2019年10月24日

遺作のある人生

angelo2.jpgアンジェロ
デビッド・マコーレイ 作

ほるぷ出版 2006年5月
出版社詳細ページ

孤独な主人公がたまたま出会った野生動物と心通わせる話に弱い。
「ごんぎつね」も「マルラゲットとおおかみ」もそういったジャンルの中で特に私のお気に入りの素晴らしい名作だが、つい最近、久しぶりに読んだブラック・ジャック第90話の「シャチの詩」には、性懲りもなくまた泣かされてしまった。何しろ初めて読んだ時から40年以上も経つ(歳がバレる)のに、未だに読めば必ずやウルウルしてしまう驚異の涙腺破壊力。ふと思い出したからといっておちおち電車の中で検索もできない。

思うに、この手のストーリーで肝なのはやはり、相手がヒトに飼い慣らされたペットではなく、あくまでも偶然出会った野生動物である、というところではないだろうか。
その気持ちの底にあるのは、現実にはヒトと野生動物がお互いのテリトリーを超えてコミュニケーションをとることはお互いにとって不幸な結末につながるだろうという本能的な予感か、あるいは、だからこそそのタブーを超えるファンタジーをフィクションの世界に求めてしまう、無いものねだりの人間のエゴか。どちらにしろ、そこには理屈ではない感情の動きがあるように感じる。

今日の絵本「アンジェロ」もまさにその意味では王道とも言える、無いものねだりの得意な人間の心にシミジミと沁みる美しいファンタジーだ。
そもそもこの絵本にはその道一筋の職人とか、偏屈な老人とか、古い建物とか、ただでさえ私の大好きなモチーフがたくさん詰め込まれていて、それだけでも十分私得な作品なのだが、そのうえ前述の通り、しばしば私の涙腺をダイレクトに攻撃する「野生動物と孤独な人間との心の交流」がメインテーマときたらこれはもう、鷲掴みされてしまう。

似たような野生動物とのふれあいがテーマの作品の中には、絵本という媒体の本来の対象である子どもたちにも容易にその「良さ」が理解できるよう、陳腐なお涙頂戴ストーリーになってしまっている作品もあったりする。
そういった子どもの感性を侮った作品は大人の鑑賞にはとても耐えられないが、今作はその点、自信を持って大人にもお勧めできる。彩度を抑えた色調と文章、何より淡々と描かれる主人公アンジェロのキャラクターのおかげで、大人がじっくりと愉しめる古いイタリア映画のような味わいになっていると思う。(ここであの郵便配達人の映画を思い浮かべたそこのあなた、そうそう私のイメージもまさにあれでした!)

私にとって良い絵本とは、ジャンルに関わらず読後にまるでいい映画を一本観たかのようなじんわりと長く残る充実感を与えてくれるものだが、この絵本はまさにそういう作品だと思う。
残念ながら、逆に良い絵本が良い映画になるとは限らないが、この作品ならば案外(ロケ地やキャストをしっかり吟味すれば)実写化もイケるんではないか?と思わせるものがある。さらに私の勝手な理想を言わせて頂くなら、ロケはもちろんイタリア国内、できればヴェネチア・ミラノ・フィレンツェのいずれかでお願いしたい。


そして、この作品の何より素晴らしいところだと私が思うのは、物語の最後で、一人の人間がその生涯で何を遺せるかという、一つの素敵な例を見せてくれるところだ。
たとえ世の中のほとんどの人に認められずとも、自分が生きた証として、その想いを伝えたいたった一人(あるいは一羽でも一匹でも)にだけは、しかと伝えられる、そんな何かを遺して逝くことができたなら・・・。

自分のことを全く知らない人にも等しく価値が伝わるような名声や功績や莫大な資産などを築くのは到底無理だとしても、人知れずささやかな「誰かにとってのかけがえのない宝物」を遺すことだったら、もしかしたら自分にもできるかもしれない。
そんな風に考えると、平凡で無名な我が人生もそれなりに尊く思えてきて、なんだかうれしくなる。
そしてまた、たった一冊の絵本に励まされて「よし、明日も精一杯がんばって生きよう」などと思えてしまう自分はなんと単純な人間なのだろう。ああよかった。


posted by えほんうるふ at 19:42 | Comment(0) | 終活を考える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月24日

身軽になりたい

れおに
せかいいち おおきな うち
―りこうになったかたつむりのはなし

レオ・レオニ 作

好学社 1969年4月
出版社詳細ページ


私はもともとあまり所有欲の強い人間ではない。
独占欲もほぼないし、身の丈に合わぬ高級ブランド品を持つことにも興味がない。
好きなものは、必ずしも常に自分の手元になくてもよく、この世のどこかに存在していて、時に愛でたり触れたりできればそれで満足。
そういう意味では、モノに対する執着は歳を重ねるごとにますます弱くなっている気がする。
かくなる上は、巷で話題のミニマリストの皆さんのように、どうしても手元に置いて日々使いたい少数精鋭の必需品以外のモノはじゃんじゃん潔く処分して、さっぱりスッキリの清々しい生活様式を確立したい、と夢見てしまう。

ところが実際には、私の自宅はありとあらゆる場所にモノが溢れている(泣)
同居している病的に物欲の激しい家族の持ち分については考えるだけで頭痛がするので別にするとしても、やはり私自身、まだまだ必要以上にモノを多く持ちすぎているのだ。
身軽になりたい。いや、ならなくては!
今やその思いは常に私の中でふつふつと燻っている。

いつ死んでもいいように、やりたいことは即やろうと思ってきた。
それと同じように、いつ死んでも心置きなくあちらへ行けるように、帰らない旅支度としての身辺整理をしておかなければ、という思いを持つようになったのは、いつからだろう。
やはり年齢的にそろそろ人生の折り返し地点を回ったはず、という意識がそうさせるのだろうか。

ちなみに、物欲の亡者ではないのに一向にモノが減らない理由ははっきり自覚している。
それは、私が「もったいないおばけ」に取り憑かれた極端な貧乏性だからである。
別の絵本を採り上げた際の過去ログでも散々書いてきたことだが、私は要不要の判断までは即できるくせに、イザとなると不用品を捨てられないのだ。
一息にゴミ袋に突っ込んで丸ごと捨ててしまえばいいものを、なんとか別の用途で活用できないか、誰か買ってくれないか、あるいはもらってくれないかと延々と悪あがきをしてしまう。
これは私の育ちが卑しいからなのだろうか。
まあ確かにお世辞にも裕福とは言えない家庭で兄弟4人もみくちゃにされて育ち、幼い頃から一度確保したなけなしの取り分は決して無駄にせず大切にする習慣が身についてはいたが・・・。


さて、今日ご紹介するのはそんな私が今も自戒として時々読み返すことにしている絵本である。
ある日、幼いちびかたつむりが父親にこう言った。
「ぼく おとなに なったら、せかいいち おおきな うちが ほしいな。」
父親はこれに一言、
「うどの たいぼく。」
と答え、息子にある昔話を語って聴かせた。
むかし、ちびかたつむりと同じように、世界一大きな家を欲しがり、ついにそれを手に入れたかたつむりが一体どうなったかを。


美しく削ぎ落とされた無駄のない谷川俊太郎さんの訳文は、そのひとつひとつにじわじわくる味わいがあって、声に出して読んでみると、なんだかうれしい。そしてレオ・レオニの柔らかく毒気のない明るい絵柄に安心して呑気に読み進んでいくと、思いのほかズシンと刺さる展開が待っている。
この作品に限らず、レオ・レオニ作品について、結末が教訓めいていて説教臭いから嫌だ、という声もきく。それでも私はやはり、この光あふれる柔らかい色彩の絵に秘められた、幼心にはもちろん大人の感性にも容赦なく突き刺さるメッセージ性こそが彼の作品の真髄だと思える。
心から尊敬し、愛してやまない作家の一人だ。


そして私は、断捨離に勤しんでいるつもりが一向にその成果が見えてこない自分に喝を入れるべく、今日もこの絵本を開くのだ。
作中のかたつむりのように、誇らしく人に自慢したくなるようなものを山程抱えこんだ挙げ句身を滅ぼすならまだしも、自分でも要らないと分かっている不用品に押しつぶされて不自由に生きるなんて、とてつもなくアホらしいではないか。
まして人生とっくに後半戦に入っているだろう自分は、グズグズしてはいられないのだ!
・・・と、久々に読み返して改めてひしひしと感じた私は、「大事なことを教わる絵本」または「身につまされる絵本」カテゴリーのどちらに入れようか迷っていたこの絵本のために、今回新たに「終活を考える絵本」というカテゴリーを新設したのだった。

小さくしとこう。そしてもっと少なくしとこう。
その日が来たら、すきなところへ身軽に旅立てるように。


posted by えほんうるふ at 19:27 | Comment(0) | 終活を考える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする