるらしい。
学生時代、テスト前でも妙に涼しい顔でぶらぶら出歩いていたり
学校行事での大役等、普通なら緊張を強いられるような場面でも
ひとり飄々としていて、そのくせ何でもそつなくこなしてしまう人が
あなたの周りにも一人や二人いなかっただろうか。
もちろん、その中には努力不要の真の天才も居たかもしれないが、
実際には人に見えないところで努力を重ねてその状態を維持している
隠れ秀才タイプが少なくなかったのではないかと思う。

そんな人々は、何故わざわざ怠惰を装うのだろうか?
ごく当たり前に勤勉さは人から賞賛されることなのだから、
素直に努力する様を見せればいいものを、
どうしてわざわざそれを隠すのか。

私の推測では、多分彼らはもともと怠惰な人間が安易に思いつくような
低次元なレベルとはかけ離れた高貴なプライドを持っているのだろう。
それはつまり、自分自身に対する美意識の問題なのではないか。
優雅に湖面を進む白鳥が水面下ではせっせと水をかいているように、
髪振り乱して必死にあがく醜い自分は自分が見たくない。
まして他人には決して見せたくない。
そこで、自分が理想とする自分のイメージを全力で保つべく、
こっそり人知れず努力をするのだ。

今日の絵本はそんな愛おしくもややこしい性格のナマケモノが主人公だ。
生真面目な彼は、昼間は人間たちの勝手な期待に応えて、
不本意ながらも怠惰で安穏としたキャラクターを演じている。
が、日が暮れて人目から開放される夜になると、様子は一変。
一分たりとも無駄にせず、勤勉かつ几帳面に朝までの時間を全うするのだ。

そもそも彼が何より嫌悪するのは「怠け者と思われること」だという。
ああそれなのに、何故か彼はナマケモノとして生まれてしまった。
生来の性質と真逆なキャラクターを期待される一生だなんて、
ほとんど性同一性障害に近い苦しみを背負っているかもしれない彼だが、
どうやら元々の能力が高いと見えて、そんな二重生活を破綻なく
それなりに楽しそうに全うしている姿がなんとも頼もしい。


ところで私自身は取り繕いようのない見た目通りの怠け者である。
と、自分では思っているのだが、
どういうわけか常時全力疾走の頑張り屋のように思われてしまいがちだ。
いったいどうしてそんな誤解をされてしまうのか常々疑問だったので、
自分なりに我が身の基本的な行動パターンからその理由を考えてみた。

いい歳して好奇心旺盛なのでやりたいことだけは山程ある
       ↓
時間貧乏性なのでのんびりするのが苦手で、
とにかく何かしていないと落ち着かず、常に手は動かしている
       ↓
そのくせ腰が重いので一つの作業に本気でとりかかるのが遅い
       ↓
そのくせ一度とりかかると無駄に完璧主義なので時間がかかる
       ↓
結局なんでも締め切りギリギリに全力ダッシュで間に合わせる


嗚呼、四十半ばにもなって、我ながら実に大人げない日常である(呆)

それはともかく、この行動パターンから類推するに、
恐らく私を勝手にポジティブに誤解してくださる皆さんの目には、
もしや上記の過程がこんな風に見えているのではなかろうか。


いくつになっても好奇心旺盛でいろんなことに意欲的。素敵!
       ↓
寸暇を惜しんで常に新しいことに取り組んでいる。感心!
       ↓
活動内容が多岐にわたる為、優先順位差が激しい。当然!
       ↓
しかもそれぞれ手を抜かないので時間がかかる。やむなし!
       ↓
多忙にも関わらずなんでも精一杯頑張っている。偉い!


もし私について本当にこんなに都合の良い誤解がなされているとしたら、
誠に申し訳なくもたいへんにありがたいことで、
この場を借りて皆様にお詫びとお礼を申し上げたいぐらいである。
(当然、私の本性を見抜いている賢い人もたくさんいるでしょうが・・)

というわけで本日の結論は、
「人は見かけによらず、愛は常に好意に基づく誤解の上に成り立つ。」
ということにしておこう。

posted by えほんうるふ at 07:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 目からウロコが落ちる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月17日

その喜びを全ての子どもに

ちいさな ろば (こどものとも傑作集)ちいさな ろば (こどものとも傑作集)
ルース エインズワース 酒井 信義

福音館書店 2002-11-15
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私は玩具屋に勤務しているので、毎年この時期は忙しい。
訪れるお客様の多くがプレゼント用のラッピングや配送を希望され、
細かい作業に追われるうちに一日があっという間に過ぎる。
とはいえ、それはせいぜい何十人分かの子供へのプレゼントにすぎない。
それを思うと、毎年、世界中の何億という子ども達にもれなく
指定の日時にプレゼントを届けるという離れ業をやってのける
サンタクロースという人物の偉大さに恐れ入るばかりである。

子どもといえば、動物たちにも等しく子ども時代があるはずだ。
今日の絵本は、クリスマスのことを人間に聞かされて
「自分もプレゼントをもらえたらいいのに」
と素朴に思った小さなろばの子のささやかな願いが
サンタさんとの出会いと共に叶うという、可愛らしいお話だ。

イブの日の朝、子ども達にクリスマスのことを聞かされ、
小さなろばは、自分も何かプレゼントがもらえないかと夢想する。
その日の夜、足を痛めてしまったトナカイを休ませようと
偶然ろばの子のもとに降り立ったサンタ・クロースに請われ、
ろばの子は一晩を代理トナカイとして立派に務め上げる。
そして翌朝、ろばの子が一番欲しかったプレゼントが届くのだ。

とかくキラキラしたクリスマスの装飾の中にあると
赤一色に線画が描いてあるだけの表紙は、ひたすら地味に見える。
でもどうしてどうして、素直で無邪気で一生懸命なろばの子の姿は
他に類を見ない愛らしさで、ロバフェチの私でなくとも
きっと大好きになるクリスマスの名作である。


ところで、我が家の子ども達のところへはサンタクロースはもう来ない。
何故なら、彼らはもう10歳を超えてしまったからだ。

子ども達がもっと幼い頃は、もちろんサンタさんは来てくれていた。
クリスマスの朝には、子供たちそれぞれの枕元や、
部屋のドアノブにかけた靴下に、
まさしくサンタさんからのプレゼントが届いていたものだ。
さらに、居間に飾ったクリスマスツリーの下には、
両親や祖父母や伯父などからのプレゼントがずらりと並び、
子供たちは待ちきれない様子で早起きしてきて、
たくさんのプレゼントを片端から開けては歓声を上げていた。

そのクリスマスの朝の光景は今も変わらない。違うのは、
サンタクロースからのささやかなサプライズプレゼントはもうない、
というだけのことだ。
なぜ無いのかと言うと、親の私がそれを辞退したからである。

我が家では、子ども達がそれぞれ小学校に上がる頃から、
サンタからの贈り物について、このように説明してきた。

サンタクロースはあれほど高齢なのに、
世界中の子ども達に一晩でくまなくプレゼントを届けるという
重責を担っているので、どれほど老体に無理を重ねていることだろう。
まして、毎年新しく生まれる子ども達の分もあるから、
サンタさんの仕事は増すばかりである。
そこで、せめて少しでもサンタさんのお仕事を軽減するべく、
我が家の子供達への直接のプレゼントは、10歳まででいいですと
サンタさんに申し出ることにした。
つまり、サンタクロースからのプレゼントの受け取りは
それぞれの子が10歳になる年までとし、
それ以降は気持ちだけありがたく頂いて辞退することにしたのだ。
でも、サンタさん側としてはそれでは可哀想だというので、
11歳以降はサンタさんの分まで親が請け負うと伝えてあるので
君たちもそれでよしとしてほしい。

・・・という話を、
私はふたりの子のその歳なりの理解度に合わせて
言葉を変えて繰り返し伝えてきたのだった。
子ども達の方は、毎年聞かされるうちになんとなく
そういうものだと理解したのか、或いは空気を読んだのか、
それぞれ10歳になる年には
「ああ・・サンタさんからは今年が最後かぁ・・」と
ぼやきつつも文句も言わず、その後もそれなりに
クリスマスの朝を楽しみにしているようだ。
もちろん、サンタからの業務委託を受けた者として
親がその分頑張っているからでもあるのだが。

世界中の、ひとの子も、ろばの子も、その他の生き物も、
クリスマスを知る全ての子ども達が、
輝く笑顔でその日の朝を迎えられますように。

posted by えほんうるふ at 07:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

知られざる福利厚生

つきがまあるくなるよるに―ぬいぐるみいあんりょこうつきがまあるくなるよるに
―ぬいぐるみいあんりょこう

大坪 奈古

新風舎 2005-08

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人形やぬいぐるみが主人公の絵本はたくさんある。
絵本の中の彼らの多くはひどく寂しがり屋で、
持ち主である人の心をいかに引き止めるか、
あの手この手で奮闘する様子が描かれたりする。
そんな時、愛らしい彼らの心の中には意地やら嫉妬やら
クールな生身の人間よりも人らしい情念が渦巻いていて
それでいて、あくまでも無機物らしく純粋で一途なので
その姿は微笑ましい反面、いつも少し怖い。

そんな、ぱっと見の愛らしさとは裏腹の
人形系絵本のオドロオドロしさはこのブログでも
あんな作品こんな作品で採り上げてきたが、
今日ご紹介する作品は舞台が夜なので絵は暗めながら
とてもあったかく愛にあふれた作品でなのである。


もし、一番大事にしていた大好きなぬいぐるみが、
ある日突然いなくなってしまったら・・・?

ちなみに我が家の息子も園児の頃から大事にしていた
ぬいぐるみ、というか小さなマスコットがあった。
近所のフリーマーケットで10円だかそこらで買った、
サメだかイルカなのかよく分からない物体なのだが、
彼はそれに「サメちゃん」と名付け、家の中ではもちろん、
外へ出かける時も「ハンカチ・ちり紙・サメちゃん」とばかりに
必ず携行するほどの溺愛ぶりで日々を過ごしていた。

ところがある日このサメちゃんが忽然と行方不明になり、
家中を半狂乱になって探しまくったことがあった。
家族総出で探したものの見つからず、泣くわ喚くわ、しまいには
あまりのショックに夜も眠れず茫然自失、という体の息子を
さすがに見かねて、私は急遽家にあったフェルトの端切れで
サメちゃん二世を作ってやることにした。
とはいえ、そもそも実体の良くわからない物体を再現するわけで、
デザインもへったくれもなく、かろうじて色は近いものの
形も感触も似ても似つかない謎の物体が出来上がってしまった。
恐る恐るソレを息子の前に差し出した時の、「えっ。」という
戸惑いの表情と、その後の泣き笑いのような顔は今も忘れられない。
おそらく胸の中はコレジャナイ感でいっぱいだったろうが、
母の必死さを感じたのか、彼はその不格好なサメちゃん二世を
ひしと胸に掻き抱き、無事に眠りについたものだった。


おっと、いいかげん話を今日の絵本に戻そう。

絵本の世界でぬいぐるみの突然の失踪といえば
実はぬいぐるみ自身の家出だったり不慮の事故だったりして、
紆余曲折の果てに感激の再会、というのがよくあるパターンだ。
ところがこちらは何と、持ち主の子供が寝ているうちに
ぬいぐるみによるぬいぐるみのための慰安旅行に出かけていた、
というのだから、何とも微笑ましいではないか。

慰安というからには、この絵本においての彼らは
立派な労働者、あるいは奉仕者として認められているらしい。
思えば確かに、人形やぬいぐるみ等の存在意義は
ひとたび誰かのものになったその時から、その持ち主の
心を支えるという使命を全うすることにあるような気もする。

(持ち主が)健やかなるときも、病めるときも、
喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
この命ある限り真心を尽くしましょう・・・
と、彼らが誓ったかどうか知らないが、
とかくそういう役割を期待されがちな存在であることは確かだ。
当然、時には理不尽に八つ当たりされることもあろう。
延々と同じ愚痴や呪詛を聞かされてうんざりすることもあろう。
それでも文句ひとつ言わず、ひたすらじっと耐え忍ぶとは、
確かに恐ろしくストレスのたまる仕事に違いない。
慰安旅行のひとつやふたつ、喜んで送り出してやるべきだろう。


ところで息子のサメちゃん騒動だが、怪しい二世誕生からほどなくして
ひょっこりとどこからか元祖サメちゃんが見つかった。
まさにちょっとした所用から帰って来たような顔で当たり前に佇む
サメちゃんを、私はつい思い切り訝しげな目で睨んだものだった。
が、今思えばあの時のサメちゃんは、いつもそばにいてといいながら
しょっちゅう自分をどこかに置き忘れるアホな息子の子守に疲れ、
ちょっと長めの慰安旅行にでも行っていたのかも知れない。

そんなわけで、サメちゃんとサメちゃん二世は、
今も仲良く息子の部屋の本棚に並んでいる。

posted by えほんうるふ at 07:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月22日

大人絵本会を絵に描いたら・・

おはなししましょう (日本傑作絵本シリーズ)おはなししましょう (日本傑作絵本シリーズ)
谷川俊太郎 元永定正

福音館書店 2011-09-20

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気がつけば、私がたまたま使い始めたツイッターを利用して
大人絵本会というおそらく国内で他に類のない絵本専門の
オンライン読書会を立ち上げて早5年半が経過してしまった。
当然ながら、リツイートの仕組みすらよく分からないまま
おっかなびっくり呟いていたスタート時と較べたら、
事前のお題告知にはじまり、開催直前の参加案内ツイートも
開催中のタイムラインの放置具合も手慣れたもので、
ほとんどオートパイロット(と聞くとついComNiftyやら茄子R
なんて単語を思い浮かべてしまうパソコン通信世代の私である)
状態で、私自身はスタートと終了を宣言するぐらいで、
何もせずとも参加者同士で勝手に楽しく盛り上がって頂けるという
非常に楽チンな状態に至っている。

そもそも、私が折りに触れあちこちで説明している通り、
大人絵本会には特に明確な参加ルールというものはない。
参加したいと思ったら、ただ当会独自のタグ#ehonbcをつけて
お題絵本について好き勝手に呟くだけで誰でも参加できる。
流れを無視して通りすがりに一言言い捨てるもよし、
深くしつこく独自の妄想を展開するもよし、全くの自由である。
初参加だろうが飛び入り参加だろうが挨拶は無用で、まさしく
来るもの拒まず去るもの追わずをモットーとしている。

そんなこの会を主宰する私が密かに誇りに思っていることは、
悪意や暇人がはびこるネット上で、これほど無防備に門戸を開き、
実際に多種多様な意見が飛び交う場でありながら、
これまでいわゆる「荒らし」に遭ったためしが無いことである。

かと言って、別に現実世界の大人の社交ルールよろしく
妙に気を使い合って本音をはっきり言わないというわけでもない。
むしろ皆さん、好きも嫌いも遠慮無くガンガン言い合っている。
それでも不思議と、よくネットで見かけるような醜い罵り合いに
発展するようなことはこれまで一度もなく、
たとえ意見が真っ向から食い違ったとしても、ごく自然に
「そういう考え方もあるね」と相手の考えを尊重したり
面白がったり、あるいはサラリと受け流していらっしゃるのだ。
毎度のことながら、私はこうした参加者の皆様の
良識と知性と寛容さとユーモア感覚、それこそ
大人絵本会に相応しい「大人っぶり」に、
毎度毎度、心から感謝すると共に多くを学ばせて頂いている。

それにしても、入会規定があるわけでもないこの会に、
何故これほど素敵な大人の趣味人ばかりが集まってくるのか?
それはもう、主宰である私の人徳にほかならない!
と言いたいところだが、正直言って、謎である。
単に今まで運が良かっただけかもしれないが、今のところは、
絵本を愛する大人に悪い人はいない。
・・・ということにしておこう。

ところで、絵本を愛する大人にいわゆる悪人はいなくても、
愛すべき変な人はいっぱいいるようで、
変人好きの私にとっては誠に喜ばしいことである。
実際、こんなおかしな会を5年以上も続けていると、
常連として残る方々はそれぞれに際立つ個性をお持ちの、
いわゆる「キャラが立つ」人々であることが見えてくる。
そして大人絵本会の愛好者の中には、決して自らは
タイムライン上に姿を表さず、そんな常連さん達の
掛け合いをまるで群像劇を見るかのように
楽しんでいる人すら、実はいるとかいないとか・・・。

また、私のような単なる素人の絵本好きではなく、
実際に仕事として絵本や制作や流通・普及に関わる人たちから、
「プロならでは」の意見が聞けることも増えてきた。
それはたいへん有り難いことなのだが、彼らの発言は
プロだけに有無を言わせぬ力を持っていて、
その場の話の流れを一方的に決定づけてしまいかねない。

つい最近の回でも若干そんな雰囲気になったことがあり、
思わずワンマン主宰の強権を発動して、軌道修正させてもらった。
そしてその時、パッと頭に浮かんだのが今日のお題絵本、
「おはなし しましょう」だった。
(ああやっと、今回の絵本に辿り着いた!)

まさにこの絵本「おはなししましょう」のように、
誰もが自由に、好きなように自分の考えを口に出せ、
誰からもジャッジされず、悪ふざけも脱線も大歓迎。
まさにブレインストーミングを絵に描いたような
様々な吹き出しが並ぶだけのこの絵本のイメージこそが、
私が目指している大人絵本会の理想のかたちなのである。
ああ何て分かりやすい、素敵な絵本だろうか。

そもそも私が大人絵本会を始めたのは、あくまでも
一冊の絵本を大人ならではの自由な発想で楽しむためであって、
何らかの基準でその作品価値にジャッジを下したり、
批評のための分析や研究をしようという気は全く無かった。
もちろん、当会の参加者としてそれに類する意見を書き込むことも
各人の自由ではあるが、
もしそういった方向で話を突き詰めたいのならば、
それに相応しい他所でやってくださいと私は言わざるをえない。

要するに、私がここで皆さんと語り合いたいのはあくまでも
その絵本が
「好きか嫌いか」「面白いか否か」であって
「良いか悪いか」「正しいか否か」ではないのである。

だって、折角その両方を堂々と楽しめる大人になったんだもの。

ついでに付け加えておくと、
この会は私が誰に強制されることもなく1人で運営しているもので、
採り上げるお題は全て、主宰である私が独断と偏見で選んだ
私個人のお気に入り絵本である。
私は自分が大好きなものを誰かが大嫌いでも何とも思わないが、
ひとたびそれに対して頭ごなしに「無価値」「間違っている」等の
勝手な評価を押し付けられたら、ほとんど脊髄反射的に
私の中のパンク魂が牙を剥くので、用心されたし。(笑)

ともあれ、この先、我が大人絵本会に参加される皆さんには是非、
この「おはなし しましょう」の世界をイメージしていただき、
この自由さこそが当会のポリシーであることを、
どうか忘れずに楽しんで頂きたいと切に願う。
これからも、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

posted by えほんうるふ at 20:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月24日

背中で伝える慈しみ

いしゃがよい (幼児絵本シリーズ)いしゃがよい (幼児絵本シリーズ)
さくら せかい さくら せかい

福音館書店 2015-05-13

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年一度、毎年この時期に健康診断を受けている。
幸いにも今まで特にシビアな結果が宣告されたことは無い。
そもそも出産以外で病院に入院したこともなく
骨を折ったことも倒れて救急車に乗せられたこともなく
風邪すら年に一度ひくかひかないか。
丈夫だけが取り柄とは思いたくないが
とりあえず健康に恵まれていることは確かだろう。

唯一私が過去に医者通いをしたのは、
もう10年以上前になるが、
初めてギックリ腰をやってしまった時のことだ。
子どもを保育園に送っていこうと、いつものように
子どもを抱え上げて自転車の前座席に乗せようとしたら、
子どもの足が自転車のハンドルに当たり、
バランスを崩して倒れそうになった。
とっさに子どもを落とさぬよう妙な姿勢で踏ん張った、
その瞬間、まさに腰から脳天に痛みが突き抜けた。
あまりの痛みに一瞬息ができないほどだった。
だがしかし母は強し。
いったいどうやって行ったのか覚えていないが
どうにかこうにか私は子どもを保育園に送り届け
職場と夫に連絡を入れ、その後は夫が帰ってくるまで
家で一人で倒れていた。

とにかくまずは安静が一番と言われたものの、
母業主婦業に休みはないのである。
最初の全く動けない時期から脱すると
ヒーヒー言いつつも腰をかばいながら
仕事も家事も周囲に助けてもらいつつなんとかこなした。

だがとにかく何をするにも痛みが付きまとう。
朝目が覚めて起き上がるのも、顔を洗うのも一苦労。
救いを求めて整形外科・整骨院・マッサージ・カイロ・鍼灸・・
藁をもつかむ思いであちこちに行きまくった。

その後、何が効いたのやら腰の痛みそのものは収まったが
坐骨神経痛が長く残ってしまい、これを解消するために
さらにあれやこれや、良いと言われるものを試しまくり、
最終的にはブックオフで偶然見つけた自力整体の本に救われた。
というのが私のギックリ腰克服の顛末。
その後何回か再発の憂き目に遭ったが、
自分で対処できるようになったので医者通いもそれっきりだ。

どうやら私は痛みに強い方らしく、
一人目の時に早期破水した時と同様に
まっすぐ歩けないほどの腰痛を抱えての医者通いも
常に一人で行っていた。
でも、行った先で施術を受けて、なんかちょっと良くなったかも?
と少し上向きな気持ちになるものの、
家に帰り着けばもとの木阿弥、ということもよくあった。
痛みがなかなか引かなかった頃、何をしても効かなくて
気持ちが鬱屈してしまいがちな日々が続いた。
結局そういう時に一番効いた痛み止めは、
家族や経験者の友人たちの優しい声がけや励ましだった。

どんなに孤独や痛みに強いつもりでいても、
一人では生きていけないのだなぁ、有り難いなぁと
素直に思ったものだった。

今日の絵本はその名も「いしゃがよい」である。
小さくて身体の弱いパンダの子を、献身的に育てるエンさん。
身寄りの無いパンダの子が、こんなにしょっちゅう
あちこち痛がってはエンさんに医者通いをさせたのは、
その背中に思い切り抱きついて、
我が身を想って自転車を漕ぐエンさんのやさしさを
体いっぱい感じたかったからではないだろうか。
そうしてエンさんの愛情をたっぷり受けて
大きく丈夫に育ったパンダの子だからこそ、
年老いて身体が弱り、きっと心細くもなっただろう
エンさんに、自分の背中で感謝を伝えたかったのだろう。
なんてことのないシンプルなお話だけれど、
私はなんだか読む度に目頭が熱くなってしまうのだ。


先日受けた今年の健康診断の結果は、まだ来ない。
今年もまた「異常なし」が並ぶ紙を無事受け取れるだろうか。
もし無事にそうなったとしても、やはり自分の歳を考えればきっと
なにかしらどこかしら数字に現れない僅かな変化で
身体に少しずつガタが来ていることは間違いないだろう。
それでなくても毎日不規則な生活かつ万年寝不足の私は
たとえ自分が元気なつもりでもある日突然倒れないとも限らない。
だからこそ、いつか自分の番が来るまでは、
与えられる側、ケアできる側の幸せを感じていたいものだ。

posted by えほんうるふ at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 泣ける絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

みえるひと、みえないひと、みたくないひと

怪談えほん (3) いるの いないの (怪談えほん3)怪談えほん (3) いるの いないの (怪談えほん3)
京極夏彦作 町田尚子絵

岩崎書店 2012-01-28

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夏の飲み会の定番ネタと言えば怖い話。
こんな時、順繰りに持ちネタを披露するとなるとやはり、
「聞いた話」ではなく「自分が体験した話」の方が俄然臨場感がある。
そこで一躍スポットライトが当たるのが、いわゆる霊感体質の人。
ところが、日頃から自己主張激しく口も達者なキャラクターの人物が
待ってました!!とばかりに語りだす「とっておきの怖い話」は
ほおほおふんふん、ワーッ、ギャーッ、こええー!!
と変に盛り上がって大騒ぎになり、聞いている方は意外と怖くない。
稲川氏を例に出すまでもなく、話術巧みに語られる怪談はそれだけで
エンターテイメントとして十分通用するので、
それだともう単なる「すべらない持ちネタ」になってしまうのだろう。
むしろ、
なるべく控えめで目立たず視線も俯きがちな印象ぐらいの人が
何かないかとせがまれて「別にいつものことですけど・・」と
大して面白くもなさそうに淡々と
「みえちゃう・きこえちゃう私の日常」を語りだす方がよほど怖い。

今日紹介する「いるの いないの」という絵本は
まさにその「みえるきこえる日常がすぐそこにある怖さ」の演出が
なかなか素晴らしく、作家陣を見るにつけ、思わず、
さすが、分かっていらっしゃる!と膝を打ちたくなってしまう。

ただし、その結末は・・・
素で叫んだという人もいる。
立ち読みしていた本を思わず投げてしまい、
買ったものの開けられず本棚の奥に封印しているという人もいる。
折角なのでネタバレはしないでおくが、私自身は爆笑してしまった。
賛否両論あるだろうが、
怪談エンターテイメントとして秀逸な一冊であることは間違いない。


ところで、私自身は全く霊感体質ではない。
と、自分では思っているが、
仲間内で怖い話で盛り上がるときに話すネタはそれなりにある。
多分、このブログではまだ書いたことがないので、
これを機会にここでも披露してしまおう。

幼い頃はよく自宅で寝ている時に金縛りにあった。
多分に妄想力豊かな子供だったせいだろうが、
その度に、何かどんよりと重い物がのしかかってくる気配や、
絶対目が合っちゃうから開けちゃダメだという確信があった。
あまりに度々そういうことがあるので、
だんだん対処法が身に付いた。
怖い怖いと息を詰めているとどんどん苦しくなるので、
とりあえず、全力で抵抗を試みることにしたのである。
なあに、どうせ相手にはこちらに実害を及ぼす力はないのだ。
そう思って、遠慮無く罵詈雑言を浴びせることにした。
目は開けられないし声も何故か出せないのだが、
バカ野郎、重いじゃねーか、どきやがれ、あっち行けー!!
などと必死で声なき声で叫んでいるうちに、
気が付くと金縛りは解け、目が覚めると朝になっていた。

ところがたった一度だけ、この作戦が効かなかったことがある。
いつものように、私は声なき声で見えない敵と戦っていた。
が、やはりどうにも苦しい。
あー、どうしよう。疲れてきた。
と思った瞬間、
ドン!と背中に衝撃が来て、私はベッドから転げ落ちていた。

一瞬、何が起こったのか分からなかった。
当時の私のベッドは、壁際に置いてあり、つまり片側は壁である。
背中には生々しく手のひらの感触が残っていた。

さすがにこの時はチビりそうに怖くなり、
親が寝る部屋へ駆け込んで無理やり布団に潜り込んだ・・
ような気がする。よく覚えていない。
後にも先にも一度だけのことだった。

思えば、我が実家は色々とポルターガイストまがいの現象が
起こる家だった。
テレビが勝手についたり消えたりなどは日常茶飯事なので
みんなそんなもんなんだろうと思っていた。
ただ、父親がガレージを増設するのに元々あった古い井戸を
埋めてしまった時は、さすがに色々とヤバかった。
当人は大怪我をし、その後入院するはめにもなり、
途方に暮れた母が知人を介してその筋の人に相談し
然るべき方角の神社へ家族全員でお参りしたりもした。
そこらへんの詳しい話を聴きたい人は、飲んだ時にでも。

それでも私には、霊感は全くない。あってたまるものか。
posted by えほんうるふ at 10:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 怖い絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする