![]() | いまがたのしいもん シャーロット・ゾロトウ文 エリック・ブレグヴァド絵 童話屋 1991-07 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
子どもはいいな、好きなことができて。
子どもはいいな、遊んでばっかりで。
子どもはいいな、堂々と恥がかけて。
子どもはいいな、誰かに甘えられて。
子どもはいいな、泣きたい時に泣けて。
子どもはいいな・・・
大人が子どもを羨む理由はいくらでも思いつく。
しかし、私は彼らを羨ましいとは全く思わない。
無邪気に遊ぶ子どもたちを見れば微笑ましいとは思うものの、不思議と自分もあんな子どもの頃に戻りたいなどとは、金輪際思わないのだ。
自分自身の幼少時代がものすごく不幸だったからか?
いやいや、決して裕福な家庭環境ではなかったが、かと言って衣食住に困っていたわけでも虐待されていたわけでもなく、私の子ども時代は悲惨だった!と胸を張れるほどのドラマも身に覚えがない。
覚えがあるとすれば、幼いころの私は恐らく、大人が羨ましく思うほど無邪気な子どもではなかったのだ。
性格もあるだろうし、生まれ育った環境のせいもあるだろう。とにかく私は可愛げのないマセた子どもだった。
むしろ大人になるにつれて、ようやく自由に自分を表現できるようになった私にとって、今日の絵本「いまがたのしいもん」は大人であることの幸せを再確認するような、なんだかうれしい絵本なのだ。
絵本の中で主人公の少女は、いかに子どもの自分が自由で、大人が不自由な存在かということを、あれやこれやと例をあげて得意げに母親に語っていく。
でも実際は、幼い彼女が語る「子どもの特権」はどれも全て、大人になっても自分の意志で楽しめることばかりなのだ。
大人であることは、実は子どもが思っているほど不自由で窮屈なものではない。むしろ子どもよりもずっと自由で楽しくて広い世界が待っている。
確かに、大人になるほど自分の中の「オトナ像」に縛られて、笑われるのが怖くなり、どんどん心が不自由になる人もいるだろう。
なんて残念なことだろうと思う。せっかく自分で自分の言動の責任をとれるぐらい大きくなったのに、自らを分別の鎖で縛るとは。
ちなみに私の場合、冒頭に書いた、子どもはいいな・・・と世間一般に思われる理由のあれこれもみな、大人になってから、それも最近になってようやく出来るようになったことばかりだ。
いわば大人になってようやく、少しずつ心が自由になって、コドモになる楽しみを覚えたとでも言おうか。
だから私は、作中後半「おとなだって たのしいもん!」と母親が少女に反撃するシーンではいつも、「そうだそうだ!大人こそ今が楽しいもん!子どもの頃なんかより、ずっとずっと今が楽しいもーん!」と、おとなげなく叫びたくなってしまうのだ。
オトナ、万歳!!