2020年01月01日

大人絵本会最新情報

最新回のまとめが公開されました!



第108回大人絵本会【 2018/9/27 終了 】

お題:「エメラルドのさがしもの」
そのだ えり作


togetterまとめ公開中!


大人絵本会は、「絵本を肴に呑むオンライン居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会です。ほぼ1ヶ月に1回のペースで開催中。その実態は、平日夜10時から午前0時の間、お題となった絵本についてみんなでTwitterで好き勝手に呟きまくるという、非常に適当なコミュニティです。
エントリー不要・どなた様もお気軽にご参加下さい。

※次回予告は、開催日の1〜2週間程前に、当ブログとツイッターにて告知します。
えほんうるふのTwitterアカウントはこちら→ @ehonwolf


※過去の大人絵本会のtogetterまとめのリンクリストはこちら♪
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2018年10月04日

当会の趣旨と、主宰からのお願い。

大人絵本会に関心を持ってくださり、ありがとうございます。
当会は、私えほんうるふが思いつきで始めた絵本をテーマにしたtwitter上の座談会です。
2010年3月に開催した第1回より今まで、完全に私一人で運営している独りよがりな集いです。
よくもまあこんな酔狂を長らく続けてきたものです。自分でも驚きます。
2018年10月現在私の知る限り、日本全国に絵本愛好家の集いは数あれど、うちと同じ趣旨・形式で活動しているところは無いようなので、唯一無二の変な会の創始者として、ちょっとぐらい偉そうなことを言っても許されるかと思います。
少々長くなりますが、よろしければご一読ください。

当会の開催は基本的に月1回で、だいたい第3〜4週の木曜日辺りになることが多いです。
開催日が確定次第、ツイッターと私のブログ上で、お題絵本と共に告知を致します。
参加方法は簡単です。開催時間中に #大人絵本会 のタグをつけてツイートするだけ。
入会資格も挨拶も不要で、来る者拒まず去る者追わずです。
マメじゃないので決して面倒見はよくありませんが、お問い合わせにはいくらでもお答えします。
なにしろ主宰が開催時間中に寝落ちするぐらいテキトーな会なので、肩肘張って気合入れて参加するほどのことはありません。気が向いた時にフラッと立ち寄って呟き逃げするぐらいが丁度いいかと思います。

なお、お題絵本は基本的に主宰個人の独断と偏見とご縁に基づいて選定されます。
誰もが認めるロングセラー、名作と呼ばれる絵本をお題に選ぶこともあれば、あまり知られていないマイナーな絵本、絶版絵本、新しい作家さんの出たばかりの絵本を選ぶこともあります。唯一の共通点は、そのどれもが私のお気に入りの絵本だということです。

なにせ私が一人で勝手にお題を選んでいるので、時には、あなたの嫌いな絵本がお題になることもあるでしょう。
それでも、例えば映画でもB級ならB級ならではの味わいを愛でるファンがいるように、絵本だって、ある人にとっては駄作でも、他の誰かにとっては愛すべき大切な作品であるはずと私は考えます。
あなたが嫌いだ、駄作だと思う絵本に価値を見出した人の言葉に触れることで、あなたの価値観もまた少し広がるかも知れません。実際、参加者から「実はあまり好きじゃなかったんだけど、食わず嫌いでした」というメッセージを頂いたことが何度もあります。
大人はどんどん頭が固くなるばっかりですから、きっと良いエクササイズにもなりましょう。


そして、ここからが一番大事なことです。
大人絵本会は絵本の勉強会でも品評会でもありません。
あくまでも大人による大人のための節度を保ったお遊びの場です。
日頃、大人として、親として、教育者や保育者としてそれぞれに頑張っている私たちなのだから、たまにはその責務や道義や建前を忘れて子どものおもちゃで悪ふざけをしたっていいよね?
そんな思いで私はこの会を作り、ほそぼそと続けてきたのです。

大人絵本会発足の詳しい経緯はこちらに記載していますが、一言でいうと「子どもの絵本を大人目線で深読みする楽しさをみんなで共有したかった」というのが、私がこの会を作った最大の理由です。
決して作品や作者を貶したり冒涜したり上から目線で批評しようという意図はなく、あくまでも根底にあるのは作品への愛です。
ええ、そうです。ここは、絵本好きの変な大人がフリースタイルにその愛を語りあうヤバイ場所ですが、なにか?
ぶっちゃけ、その絵本のことが好きでたまらない人にこそ楽しめる場だと思います。

もしお題絵本に価値を感じなかったり、そもそも大嫌いな作品でしたら、わざわざご参加頂くには及びません。まして「好き嫌い」ではなく「良し悪し」を語りたい場合は、それに相応しい場が他にあると思うので、そちらで思う存分吠えてみてはいかがでしょうか。
申し訳ありませんが、私はお題作品が絵本として正しいか否かを協議したり、編集者ばりにその完成度を検証することに、まっっっっっったく興味がありません。
せっかく誰もが気楽に楽しめる場を提供しているのだから、ただただ私は楽しくやりたいだけです。酒場でバカいいながらワイワイ呑んでいるところへ乱入して、飲んでる酒の質や酒造メーカーの怠慢を問い質すような無粋な真似はどうかご勘弁を。

そもそも、ここで採り上げた絵本がどんなに面白かったからといって、何も考えずに子どもに手渡したり読み聞かせたりするような人は、当会参加者にはいないと私は信じています。お酒が美味しいからって幼い子どもにも飲ませようとするようなお馬鹿さんはいませんよね。当然です。
私が言うのもなんですが、どういうわけかこの会に出入りする人々の人間力と大人度は相当なものです。密かに誇りに思っています。だからそんな啓蒙活動なんて、元から不要なのです。

でも、念のため改めてお願いします。初参加の方にも。
どうか、世知辛い世の中の現実に汚れちまった大人ならではの愉しみと、まだ半ば夢の中にいる子どもたちの楽しみを混同しないで下さい。
同じ絵本であっても、見るところ見えるものが違うのです。誰しも、子どもの頃に好きだった絵本を大人になってから読み返して、新しい発見をしたり、全く違う感想を抱くことがありますよね。
絵本は幅広い年代で楽しめるからこそ、時を越えて奥深い楽しみを提供してくれる素晴らしいメディアなのです。だからこそ、子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、その時それぞれの感性でその世界を味わえばいいと私は思います。

いやぁ〜、絵本って本当に素晴らしいですね!

親愛なる絵本作家の皆様、大切な作品を想定外な視点で楽しむことをどうかお許しください。失礼があればお詫びします。
でも、ここに集う皆さんの発言は全て、絵本というメディアへの愛あればこそだと私は信じています。

参加者のみなさん、どうか当会の趣旨をご理解ください。
そして、これからもどうぞよろしくお願いします。気長に気楽に。
posted by えほんうるふ at 08:27 | Comment(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月26日

心躍る見開きドールハウス

エメラルドのさがしもの エメラルドのさがしもの
そのだ えり 作

文溪堂 2018年4月

出版社詳細ページ


久しぶりにIKEAに行ってきた。
娘が誕生日プレゼントに椅子が欲しいと言うので、しからばとにかく実際に座って選んでもらわねばと思い、都内唯一のIKEA店舗がある立川まで子ども達と繰り出して、「大塚家具・ニトリ・IKEAの椅子に片っ端から座ってみようツアー」を敢行してきたのだ。

IKEAと言えば、十数年前に船橋にイケア・ジャパンの一号店が出来た頃にはそれこそ毎週末のように行っていた。(ちなみに当時はカルフールというフランス版コストコのような外資系スーパーも同じ船橋にあって、車で買い出しに行く度にはしごをしていたものだった。懐かしい。)
その後引っ越して自家用車も手放してしまってからはすっかり縁遠くなってしまい、ごくたまに友人とのオフ会を兼ねて個人的に遊びに行くぐらいで、家族で店舗に出向くのは実に10年以上ぶりだった。

果たして、幼い頃に何度も行ったはずのIKEAのことを、我が家の子ども達はほとんど何も覚えておらず、初来店だと思ってやたらとはしゃいでいた。そして、IKEAならではの北欧の世界観と共にがっつり作り込んだ「ショールーム展示」に心を奪われ、目をキラキラさせて感動していた。特に、一人暮らしに憧れる年頃の息子にとっては、下手なテーマパークよりもよほど楽しかったらしく、閉店ギリギリまで居座って隅々まで観察していた。

私は私で、そんな彼らを見ながら別の感慨にふけっていた。
昔IKEAに良く行った頃は、乳幼児だった子ども達が成長し、だんだんと勉強机等の子供家具を検討する必要が出てきた時期だったのだ。その彼らが今や、とっくに親の身長を追い越し、この先の未来と親から独立した生活を思い描くようになっているなんて・・・。
可愛らしいデザインのベビーベッドやぬいぐるみや玩具がディスプレイされた素敵な子供部屋のモデルルームを眺めつつ、ああ、子どもの成長って本当にあっという間なんだなぁと、柄にもなくちょっと遠い目になってしまった。


おっと、またしても絵本の話からズレたまま長くなってしまった。
そんな久々のIKEA体験中に思い出した一冊が、今日の絵本である。

「エメラルドのさがしもの」は、私がこちらで取り上げるには珍しく出版から日が浅い新しい絵本である。
そのだえりさん作のこの絵本は、おしゃまで可愛いリスの女の子エメラルドを主人公とするシリーズの二作目。シリーズものの絵本なのに何故いきなり二作目を取りあげるのかというと、たまたまその原画を拝見する機会があり、とても印象に残っていたからだ。

先月の大人絵本会でお題にしたゴフスタイン。その追悼展示を見に訪れた神保町のブックハウスカフェで、たまたま同時に開催されていたのがこの「エメラルドのさがしもの」の原画展だった。
不勉強ながらそれまでにそのださんの著作を知らなかった私は、何の気もなくこぢんまりとした展示室に入って原画を眺めていたが、ある一枚の絵の前で足が止まってしまった。
それは、エメラルドの新しい友だち、くるみちゃんのお家の断面図を、ドールハウスのように見開きいっぱいに描いた絵だった。おもわず、

「わあ!くるみちゃんの おうち すてきね!」

というエメラルドのセリフをまんま呟いてしまうほど、本当に素敵なお部屋が描かれていた。
このデジャヴ感・・・これはもしや、幼き日にこえだちゃんの木のおうちを初めて覗いた時のあのワクワク感と同じ!? いや、それどころか、まさにIKEAのモデルルームのように、絶妙な生活感を演出しつつも無駄なものが何もないその家はとにかくお洒落なのだった。しかもよく見ると部屋の隅に我が家にあるのと全く同じ絵本棚が置いてあったり、ソファコーナーにはポールセンのPHランプがぶら下がっていたり、二階のラブソファのある一角の飾り棚には、ウェグナーのYチェアなど名作椅子のミニチュアと思しきものが並んでいたりと、ただならぬインテリアへのこだわりが随所に感じられる。私にとってはもう、ただ眺めているだけで幸せになれる原画だった。

こんな絵が描ける作者さんはいったいどんな人だろう?と思い、奥付の作者紹介文を読んでなるほど納得。作者のそのださんはもともと住居建築を学び、美術学校のグラフィックデザイン科を出ている方だった。
そうか、道理で・・と嬉しくなって、展示されていた他の原画を改めて見てみると、実際、そのださんの絵はインテリアだけでなく住宅そのものの描き方が建築パースなみに美しいのだった。うっとり。

と、ここまでお話の内容よりも絵のことばかり夢中になって語ってしまったが、もちろん、この絵本の魅力は絵ばかりではない。
お話は、幼い子供が自分なりに出来ることを発見して生き生きと生活する様子や新しい友達との出会いが中心となっていて、とてもわかり易く微笑ましい。

が、それより私が個人的にとても興味深いと思ったのは、エメラルドと一緒に暮らしているうさぎのガーネットの関係だ。
年齢的にはどうやらいい大人で手に職を持ち生活力もある自立した男性らしきガーネット。対して、見た目よりはしっかりしているものの言動に幼さが露見するエメラルドは、まだまだ保護者の必要な幼女世代と思われる。さてこの二人、いったいどういう関係なのだろうか?
最初にこの二人が並んだ絵面を見た時にパッと連想したのはバンサンの「くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ」だった。だが、かの作品の主人公二人がはっきりと世間からのハズレ者であるが故にお互いを支え合う関係だったのに対し、こちらの二人には何ら後ろ暗い様子がない。
前作の「ちいさなリスのエメラルド」でも二人の関係性についてのはっきりした説明はなく、謎は深まるばかりだが、だからこそ深読みと妄想のし甲斐があるとも言えよう。つまりまさに大人絵本会向き(笑)。


ところで、親子で足を棒にした「大塚家具・ニトリ・IKEAの椅子に片っ端から座ってみようツアーin立川」はとても楽しかった。一応その結果を記しておこう。

最初に辿り着いたのはニトリのデスクチェアコーナー。なかなかの品揃えにテンション高く次々と座りまくっていたが、決め手なし。確かにお値段以上♪と思える座り心地の椅子もあるにはあったが、まあ最初なので判断のたたき台程度に考え、次の大塚家具へと向かった。
IDC大塚家具のワークチェアコーナーには、アーロンチェアを始めとする錚々たるブランドチェアはズラリと並んでいた。当然ながらニトリ商品の値札よりゼロが一桁、下手すると二桁多い。これまた片っ端から座っていたが、機能ゴリゴリのゴツいデザインが意外にも娘には不評だった。なにせお値段がお値段なので内心ホッとしつつさらに駅から一番遠いIKEAへ。
ショールーム見物を楽しみつつホームオフィスコーナーへ辿り着いてみると、一見品数は多いものの意外にもチェアの選択肢は三店舗中一番少なかった。でもそれが幸いしたか、女子にしては割と決断の早い娘はいくつか座ってみて即、「これ!」と迷いなく決定。
晴れて誕生日に贈られたその椅子に座って、今日も彼女はいたくご機嫌である。めでたしめでたし。

posted by えほんうるふ at 21:49 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

会ったこともないあなたのために

ゴールディーのお人形 ゴールディーのお人形
M.B. ゴフスタイン M.B. Goffstein

現代企画室 2013-11-11

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私が小学生だったころ、フェルトでマスコットを作るのが流行った。その頃から、手芸のような手仕事は嫌いではなかった。
多分そこそこ手先は器用な方なのだろう、思い立つと何でも独学であれこれ作ってきた。私の先生はいつだって図書館だった。該当分野の初心者向け資料を手当たり次第借りてきては、一番自分のイメージに近い作風の作者と、一番自分にとって分かりやすい説明と図解の出ているテキストを探し、熟読した。そうやって手編みのセーターも何枚も編んだし、色々な種類の刺繍で小物も作ったし、草木染めやらペーパークラフトやらに手を出したこともあった。
多趣味と言えば聞こえはいいが、なにしろ自分は好奇心は人一倍旺盛なものの根気が無さすぎて、どれもこれも極めるには至らないままふっと熱が冷めるとそれっきりになるパターンばかりで、とてもじゃないが趣味の一つとして公言はできずにいる。

ただ、今も時々、思い出したようにニードルフェルトで何かを作ることがある。
羊毛の塊を専用の針で突いて形作る、このお手軽な手芸だけは、そこそこ材料も常備するようになり、一応数ヶ月に一度ぐらいは道具を手にして何らかの形ある「作品」を完成させてきたので、これだけは自分の中でも「コンスタントに続けている趣味」として認識している。

この羊毛フェルト細工なるものは、針でチクチクと突つくだけで思い通りに形が整っていくのがなんとも面白く、やり始めるとまさに寝食を忘れる勢いで没頭してしまう。(・・のが分かっているのでなかなか手が出せない。)そして制作に取り掛かるといつも、こんな風に思い通りに自分の顔やスタイルも簡単に整えられたらいいのになぁ、などと夢想してしまう。それぐらい自由な造形ができる。

自分はどうやら絵を描くよりは3次元の造形の方が向いているらしく、こうして出来上がったものが案外人に褒めてもらえるので、調子に乗ってプレゼントにしたりしてきた。
最初に贈る相手を思い描き、その人の好きそうなものを考え、一からそれを作り上げて形にするのはとてもやりがいのある作業で、モノづくりの醍醐味だと思う。
でもきっと、生まれながらのクリエイターならば、相手を思い描く以前に自分の中の創造力に突き動かされて否が応でも身体が勝手に作品制作に向かうのだろう。
私はとてもその域には達せそうにないが、少なくとも、羊毛フェルトであれこれ作るうちに、単なる素材から自らの手で形あるものを作り上げる面白さと、それを人に喜んでもらえる嬉しさはおぼろげながら感じられるようになった。


以前、そんな風に気まぐれに作る作品がたまたま完成した時に出会い、ぽおーっと心があたたまる感銘を受けたのが今日の絵本、ゴフスタインの「ゴールディーのお人形」である。

主人公ゴールディーは木彫りの人形を手作りする人形作家である。たった一人で全てを手作りするその仕事ぶりはひたすら丁寧で地道な作業の積み重ねで、全く効率はよろしくない。それどころか材料となる木さえ、木片として製材されたものでなく、伐採したままの原木から作ることにこだわる。そんな風にあくまでも自分のやり方を貫く彼女のモノづくりの姿勢がとても素敵だ。

そんなゴールディがある日、一目惚れした美しく高価なランプを衝動買いしてしまう。
その抗いがたい気持ちは何となくわかる。出会うべくして出会ってしまったのだから、仕方ない。
しかし、堅実な彼女は自分でも思いがけない突然の散財に戸惑う。そして家へ持ち帰る道すがら、その価値に共感できない友達からの何気ない一言を受けて、彼女の後悔の気持ちは決定的になり、すっかり憂鬱な気持ちになってしまうのだ。いったいどうして自分はこんな分不相応なものを買ってしまったのだろう・・・。

 ゴールディーは自分が、中身がなくて空っぽで、うつろな、つまらない人間のような気がしました。そして憂鬱な気持ちがひどくなって、気持ちは粉々になって、そのまま、ドアのそばに座り込んでしまいました。
 しばらくそこにいましたが、気がつくと、自分の声が「寂しいの」と言っているのが聞こえました。
「本当に寂しい、」彼女はそう言いました。
 それから疲れて泣きはじめ、そのままドアのそばで眠ってしまいました。


このくだりは読むたびに胸が締め付けられる。
ゴールディーのように、純粋に創作者として生きる人の多くは、自分の中にこんな孤独を抱えているのではないだろうか。
彼女は売れっ子の人形作家だ。だが、たとえどれだけ多くの人がその作品を認め褒め称えてくれたとしても、作家本人が創作者としての自分の価値に迷いがある限り、常に心は闇と隣り合わせだ。
自らが作り出すものの価値を信じ、それを支えに生きていくことはなんと厳しいことだろうかと思う。

それでも、この絵本にはちゃんと救いがある。
ゴールディーは、ランプに込められた作者の想いを受け取り、同じく創作に生きるものとして共鳴することで、改めて自分の道に光を見出すのだ。足元を照らす灯りを得た彼女は、とても幸せそうだ。


私の羊毛細工は完全な独学のド素人作品だ。プロが見たらなんじゃこりゃと思う出来だろう。
それでも、私は私の作品が好きだ。笑われようが、それが全てだ。
いつか、会ったこともない誰かのために、心をこめて作品を作ろうと思う。どこかの誰かが、きっと気に入ってくれると信じて、一生懸命作ろう。
それが見知らぬ誰かの手に渡り本当に喜んでもらえた時、私はゴールディーの至福に一歩近づけるだろう。

posted by えほんうるふ at 07:24 | Comment(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

別れても好きな人

マルラゲットとオオカミ (児童書)マルラゲットとオオカミ (児童書)
マリー・コルモン ゲルダ ・ミューラー

徳間書店 2018-02-20

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毎月、大人絵本会のお題絵本に関するレビュー(のような日記のようなもの)を開催日直前にアップすることだけがこのブログの更新サイクルになって久しい。
絵本は変わらず大好きなのだが、絵本について語ることに疲れているような気もする。
良い絵本悪い絵本談義が昔から苦手で、常に絵本に対しては単純に好き嫌いのみで語ろうとしてきた自分だが、このところそんな私でもさすがに悪書として唾棄したくなるような作品が大手出版社から平然と出版され、感性豊かな幼い子どもたちの元へと届けられる現状にうんざりしている。
絵本の世界に限った話ではないが、ある作品が世に残るかどうか、それを求める人々にきちんと届くかどうかが、内容如何よりマーケティングに左右される現実を思い知らされるたび、律儀に傷つく自分がいる。

実は今回の絵本も、似たようなテーマを扱った別のベストセラー絵本シリーズの影でひっそりと出版されていたものの(そして内容的にはこちらの絵本の方がはるかに素晴らしいと私は推しまくっていたものの)、そのささやかで美しい佇まいのままひっそりと絶版となり、またしても知る人ぞ知る名作として自宅の書棚に安置されていたものだ。
絵本好きの仲間が居て嬉しいのは、そんな私のささやかな推しを覚えていてくれる人がいて、新刊絵本の出版情報に疎い私に、こういった名作の復刊ニュースをいち早く知らせてくれるのだ。
とてもありがたい。持つべきものは価値観を共有できる推し友である。

そんな復刊喜ばしい本日の絵本「マルラゲットとオオカミ」は、実は過去ログで既に一度採り上げている。
ただしその際は、マルラゲットのことを語る以前に私の嫌いなとある絵本シリーズをdisるのに忙しく、マルラゲットはほとんどおまけのような扱いであった。
それでは気が済まないので今回改めてマルラゲット絶賛レビューを書く所存である。


絵本の世界では、現実の自然界での食物連鎖はしばしば無視される。動物たちは肉食動物も草食動物も関係なく一緒くたに仲良しこよしで何食わぬ顔で日常生活を送っていたりする。
私はそれはそれで全然構わないと思う。ファンタジーなのだから、なんでもありだ。
もちろん、敢えてその弱肉強食の絶対法則をベースに双方の攻防を物語にした名作も古今東西にたくさんある。三びきのこぶた然り、おおかみと七ひきの子やぎ然り、ぶたのたね然り、おまえうまそうだな然り、どうぶつさいばん然り・・・ああ、キリがない。

相容れぬ関係だからこそのドラマをいかに描くかというのは永遠のテーマで、とても面白い。
これは想定されるメイン読者である子どもたちへの教育的観点というより単純に私の拘りだが、敢えてその「自然界の大原則」に則って物語を作る場合、その落とし所には作者の本質的なセンスや価値観がモロに反映されるように思えてたいへん興味深い。
つまり、自分にとっての良書・贔屓作家を見つけるのに、かなり信頼できる指標になるのだ。

「マルラゲットとオオカミ」は、その点で私にとってはアカデミー賞ものの傑作である。
別にリアリティを追求しているわけでもなく、充分絵本らしいファンタジーである。
絵自体はものすごく上手なわけではないが、色使いと構図がとてもいい。
私は絵本に登場する狼の作画にはかなりうるさい方だがこの絵本はその点ももちろん合格。とても素敵なオオカミだ。
そしてこの絵本の何よりも素晴らしいところは、子どもにも理解できる無理のない話の流れで、無邪気な親愛の情がやがて愛ゆえのエゴになり、それが破綻した時に子ども自らが「愛するがゆえの別れ」を選ぶまでの大きな心の成長の過程を描いているところだ。
エンディングの余韻がまたなんとも良いのだ。胸が締め付けられるが、そこにはあたたかさもある。
読むたびに、地味だけれどすごく素敵な映画を観たような満足感に満たされ、ああ絵本っていいなぁとしみじみ思える。ベタ褒め(笑)。


ところで、前述の過去ログでケチョンケチョンに切り捨てた件の感動ベストセラー絵本シリーズだが、私はやはり未だに好きになれない。
ネットを検索しても悪評価の方が探すのが難しいぐらい相変わらず絶賛されまくっているし、私が信頼する絵本好きの友人たちもほぼ皆さん一定以上の評価をしているのだから、きっと間違いなく価値ある作品なのだろう。
でも、私は嫌いだ。どれだけマジョリティに絶賛されていようが、私は私の世界の中心でこれを叫ぶ。

ちなみに件の作家氏は別の著書内で「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」と豪語しているが、確かに徹底したマーケティングによる「売れる作品づくり」の大成功例として、これほどの好例はないのかも知れない。
そういえば、同じように一攫千金を狙って自己流の読者マーケティングに基づいた絵本もどきを作り、マスコミで話題になって一時は持て囃されたものの、あっという間に馬脚を現した某自称「世界一の絵本作家」がいる。読者ではなく消費者向けに特化した作品作りをすれば、どれほど稚拙でお粗末なクオリティでも売り方次第では売れてしまう、というこれまた残念な好例である。

だが、売らんかなで作られた絵本、子ども向けを装って実際はそれを買う大人向けに媚びまくった絵本。作り手というより売り手の計算が紙面から読み取れてしまう時点で私にとってそれらは一様に唾棄すべき濫造商品でしかない。
出版社も書店も営利企業である以上、売れてなんぼであることは仕方がない。それでも、仮にもこの国の文化形成を担う産業の一端として、せめて子ども向けの絵本や児童書を扱う部署にはそれなりの矜持を持って仕事をしてほしいと願わずにはいられない。
posted by えほんうるふ at 09:41 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

愛しの「ばっかなクマのやつ!」

プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))
A.A.ミルン E.H.シェパード 石井桃子

岩波書店 1982-06-18

Amazonで詳しく見る
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私は一応自他ともに認める絵本好きだが、個人的に所有している絵本の数は決して多くはない。
数えたことはないが、せいぜい200冊ぐらいじゃなかろうか。
普段SNSで交流している友人たちの中には自宅で子ども向けの文庫を開いている人もいるし、出版や書籍流通業界の人や読み聞かせ活動をする人なども多く、皆さん私よりも相当多くの蔵書をお持ちのようだ。
私も、もし自分が大金持ちで、自宅に自分専用の広い書斎を持つ余裕があったならば、こっそり「オトナノトモ文庫」とでも名付けてこのブログで採り上げてきたタイトルを筆頭に私ならではの偏った趣味全開の絵本で本棚を埋め尽くして悦に入りたい・・・という気持ちがないこともない。
が、住宅事情的に全く現実的ではないし、近所に図書館も複数あるので野望は野望のまま息を潜めている。   

ところでその数少ない我が家の所蔵絵本のうち、刊行年が一番古いのがこの「絵本クマのプーさん」なのである。
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残念ながら初版本ではないが、1970年発行の第二版で、辛うじて私自身より年代物だ。
これが初めて親に買ってもらった大切な一冊・・・であれば自慢の一冊にもなろうが、残念ながら親に買い与えられたものではなく、10年ほど前にとあるご縁で自力で入手したものだ。

もちろん、これはこれでとても思い入れがある大切な絵本であるが、今日とりあげるのはこの元祖「クマのプーさん」ではなく、その後岩波でより親しみやすいエピソードを抜き取って分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズの第一巻、「プーのはちみつとり」である。

そもそも私が「クマのプーさん」に出会ったのは中学生の頃だった。
ちょうど東京ディズニーランドが開業した頃で、おそらく私も多くの人たちと同様に、ミルンの原作をちゃんと読むより先にディズニーによってキャラクター化されたプーさんを目にしていたんだと思う。
学校の図書室の本棚で見つけたその原作絵本は、拍子抜けするほどそっけない背表紙だった。
でも、訳者の石井桃子さんによる美しい日本語とE.H.シェパードの繊細な画風で表される原作の世界観は、ディズニーが提供するきらびやかな夢と魔法の国よりも、私にはずっと魅力的に映った。
あの目にも鮮やかな赤いTシャツで愛嬌を振りまくる売れっ子のクマと比べて、原作のプーはなんとも地味でさりげなくて、それでいて佇まいに気品があったのだ。

何より私は、作中で小さな登場人物たちが交わす会話の、もどかしいようなくすぐったいような、妙に遠慮がちでやたらと礼儀正しい独特の言い回しにじわじわと心を奪われた。
それは、私の現実の日常で交わされる会話文とはあまりにかけ離れた世界だったからかも知れない。
自分の生まれ育った世界とは確実に異なるおハイソな文化の気配を興味深く覗き込むことが出来るようになるには、ある程度の精神年齢が必要だったはずだから、私の場合はこの「絵本」に出会うにはこれぐらいの年代が適齢期だったのだろう。
それでなくとも、「絵本クマのプーさん」は、絵本と言っても多めの挿絵を伴った児童書レベルの文章量があり、内容も大人に絵本を読み聞かせてもらう年代の子どもがすんなり理解できるとは思えない複雑な表現や文章構成が含まれている。
何しろしょっぱなからイーヨーのエピソードである。イーヨーは自虐的なほど慎み深い人物(ロバ)で、かなり屈折した物言いをする。一言でいうと大人にも誤解されやすい偏屈者だ。そのイーヨーとクリストファーロビンの禅問答のようなやりとりは今読んでも何ともいえない味わいがあるが、とても幼い子供にこの面白さが理解できるとは思えない。岩波書店がこの作品を子ども向けの絵本として日本に紹介するにあたり、何故いきなり彼を引っ張り出すことにしたのか、今もって謎である。

では改めて小さい人たちにも分かりやすく・・ということだったのか、その後、同じ岩波書店からより絵本らしいコンパクトな版型で一話読み切りの体裁で分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズが出版された。
というわけで(ようやく)今日の絵本、同シリーズ一作目の「プーのはちみつとり」である。

この絵本の素晴らしいところは、コンパクトながらも、前述の「絵本クマのプーさん」ではさっくりと省かれていた一連の作品世界への導入となる前書きと締めくくりの後書きがちゃんと含まれた構成になっているところだ。
この導入部により、読者は語り手の「わたし」が作中の少年「クリストファー・ロビン」の父親であり、おはなしの主人公のプーとはクリストファー・ロビンが大事にしている(割に扱いは雑な)クマのぬいぐるみの名前で、大好きなプーにお話を聞かせてやってと幼い息子にせがまれた父親によるぬいぐるみを主人公にしたストーリーテリングが始まり、お話が終わって安心したように部屋へ引き上げる息子の様子を描写しておわり、という全体の構成が分かるようになっているのだ。

そして何より、本題の「はちみつとり」の話がもう、なんともかとも反則レベルに愛らしいのだ。
だいたい、プーとクリストファーロビンが、まるきり緊迫感のない「ちいさい黒雲コスプレdeはちみつゲットだぜ大作戦」を大真面目に語り合うところから、読んでるこっちは嬉しくてにやにやしてしまう。
何しろ幼児とぬいぐるみが考えることだから、ひたすらシュールで要領を得ないのだ。
これは実際、幼い子供の相手をしているときの極上のお楽しみなのである。
唖然とするほど無邪気で無茶な思いつきを、ものすごく真剣な目で語ってくるのがたまらない。
そして言ってる本人たちも全然自信はないまま、子どもならではの思慮浅さで突っ走る。
案の定の大ピンチに陥っても、なんだか全然緊迫感のないままほのぼのと物語は進んでいく。
何があっても大丈夫。だってこれはおとうさんがプーのために作った「おはなし」だもの、という二重の安心感に守られ、クリストファーロビンは今夜も大満足で眠りにつくのだ。

最後に少し話が前後するが、私がこの絵本の中で一番好きなシーンを紹介しておこう。
プーが木登りに失敗して落っこちたハリエニシダの茂みから這い出して来た時のシーン。

そのとき、プーの頭に、まず浮んだのは、だれだったかというと、それは、クリストファー・ロビンでありました。
(「それ、ぼく?」クリストファー・ロビンは、とてもほんととおもえないように、おそるおそるききました。
「きみさ。」
クリストファー・ロビンは、なんにもいいませんでした。でも、クリストファー・ロビンの目は、だんだん、だんだん、大きくなり、顔もだんだん、だんだん、赤くなっていきました。)


痛い目にあったプーが、真っ先に頭に思い浮かべたのは大好きなともだちのことだった。
まさかそれが自分だなんて。突然の告白にびっくりする少年。
でも、ただそれだけのことが、うれしくてたまらないのだ。
だって自分もそれほどプーのことが大好きなんだもんね。

唐突に溢れる愛に、読んでるこっちもたまらない。
オバハン、うっかり久々に読み返してキュン死である。
実際、幼い子どもは時にこんなふうに手放しの愛情を惜しみなくぶつけてくるのだ。
つい、在りし日のわが子を思い出して遠い目になってしまった。ふう。

posted by えほんうるふ at 18:09 | Comment(0) | キャラクターに惚れる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

遺された本当に豊かな時代への夢

だるまちゃんとかみなりちゃん (こどものとも絵本)だるまちゃんとかみなりちゃん (こどものとも絵本)
加古 里子

福音館書店 1968-08-01

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大型連休の終わりに飛び込んできた、加古里子さんの訃報。
全国の絵本好きのご家族は、大好きなおじいちゃんを喪いどれほど悲しんだことだろう。
思えば我が家にとっても、親子2代に渡りこれほどにたくさんの作品に親しんだ作家さんは他にいない。
あまりにもその存在が当たり前になっていて、ご高齢であることは知っていても、いつかお別れが来ることを想像すら出来なかった。

既にたくさんの方が、素晴らしい絵本の数々を遺してくれた加古さんの功績を讃え、惜しみない感謝と追悼の意を表している。
遅ればせながら、私もここで私なりに加古さんとその作品への想いを綴っておきたい。


子どもたちが幼かった頃、私が絵本を選ぶ時に漠然と想定していた絵本のタイプが三種類ある。
主食絵本、副食絵本、おやつ絵本だ。
主食絵本は一日何度でも食べるもの。夢と生きる力を与え、心を育てるものがたり絵本。
副食(おかず)絵本は、知識と知恵で頭と身体を育てる知識絵本や科学絵本。
おやつ絵本は、子どもたちがハッピーになれるなら、ジャンクでも何でもありのお楽しみ絵本。
そんな分け方をついしてしまうのは、私が自分の母親業を食事をメインに考えているからだろうか。
そして加古さんの絵本は、我が家の副食絵本として不動のリピート率を誇っていた。
一言で言って、加古さんの絵本はどれもこれも「栄養たっぷり」なのである。
しかも、おいしい。おいしくて頭も心も強くなるなんて最高じゃないか。
本当に、全ての子どもたちに味わって欲しいと思える作品ばかりなのだ。

私自身と加古さんの絵本との出会いは相当昔に遡る。
幼いころ、父の知人が来訪の折、何冊かの絵本を子どもたちにと置いていってくれたうちの一冊が、加古さんの「とこちゃんはどこ」だった。
私は飽きること無く毎日その絵本を開き、隅々まで時間をかけて眺めたものだった。
実家は商売が忙しく、家族揃っての外出の機会はめったに無く、幼い私の行動範囲はひどく限られていた。
だから私はとこちゃんとその家族と一緒に色んな場所へ出かけ、色んな人に出会った。
それはわくわくする体験だった。乏しい私の生活経験値をどれほど補ってくれたことだろう。

この作品に限らず、かこさんの絵本にはいつも、溢れるほどのモノが描かれていた。
「ことばのべんきょう」然り、「からすの○○やさん」シリーズ然り、だるまちゃんシリーズ然り。
圧倒的な物量と選択肢。その眩しいほど豊かな世界に幼い私は惹きつけられ、うっとりと憧れた。
その作風はまさしく、「○○がほしいよう」と無い物ねだりをするだるまちゃんに、なんとか応えてやろうとあらん限りのものを並べてみせる、子煩悩な父親だるまどんの姿に重なる。
絵本を目にする子どもたちに一つでも多くのものを見せてあげたい、一人でも多くの子が自分だけのお気に入りを見つけられるようにという、みんなの父親たる加古さんの、大きな愛と溢れるサービス精神の顕れのように思えるのだ。
或いは、加古さんご自身が、欲しくてもモノが無かった幼少期を経て、一気に生活が豊かになった高度成長期に父親になったことを思えば、絵本に表すことで時代の恩恵を全ての子どもたちに等しく享受させてやりたいと考えるのはごく自然な姿だったのかもしれない。

とにかく、加古さんが描く絵本には、人類の英知と進歩を信じる未来への夢と希望が満ちていた。
果たして、彼が子どもたちの未来にと思い描いた時代は来たのだろうか。
確かに技術は進歩した。雲の上のかみなりちゃんの家の生活の一部は、既に我々の日常になった。
でも残念ながら、人間がそれに見合う成長ができているとはとても思えない。それどころか、便利な世の中で人はどんどん馬鹿になっているような気さえする。
そんな時代の流れを、加古さんはどんな気持ちで見つめてきたのだろう。
まだまだ遠いと思っていたからこそ、晩年もあれほど精力的にお仕事をされていたのではないだろうか。

たとえどれほど道が遠かろうと、残念な遠回りの途中であろうと、加古さんが遺してくれた子どもたちの笑顔が輝く未来への夢を、私たちは忘れずにいよう。
加古里子さん、ありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
posted by えほんうるふ at 08:30 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月25日

雰囲気イケメン入門

うさぎさんてつだってほしいのうさぎさんてつだってほしいの
シャーロット・ゾロトウ作 モーリス・センダック絵

冨山房 1974-11-05

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金に飽かした演出のもと、デートで歯の浮くようなセリフも囁いても許されたバブル期。
その崩壊と共に絶滅したと思われたファッションとしての気障は、平成も終わろうという今、一周回ってまたモテのスタイルの一つとして復権しているような気がする。
ただし、それは昔ながらの見た目まんまの様式美としてのダンディさではなく、ダサいに堕ちるスレスレのところで究極のカッコよさを主張し、さらにそれを人にいじってもらって初めて成立するような、いわばウケ狙い前提のセンスと計算を要するスタイルに進化しているようだ。
つまり、今どき気障を気取るのは、もれなく周囲からのツッコミを期待できる芸人ならばいざ知らず、素人が手を出すには相当ハイリスクハイリターンな手段と言えよう。
と同時に、見方を変えれば、この際実際にルックスが良いか否か必ずしも結果に直結しないという意味で、万人に等しくチャンスがあるとも言える。

というわけで、それならばと思い立った男性諸氏に気軽に「はじめての気障」にトライして頂くべく、分かりやすく美しい、THE・KIZAの王道フォルムが図解された素晴らしいテキストを紹介したい。
それが今日の絵本、「うさぎさんてつだってほしいの」である。
さすがゾロトウとセンダックの二大巨匠である。もう文といい絵といい無駄がない。
折角だからこの際自分も「カッコイイ」を身体で表現してみたい!でも、いきなりジョジョ立ちみたいなのはキャラ的にちょっと・・・という御仁にも安心してオススメできる、さりげないフォームが豊富に図解されている大変親切な絵本である。
しかも、少女からオバハンまで女子を自称する乙女の心を絶妙にくすぐる、優しそうで優しくないちょっと優しい言い回しの例題も豊富に掲載されている。最強だ。

さあ、これさえあればあなたも今日から雰囲気イケメンの仲間入り。
あなたが本当のイケメンならどうぞそのまま王道を突っ走って我が世の春を満喫して頂きたい。
そうでない場合でも諦めることはない。寒い空気を力技で笑いに持っていく覚悟さえあれば、勝機はある。
諸君の健闘を祈る。
posted by えほんうるふ at 19:31 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

食べる喜びと食べさせる喜び

へんなどうつぶへんなどうつぶ
ワンダ・ガアグ 作

瑞雲舎 2010-04-28

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中年太り警戒期まっさかりだというのに、どうしても目の前の料理を食べ尽くさずにいられない。
人様に作っていただいたものはもちろん、自分で作ったものでも、例えそれが明らかに何かが間違った味であっても、一度食べ物として供されたものを食べ残すこと、あるいは食べずに処分することに、私は未だに凄まじい心理的抵抗を覚える。

残さず食べることをことさら強いられて育った覚えはないのだが、要するに貧乏性なのだろう。
兄弟が多く、しかも私以外は全員男だったせいか、食卓ではいつも気が抜けなかった。頂きますと同時にまずは自分の分をとにかく確保する。それを食べている間に目の前の大皿に盛られた料理はみるみるかさが減っていく。母が鍋からお代わりを盛っても、程なくそれも消える。
そして食事が終わるときには必ず、食卓の上の皿はどれも綺麗に空っぽになっていた。
そんな光景を当たり前のものとして育ったせいか、食後の皿に料理が残っているのを見ると、どうにも落ち着かない気分になってしまう。
大人数の飲み会などで、頼みすぎたつまみがそこここの皿に残っている。皆はもう会計も済ませ帰り支度を始めている。そんな時つい、ああ、あの唐揚げ1個ならまだいけるかも?あの冷めきったピザはさすがにキツイかな・・などと未練がましくチラチラ見てしまう自分が情けない。

しかしこれが家庭の食卓となるとそこは私の統治下なので、当然ながらお残しはご法度である。
それが完全に私の落ち度でない限り、食卓に出したものは基本的に全て家族に平らげてもらう。
もちろん各々の好き嫌いは把握しているので、苦手なものを無理に食べさせたりはしない。
それらを考慮したうえで出来るだけバランスよく、かつ食べ盛りがしっかり腹を満たせるよう、かつ残り物が出ないように過不足なく計算された量の料理を毎日作れるのは、完全に我が家仕様にカスタマイズされた特殊技能だと思えばなかなかのものだろう。

とはいえ、私はロボットではないので間違えることもある。にんげんだもの。
問題は、そんな時の残った食べ物をどう処分するか、である。

例えば、時々やってしまう、ホームベーカリーでの失敗。
イーストを入れ忘れると、カチカチのういろうのような謎の物体が焼き上がるのだが、私はこれをそのまま捨てることが出来ず、何とかして食べようといつも苦心する。
スライスしてオーブンで焼いてみたり拍子木に切って揚げてみたりと、色々と悪あがきをしてはみたが固さはいかんともしがたく、いずれも会心のリカバリーとは言い難い出来だ。いっそそのまま乾燥させれば非常用の保存食になるかも知れぬ。
さらに悲惨なのは、釜に部品の回転羽をセットするのを忘れた時で、この場合は、すべての材料が入れた順の層のまま撹拌されることなく加熱焼成される。
つまり、最初に水を入れるので釜の下の方は妙に水っぽくダマダマしたすいとんモドキとなり、一番上はただ焼いただけの小麦粉とイーストそのものである。もちあげると底はジメッとしつつ粉がバサバサとこぼれ落ちる謎の物体が完成する。
さすがに人間の食べ物として再起不能と思われるこの物体にも、私は果敢にリメイクを試みたものだ。強引にちぎって卵やバターを混ぜ込み丸めて伸ばして型で抜いてクッキー風にしてみたり、さらに水分を加えてフードプロセッサーで無理やり粉砕させパンケーキ風に焼き直してみたりしたが、いずれも完全なる徒労とさらなる資源の無駄遣いにしかならなかった。無念である。

いや、今日はそんな我が台所闘争の黒歴史を語りたいのではない。やっと絵本の話題に入れる。
今日の絵本はワンダ・ガアグの「へんなどうつぶ」である。
この絵本の内容を知っている人はもう私の言いたいことはお分かりかと思う。つまり私が長々と書いてきた食べ残し問題は全て、一家に一匹のへんなどうつぶがいれば一気に解消するのである。

(以下、私の解釈による完全なネタバレなので未読の方は要注意)

主人公ボボおじさんは、ご近所の動物たちそれぞれに好物の料理を作ってもてなしてやる心優しい人物だ。
きっと彼は料理も上手なのだろう。それでも毎日作っていればどうしても少しずつ料理は残る。まさか捨てるわけにはいかない。さあ、どうする?
そこへ現れたのがへんなどうつぶである。
ボボおじさんは他の動物達に作った料理をこの突然の珍客にも差し出してみるが、奴はそっぽを向くばかり。それどころか、人形を食べたい、それもとびきりよいこの人形がうまいなどと、とんでもないことを言い出す。
心を痛めたボボおじさんは、なんとか奴のにんぎょう喰らいをやめさせようと頭をひねった挙句、まさかのルックス褒め殺し作戦に出る。
恐らく今まで人に外見を褒められたことなどないへんなどうつぶは、賢いボボおじさんの思惑通り、うれしくなって途端に態度を軟化させ、ボボおじさんの語る「じゃむ・じる」なる美容食を食べてさらに美しくなりたいと切望するようになる。
こうなったらボボおじさんの思う壺だ。ボボおじさんは早速、他の動物達に作った料理の残り物を全部混ぜて怪しい「じゃむ・じる」を作り上げ、へんなどうつぶに食べさせた。へんなどうつぶはじゃむ・じるをいたく気に入って食べまくり、どういうわけか食べるほどにその個性的なルックスがさらに助長され、ますますへんなどうつぶはご満悦になるという超展開(笑)
果たして、ボボおじさんはこどもたちを悲しませる人形喰らいを止めさせたうえに残り物も一掃できて(ここ大事)一石二鳥、へんなどうつぶは願いどおりの美しさを手に入れて大人しくなり、誰もが幸せになりましたとさ。

ああなんて素晴らしいハッピーエンドだろうか。
絵本はこうでなくちゃ。子どもに楽しく面白く、大人にも夢と希望を。


贅沢はさせられなくとも食費だけはケチらない、とよく豪語していた母は料理上手だった。
商売が忙しく一人一人に目をかけ手をかけという丁寧な育児は出来なかった分、とにかく毎日美味しいものを腹いっぱい食べさせるのが母なりの矜持だったのだろうと、今は思う。
自分が母親の立場になって今年で20年になる私も、家族のために毎日料理をする面倒くささを嫌というほど味わいつつも、ああ、おいしかった!という声や、食卓の上の全ての皿が綺麗に空っぽになる光景に、毎度ささやかな満足感を覚えている。
そして気がつけば我が子もしっかり、出された料理を残せないタイプに育ってしまったようだ。
特に息子など、多めに作っちゃったから残していいからね、と言ってもいつも無理して全部食べ切っては動けなくなっている・・・
ああ、そうか。今やっと気がついた。
きっと私は、全てを食べきることで喜ぶ母の満足げな顔を見たくて、残せない人になったんだな。
posted by えほんうるふ at 20:48 | Comment(0) | 目からウロコが落ちる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月25日

100回目のご褒美

えっ、本当にそんなに長くやってきたの?!と思うほどまるで実感がなかった。
年数にして8年目。という数字にも改めてびっくりである。
何をやらせても長続きしない根気のなさが最大の欠点だと思っていた自分が、大人絵本会といういささか面倒なネット上のイベントを一人で始め、淡々とやり続けて、気がつくとついに今日、100回目を数えることになってしまった。

30代の終わりにようやく出会った、ライフワークにしたいほどの面白いこと。
それが、ツイッターを利用した大人のための絵本の読書会だった。

そもそも、読書会というものを知ったのは、些細なご縁で欧米のブッククラブ活動を紹介する講演会に参加したのがきっかけだった。
一冊の本について、参加者が自由に語り合い、お互いの知識や思想を分かち合うとは、なんと素晴らしく豊穣な時間になることだろう。
早速私もひとつどこかの読書会に参加してみよう、と、身近なコミュニティを見回せば、確かにそういったイベントはいくつも見つかったものの、どれも古典小説や話題のベストセラーやビジネス書をお題にしたものばかりで、大人の遊びというより勉強会やら異業種交流会のように思えた。

まして、私の大好物である絵本を専門にとりあげている読書会はついぞ見当たらなかった。
いや、子どものための良い絵本を考える場や、読み聞かせを目的としたイベントなら、当時でもたくさんあった。心優しく真面目なママたちが、我が子の成長段階にふさわしい良質な絵本を求めて、日々研究をかさね、熱心に情報交換を呼びかけていた。
でも、そんな風に絵本をあくまでも子どものためのものと位置づけ、子育てに結びつけて学び語らう場はいくらでもあるのに、それとは全く異なるコンセプトで大人だけで絵本を楽しむ場、つまり、自分がブログでホソボソと発信してきたような、子どもの絵本をあえて大人目線で読み込んでオトナならではの新解釈を楽しむという「絵本のオトナ読み」の面白さを共有できそうな場は見つけられなかった。
試しにたまたま児童書をお題にした企画を見つけて参加してみたものの、参加者はたったの5名で作品に対するスタンスもバラバラで対話も弾まず、なんとも消化不良な印象だけが残った。

大人が絵本を楽しんだっていいはずだろうに・・・。
今でこそ、「大人の」と銘打った絵本の読書会やイベントをそこらじゅうで見かけるようになったけれど、私がこれを思いついた8年前の当時にはそれが見つけられず、やりたきゃ自分でやるしかない状態だったのだ。

じゃあ、やるか。
絵本について何ら専門知識もないただの愛好家だからこそ、何の気負いも無く始められた。たまたま私がツイッターに興味をもったタイミングと重なったのが幸いして、それはあっけないほど簡単に実現した。
そこに至る詳しい経緯はこちらの過去ログに記している。今読んでもその道程は紆余曲折というよりマス目の少ないすごろくのようで、このスピード感があったからこそ面倒くさがりな私でもサクサクと始められたのだなと思うと、色々な偶然とご縁にただただ感謝するばかりだ。

それからはただただ夢中になって自分がやりたいことをやりたいようにやっていただけだ。
何かを成し遂げようなんて決意も気負いもなく、目的はただ楽しむこと。
お題の選書は常に私個人の完全な独断と偏見で、会の進行もひたすらマイペース。
当然、来るもの拒まず、去るもの追わず。
夜10時に開会を宣言するツイートを投じる際に、ああ、今日こそは自分一人が勝手に呟くだけのぼっち会になるかも!と思った夜は数知れない。
それは一抹の不安でもあり、むしろそれはそれで面白いかもという期待でもあったが、蓋を開けてみればいつだって一人二人とタイムラインに顔を出して茶々を入れはじめ、気がつけば時間いっぱいやいのやいのと語り合い、あっという間に2時間が過ぎ去るのだった。

そんなこんなで気がつけば大人絵本会、第100回である。
一つのことを百回続けたご褒美に神様がくれたのは、紛れもなくここで出会った素敵な仲間たちだと思う。
何しろ私は「やっぱりおおかみ」である。おれににたこを探し続けてウン十年、孤独耐性にも磨きがかかり、もはや友達の少なさには自信があった。
それなのに!まさかこの歳になって日本全国に「おれににたこ」が爆誕するとはw
人生は分からない。分からないことを実感した今、いよいよ人生が愉しくなってきた。

好き勝手にやってるだけの私の我侭につきあってくれる、心広いモノ好きの皆さん。
いつもいつもありがとうございます。
なお、別に100回に到達したからって大人絵本会は何も変わりません。(あ、さすがに今回だけはちょっと新しい試みに挑戦してみるけどね)
これからも、良かったらおつきあいください。お好きなペースで。
posted by えほんうるふ at 08:21 | Comment(2) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする