2013年07月25日

お盆の気配

かえるのうらめしやさん (カラフルえほん)かえるのうらめしやさん (カラフルえほん)
戸田 和代 よしおか ひろこ

岩崎書店 2005-05
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正直なところ、私は宗教について義務教育以降にまともに勉強したことがない。
そして多くの日本人と同様に、私は幼い頃から何の疑問も感じずに、
お盆になれば家族と墓参りをし、
クリスマスにはプレゼントを交換し、
新年には初詣に出向いて初日の出に手を合わせるという節操のない信仰生活を送ってきた。
揺るぎない宗教観をもって敬虔なる日々を生きている人から見れば、
今日私がここで書くことはふざけた文章に見えるかも知れないが、
学も信仰もない人間の戯れ言として流してもらえたらと思う。

今日の絵本、「かえるのうらめしやさん」は、私が大人になってから出会った絵本である。
初めて読んだ時、私の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、
「これって、例えばキリスト教徒の人が読むとどういう絵本に読めるのだろう?」
という疑問だった。
神の元へ召されたはずの人が年に一度ひょっこり帰ってくるなんてあっていいのだろうか。
彼らにとって、お迎えするご先祖様とは墓場から蘇ったゾンビに等しいのだろうか。
こんなにもユルい心和むタッチの絵本を眺めながら、そんなことを考えてしまう私の心は
信じるものを持たないが故にとんでもなく荒んでいるのだろうか。


そんなことを考える一方、
良い悪いではなく、正しい正しくないでもなく、
そんな風にあれこれ考えを巡らせることができること自体、私の心が自由なのだとも思えた。

そしてやはり思い出したのが、私の大好きなジブリ映画、「千と千尋の神隠し」である。
ありとあらゆるものに神様がいて、その神様同士が湯屋で酒を酌み交わし
裸のつきあいをして仲良く共存しているというおおらかさ、
その懐の深さ豊かさが描かれているあの映画が私は大好きだ。

そもそも何故この国には八百万の神がひしめいているのかというと、
狭い国土で共存を強いられる単一民族だからこそ、
唯一絶対の存在なんてものを求めて盲信することがいかに危険であるか、
先人たちが繰り返し思い知らされた歴史があったからではなかろうか。
絶対的な存在を認めてしまえば、それ以外は全て異端となり、
異端を認めない空気の中で共存するには、この国はあまりにも狭すぎるのだ。
ならばいっそ、みんな違ってみんな良いの精神でその多様性をまるごと認めてしまうほうが
平和に暮らせるだろう、というのは大変に理にかなった考えであろう。
そうとなれば全ての宗教儀式はそれぞれの神様プレゼンツの趣向を凝らしたお祭りとして、
傍観するも良し、お試し参加で雰囲気を味わうも良し、
まさに同じアホなら踊らにゃソンソン、とばかりに楽しむことができるのだから。


ところで、私自身にとっては、お盆はごく当たり前の年中行事であった。
親に連れられて汗をかきかき墓参りをし、日向の墓石に柄杓ですくった冷たい水をかけると、
本当にご先祖様が喜んでくれるような気がしたものだ。
幼い頃からどちらかを言えば怖い話は苦手だった私だが、
迎え盆の灯りがご先祖の霊の道案内をするのだとの説明に
「ふーん。ということは、今私のそばに死んだご先祖様がいて、一緒に歩いているのか」
と素直に納得し、冷静に考えたら「霊と共に歩く」という相当不気味な状況にも関わらず、
何故か怖いというよりむしろ護られているような安寧さを感じたのだった。

ともあれ、年に一度、姿勢を正してご先祖様の存在に想いを馳せ、
自分をこの世に存在至らしめてくれたことへの感謝の気持ちを新たにすることは
自分の今現在の「生」を粗末にしない為の戒めとしても、とてもよい習慣だと思う。
忙しさにかまけてなかなか帰省もしない親不孝者の私だが、
今年こそは墓参りに行こうと思った。


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posted by えほんうるふ at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宿題を思い出す絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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