2020年01月01日

大人絵本会最新情報

次回の開催が決定しました!


第107回大人絵本会

日時:8月23日(木)午後10時より約2時間

お題:「ゴールディーのお人形」

M.B.ゴフスタイン 作



ゴールディーのお人形 ゴールディーのお人形
M.B. ゴフスタイン M.B. Goffstein

現代企画室 2013-11-11

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大人絵本会は、「絵本を肴に呑むオンライン居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会です。
開催は不定期ですがほぼ1ヶ月に1回のペースで、夜10時から午前0時の間、お題となった絵本についてTwitterで好き勝手に呟きまくるという、非常にお気楽なコミュニティです。
どなた様もお気軽にご参加下さい。

参加方法は、お題の絵本について当会のタグ #大人絵本会 をつけて自由に呟くだけです。途中参加・一言参加・休憩などお気軽に♪ 参入・離脱の挨拶は不要です。
一つの絵本にまつわるたくさんの話題が同時進行しますので、興味をひかれた話題がありましたら、遠慮無く途中から割り込んでお好きに語って下さい。
きっと、楽しい夜になりますよ♪


※ 過去の大人絵本会のお題リスト⇣こちら♪
posted by えほんうるふ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

別れても好きな人

マルラゲットとオオカミ (児童書)マルラゲットとオオカミ (児童書)
マリー・コルモン ゲルダ ・ミューラー

徳間書店 2018-02-20

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毎月、大人絵本会のお題絵本に関するレビュー(のような日記のようなもの)を開催日直前にアップすることだけがこのブログの更新サイクルになって久しい。
絵本は変わらず大好きなのだが、絵本について語ることに疲れているような気もする。
良い絵本悪い絵本談義が昔から苦手で、常に絵本に対しては単純に好き嫌いのみで語ろうとしてきた自分だが、このところそんな私でもさすがに悪書として唾棄したくなるような作品が大手出版社から平然と出版され、感性豊かな幼い子どもたちの元へと届けられる現状にうんざりしている。
絵本の世界に限った話ではないが、ある作品が世に残るかどうか、それを求める人々にきちんと届くかどうかが、内容如何よりマーケティングに左右される現実を思い知らされるたび、律儀に傷つく自分がいる。

実は今回の絵本も、似たようなテーマを扱った別のベストセラー絵本シリーズの影でひっそりと出版されていたものの(そして内容的にはこちらの絵本の方がはるかに素晴らしいと私は推しまくっていたものの)、そのささやかで美しい佇まいのままひっそりと絶版となり、またしても知る人ぞ知る名作として自宅の書棚に安置されていたものだ。
絵本好きの仲間が居て嬉しいのは、そんな私のささやかな推しを覚えていてくれる人がいて、新刊絵本の出版情報に疎い私に、こういった名作の復刊ニュースをいち早く知らせてくれるのだ。
とてもありがたい。持つべきものは価値観を共有できる推し友である。

そんな復刊喜ばしい本日の絵本「マルラゲットとオオカミ」は、実は過去ログで既に一度採り上げている。
ただしその際は、マルラゲットのことを語る以前に私の嫌いなとある絵本シリーズをdisるのに忙しく、マルラゲットはほとんどおまけのような扱いであった。
それでは気が済まないので今回改めてマルラゲット絶賛レビューを書く所存である。


絵本の世界では、現実の自然界での食物連鎖はしばしば無視される。動物たちは肉食動物も草食動物も関係なく一緒くたに仲良しこよしで何食わぬ顔で日常生活を送っていたりする。
私はそれはそれで全然構わないと思う。ファンタジーなのだから、なんでもありだ。
もちろん、敢えてその弱肉強食の絶対法則をベースに双方の攻防を物語にした名作も古今東西にたくさんある。三びきのこぶた然り、おおかみと七ひきの子やぎ然り、ぶたのたね然り、おまえうまそうだな然り、どうぶつさいばん然り・・・ああ、キリがない。

相容れぬ関係だからこそのドラマをいかに描くかというのは永遠のテーマで、とても面白い。
これは想定されるメイン読者である子どもたちへの教育的観点というより単純に私の拘りだが、敢えてその「自然界の大原則」に則って物語を作る場合、その落とし所には作者の本質的なセンスや価値観がモロに反映されるように思えてたいへん興味深い。
つまり、自分にとっての良書・贔屓作家を見つけるのに、かなり信頼できる指標になるのだ。

「マルラゲットとオオカミ」は、その点で私にとってはアカデミー賞ものの傑作である。
別にリアリティを追求しているわけでもなく、充分絵本らしいファンタジーである。
絵自体はものすごく上手なわけではないが、色使いと構図がとてもいい。
私は絵本に登場する狼の作画にはかなりうるさい方だがこの絵本はその点ももちろん合格。とても素敵なオオカミだ。
そしてこの絵本の何よりも素晴らしいところは、子どもにも理解できる無理のない話の流れで、無邪気な親愛の情がやがて愛ゆえのエゴになり、それが破綻した時に子ども自らが「愛するがゆえの別れ」を選ぶまでの大きな心の成長の過程を描いているところだ。
エンディングの余韻がまたなんとも良いのだ。胸が締め付けられるが、そこにはあたたかさもある。
読むたびに、地味だけれどすごく素敵な映画を観たような満足感に満たされ、ああ絵本っていいなぁとしみじみ思える。ベタ褒め(笑)。


ところで、前述の過去ログでケチョンケチョンに切り捨てた件の感動ベストセラー絵本シリーズだが、私はやはり未だに好きになれない。
ネットを検索しても悪評価の方が探すのが難しいぐらい相変わらず絶賛されまくっているし、私が信頼する絵本好きの友人たちもほぼ皆さん一定以上の評価をしているのだから、きっと間違いなく価値ある作品なのだろう。
でも、私は嫌いだ。どれだけマジョリティに絶賛されていようが、私は私の世界の中心でこれを叫ぶ。

ちなみに件の作家氏は別の著書内で「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」と豪語しているが、確かに徹底したマーケティングによる「売れる作品づくり」の大成功例として、これほどの好例はないのかも知れない。
そういえば、同じように一攫千金を狙って自己流の読者マーケティングに基づいた絵本もどきを作り、マスコミで話題になって一時は持て囃されたものの、あっという間に馬脚を現した某自称「世界一の絵本作家」がいる。読者ではなく消費者向けに特化した作品作りをすれば、どれほど稚拙でお粗末なクオリティでも売り方次第では売れてしまう、というこれまた残念な好例である。

だが、売らんかなで作られた絵本、子ども向けを装って実際はそれを買う大人向けに媚びまくった絵本。作り手というより売り手の計算が紙面から読み取れてしまう時点で私にとってそれらは一様に唾棄すべき濫造商品でしかない。
出版社も書店も営利企業である以上、売れてなんぼであることは仕方がない。それでも、仮にもこの国の文化形成を担う産業の一端として、せめて子ども向けの絵本や児童書を扱う部署にはそれなりの矜持を持って仕事をしてほしいと願わずにはいられない。
posted by えほんうるふ at 09:41 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

愛しの「ばっかなクマのやつ!」

プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))
A.A.ミルン E.H.シェパード 石井桃子

岩波書店 1982-06-18

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私は一応自他ともに認める絵本好きだが、個人的に所有している絵本の数は決して多くはない。
数えたことはないが、せいぜい200冊ぐらいじゃなかろうか。
普段SNSで交流している友人たちの中には自宅で子ども向けの文庫を開いている人もいるし、出版や書籍流通業界の人や読み聞かせ活動をする人なども多く、皆さん私よりも相当多くの蔵書をお持ちのようだ。
私も、もし自分が大金持ちで、自宅に自分専用の広い書斎を持つ余裕があったならば、こっそり「オトナノトモ文庫」とでも名付けてこのブログで採り上げてきたタイトルを筆頭に私ならではの偏った趣味全開の絵本で本棚を埋め尽くして悦に入りたい・・・という気持ちがないこともない。
が、住宅事情的に全く現実的ではないし、近所に図書館も複数あるので野望は野望のまま息を潜めている。   

ところでその数少ない我が家の所蔵絵本のうち、刊行年が一番古いのがこの「絵本クマのプーさん」なのである。
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残念ながら初版本ではないが、1970年発行の第二版で、辛うじて私自身より年代物だ。
これが初めて親に買ってもらった大切な一冊・・・であれば自慢の一冊にもなろうが、残念ながら親に買い与えられたものではなく、10年ほど前にとあるご縁で自力で入手したものだ。

もちろん、これはこれでとても思い入れがある大切な絵本であるが、今日とりあげるのはこの元祖「クマのプーさん」ではなく、その後岩波でより親しみやすいエピソードを抜き取って分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズの第一巻、「プーのはちみつとり」である。

そもそも私が「クマのプーさん」に出会ったのは中学生の頃だった。
ちょうど東京ディズニーランドが開業した頃で、おそらく私も多くの人たちと同様に、ミルンの原作をちゃんと読むより先にディズニーによってキャラクター化されたプーさんを目にしていたんだと思う。
学校の図書室の本棚で見つけたその原作絵本は、拍子抜けするほどそっけない背表紙だった。
でも、訳者の石井桃子さんによる美しい日本語とE.H.シェパードの繊細な画風で表される原作の世界観は、ディズニーが提供するきらびやかな夢と魔法の国よりも、私にはずっと魅力的に映った。
あの目にも鮮やかな赤いTシャツで愛嬌を振りまくる売れっ子のクマと比べて、原作のプーはなんとも地味でさりげなくて、それでいて佇まいに気品があったのだ。

何より私は、作中で小さな登場人物たちが交わす会話の、もどかしいようなくすぐったいような、妙に遠慮がちでやたらと礼儀正しい独特の言い回しにじわじわと心を奪われた。
それは、私の現実の日常で交わされる会話文とはあまりにかけ離れた世界だったからかも知れない。
自分の生まれ育った世界とは確実に異なるおハイソな文化の気配を興味深く覗き込むことが出来るようになるには、ある程度の精神年齢が必要だったはずだから、私の場合はこの「絵本」に出会うにはこれぐらいの年代が適齢期だったのだろう。
それでなくとも、「絵本クマのプーさん」は、絵本と言っても多めの挿絵を伴った児童書レベルの文章量があり、内容も大人に絵本を読み聞かせてもらう年代の子どもがすんなり理解できるとは思えない複雑な表現や文章構成が含まれている。
何しろしょっぱなからイーヨーのエピソードである。イーヨーは自虐的なほど慎み深い人物(ロバ)で、かなり屈折した物言いをする。一言でいうと大人にも誤解されやすい偏屈者だ。そのイーヨーとクリストファーロビンの禅問答のようなやりとりは今読んでも何ともいえない味わいがあるが、とても幼い子供にこの面白さが理解できるとは思えない。岩波書店がこの作品を子ども向けの絵本として日本に紹介するにあたり、何故いきなり彼を引っ張り出すことにしたのか、今もって謎である。

では改めて小さい人たちにも分かりやすく・・ということだったのか、その後、同じ岩波書店からより絵本らしいコンパクトな版型で一話読み切りの体裁で分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズが出版された。
というわけで(ようやく)今日の絵本、同シリーズ一作目の「プーのはちみつとり」である。

この絵本の素晴らしいところは、コンパクトながらも、前述の「絵本クマのプーさん」ではさっくりと省かれていた一連の作品世界への導入となる前書きと締めくくりの後書きがちゃんと含まれた構成になっているところだ。
この導入部により、読者は語り手の「わたし」が作中の少年「クリストファー・ロビン」の父親であり、おはなしの主人公のプーとはクリストファー・ロビンが大事にしている(割に扱いは雑な)クマのぬいぐるみの名前で、大好きなプーにお話を聞かせてやってと幼い息子にせがまれた父親によるぬいぐるみを主人公にしたストーリーテリングが始まり、お話が終わって安心したように部屋へ引き上げる息子の様子を描写しておわり、という全体の構成が分かるようになっているのだ。

そして何より、本題の「はちみつとり」の話がもう、なんともかとも反則レベルに愛らしいのだ。
だいたい、プーとクリストファーロビンが、まるきり緊迫感のない「ちいさい黒雲コスプレdeはちみつゲットだぜ大作戦」を大真面目に語り合うところから、読んでるこっちは嬉しくてにやにやしてしまう。
何しろ幼児とぬいぐるみが考えることだから、ひたすらシュールで要領を得ないのだ。
これは実際、幼い子供の相手をしているときの極上のお楽しみなのである。
唖然とするほど無邪気で無茶な思いつきを、ものすごく真剣な目で語ってくるのがたまらない。
そして言ってる本人たちも全然自信はないまま、子どもならではの思慮浅さで突っ走る。
案の定の大ピンチに陥っても、なんだか全然緊迫感のないままほのぼのと物語は進んでいく。
何があっても大丈夫。だってこれはおとうさんがプーのために作った「おはなし」だもの、という二重の安心感に守られ、クリストファーロビンは今夜も大満足で眠りにつくのだ。

最後に少し話が前後するが、私がこの絵本の中で一番好きなシーンを紹介しておこう。
プーが木登りに失敗して落っこちたハリエニシダの茂みから這い出して来た時のシーン。

そのとき、プーの頭に、まず浮んだのは、だれだったかというと、それは、クリストファー・ロビンでありました。
(「それ、ぼく?」クリストファー・ロビンは、とてもほんととおもえないように、おそるおそるききました。
「きみさ。」
クリストファー・ロビンは、なんにもいいませんでした。でも、クリストファー・ロビンの目は、だんだん、だんだん、大きくなり、顔もだんだん、だんだん、赤くなっていきました。)


痛い目にあったプーが、真っ先に頭に思い浮かべたのは大好きなともだちのことだった。
まさかそれが自分だなんて。突然の告白にびっくりする少年。
でも、ただそれだけのことが、うれしくてたまらないのだ。
だって自分もそれほどプーのことが大好きなんだもんね。

唐突に溢れる愛に、読んでるこっちもたまらない。
オバハン、うっかり久々に読み返してキュン死である。
実際、幼い子どもは時にこんなふうに手放しの愛情を惜しみなくぶつけてくるのだ。
つい、在りし日のわが子を思い出して遠い目になってしまった。ふう。

posted by えほんうるふ at 18:09 | Comment(0) | キャラクターに惚れる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

遺された本当に豊かな時代への夢

だるまちゃんとかみなりちゃん (こどものとも絵本)だるまちゃんとかみなりちゃん (こどものとも絵本)
加古 里子

福音館書店 1968-08-01

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大型連休の終わりに飛び込んできた、加古里子さんの訃報。
全国の絵本好きのご家族は、大好きなおじいちゃんを喪いどれほど悲しんだことだろう。
思えば我が家にとっても、親子2代に渡りこれほどにたくさんの作品に親しんだ作家さんは他にいない。
あまりにもその存在が当たり前になっていて、ご高齢であることは知っていても、いつかお別れが来ることを想像すら出来なかった。

既にたくさんの方が、素晴らしい絵本の数々を遺してくれた加古さんの功績を讃え、惜しみない感謝と追悼の意を表している。
遅ればせながら、私もここで私なりに加古さんとその作品への想いを綴っておきたい。


子どもたちが幼かった頃、私が絵本を選ぶ時に漠然と想定していた絵本のタイプが三種類ある。
主食絵本、副食絵本、おやつ絵本だ。
主食絵本は一日何度でも食べるもの。夢と生きる力を与え、心を育てるものがたり絵本。
副食(おかず)絵本は、知識と知恵で頭と身体を育てる知識絵本や科学絵本。
おやつ絵本は、子どもたちがハッピーになれるなら、ジャンクでも何でもありのお楽しみ絵本。
そんな分け方をついしてしまうのは、私が自分の母親業を食事をメインに考えているからだろうか。
そして加古さんの絵本は、我が家の副食絵本として不動のリピート率を誇っていた。
一言で言って、加古さんの絵本はどれもこれも「栄養たっぷり」なのである。
しかも、おいしい。おいしくて頭も心も強くなるなんて最高じゃないか。
本当に、全ての子どもたちに味わって欲しいと思える作品ばかりなのだ。

私自身と加古さんの絵本との出会いは相当昔に遡る。
幼いころ、父の知人が来訪の折、何冊かの絵本を子どもたちにと置いていってくれたうちの一冊が、加古さんの「とこちゃんはどこ」だった。
私は飽きること無く毎日その絵本を開き、隅々まで時間をかけて眺めたものだった。
実家は商売が忙しく、家族揃っての外出の機会はめったに無く、幼い私の行動範囲はひどく限られていた。
だから私はとこちゃんとその家族と一緒に色んな場所へ出かけ、色んな人に出会った。
それはわくわくする体験だった。乏しい私の生活経験値をどれほど補ってくれたことだろう。

この作品に限らず、かこさんの絵本にはいつも、溢れるほどのモノが描かれていた。
「ことばのべんきょう」然り、「からすの○○やさん」シリーズ然り、だるまちゃんシリーズ然り。
圧倒的な物量と選択肢。その眩しいほど豊かな世界に幼い私は惹きつけられ、うっとりと憧れた。
その作風はまさしく、「○○がほしいよう」と無い物ねだりをするだるまちゃんに、なんとか応えてやろうとあらん限りのものを並べてみせる、子煩悩な父親だるまどんの姿に重なる。
絵本を目にする子どもたちに一つでも多くのものを見せてあげたい、一人でも多くの子が自分だけのお気に入りを見つけられるようにという、みんなの父親たる加古さんの、大きな愛と溢れるサービス精神の顕れのように思えるのだ。
或いは、加古さんご自身が、欲しくてもモノが無かった幼少期を経て、一気に生活が豊かになった高度成長期に父親になったことを思えば、絵本に表すことで時代の恩恵を全ての子どもたちに等しく享受させてやりたいと考えるのはごく自然な姿だったのかもしれない。

とにかく、加古さんが描く絵本には、人類の英知と進歩を信じる未来への夢と希望が満ちていた。
果たして、彼が子どもたちの未来にと思い描いた時代は来たのだろうか。
確かに技術は進歩した。雲の上のかみなりちゃんの家の生活の一部は、既に我々の日常になった。
でも残念ながら、人間がそれに見合う成長ができているとはとても思えない。それどころか、便利な世の中で人はどんどん馬鹿になっているような気さえする。
そんな時代の流れを、加古さんはどんな気持ちで見つめてきたのだろう。
まだまだ遠いと思っていたからこそ、晩年もあれほど精力的にお仕事をされていたのではないだろうか。

たとえどれほど道が遠かろうと、残念な遠回りの途中であろうと、加古さんが遺してくれた子どもたちの笑顔が輝く未来への夢を、私たちは忘れずにいよう。
加古里子さん、ありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
posted by えほんうるふ at 08:30 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月25日

雰囲気イケメン入門

うさぎさんてつだってほしいのうさぎさんてつだってほしいの
シャーロット・ゾロトウ作 モーリス・センダック絵

冨山房 1974-11-05

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金に飽かした演出のもと、デートで歯の浮くようなセリフも囁いても許されたバブル期。
その崩壊と共に絶滅したと思われたファッションとしての気障は、平成も終わろうという今、一周回ってまたモテのスタイルの一つとして復権しているような気がする。
ただし、それは昔ながらの見た目まんまの様式美としてのダンディさではなく、ダサいに堕ちるスレスレのところで究極のカッコよさを主張し、さらにそれを人にいじってもらって初めて成立するような、いわばウケ狙い前提のセンスと計算を要するスタイルに進化しているようだ。
つまり、今どき気障を気取るのは、もれなく周囲からのツッコミを期待できる芸人ならばいざ知らず、素人が手を出すには相当ハイリスクハイリターンな手段と言えよう。
と同時に、見方を変えれば、この際実際にルックスが良いか否か必ずしも結果に直結しないという意味で、万人に等しくチャンスがあるとも言える。

というわけで、それならばと思い立った男性諸氏に気軽に「はじめての気障」にトライして頂くべく、分かりやすく美しい、THE・KIZAの王道フォルムが図解された素晴らしいテキストを紹介したい。
それが今日の絵本、「うさぎさんてつだってほしいの」である。
さすがゾロトウとセンダックの二大巨匠である。もう文といい絵といい無駄がない。
折角だからこの際自分も「カッコイイ」を身体で表現してみたい!でも、いきなりジョジョ立ちみたいなのはキャラ的にちょっと・・・という御仁にも安心してオススメできる、さりげないフォームが豊富に図解されている大変親切な絵本である。
しかも、少女からオバハンまで女子を自称する乙女の心を絶妙にくすぐる、優しそうで優しくないちょっと優しい言い回しの例題も豊富に掲載されている。最強だ。

さあ、これさえあればあなたも今日から雰囲気イケメンの仲間入り。
あなたが本当のイケメンならどうぞそのまま王道を突っ走って我が世の春を満喫して頂きたい。
そうでない場合でも諦めることはない。寒い空気を力技で笑いに持っていく覚悟さえあれば、勝機はある。
諸君の健闘を祈る。
posted by えほんうるふ at 19:31 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

食べる喜びと食べさせる喜び

へんなどうつぶへんなどうつぶ
ワンダ・ガアグ 作

瑞雲舎 2010-04-28

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中年太り警戒期まっさかりだというのに、どうしても目の前の料理を食べ尽くさずにいられない。
人様に作っていただいたものはもちろん、自分で作ったものでも、例えそれが明らかに何かが間違った味であっても、一度食べ物として供されたものを食べ残すこと、あるいは食べずに処分することに、私は未だに凄まじい心理的抵抗を覚える。

残さず食べることをことさら強いられて育った覚えはないのだが、要するに貧乏性なのだろう。
兄弟が多く、しかも私以外は全員男だったせいか、食卓ではいつも気が抜けなかった。頂きますと同時にまずは自分の分をとにかく確保する。それを食べている間に目の前の大皿に盛られた料理はみるみるかさが減っていく。母が鍋からお代わりを盛っても、程なくそれも消える。
そして食事が終わるときには必ず、食卓の上の皿はどれも綺麗に空っぽになっていた。
そんな光景を当たり前のものとして育ったせいか、食後の皿に料理が残っているのを見ると、どうにも落ち着かない気分になってしまう。
大人数の飲み会などで、頼みすぎたつまみがそこここの皿に残っている。皆はもう会計も済ませ帰り支度を始めている。そんな時つい、ああ、あの唐揚げ1個ならまだいけるかも?あの冷めきったピザはさすがにキツイかな・・などと未練がましくチラチラ見てしまう自分が情けない。

しかしこれが家庭の食卓となるとそこは私の統治下なので、当然ながらお残しはご法度である。
それが完全に私の落ち度でない限り、食卓に出したものは基本的に全て家族に平らげてもらう。
もちろん各々の好き嫌いは把握しているので、苦手なものを無理に食べさせたりはしない。
それらを考慮したうえで出来るだけバランスよく、かつ食べ盛りがしっかり腹を満たせるよう、かつ残り物が出ないように過不足なく計算された量の料理を毎日作れるのは、完全に我が家仕様にカスタマイズされた特殊技能だと思えばなかなかのものだろう。

とはいえ、私はロボットではないので間違えることもある。にんげんだもの。
問題は、そんな時の残った食べ物をどう処分するか、である。

例えば、時々やってしまう、ホームベーカリーでの失敗。
イーストを入れ忘れると、カチカチのういろうのような謎の物体が焼き上がるのだが、私はこれをそのまま捨てることが出来ず、何とかして食べようといつも苦心する。
スライスしてオーブンで焼いてみたり拍子木に切って揚げてみたりと、色々と悪あがきをしてはみたが固さはいかんともしがたく、いずれも会心のリカバリーとは言い難い出来だ。いっそそのまま乾燥させれば非常用の保存食になるかも知れぬ。
さらに悲惨なのは、釜に部品の回転羽をセットするのを忘れた時で、この場合は、すべての材料が入れた順の層のまま撹拌されることなく加熱焼成される。
つまり、最初に水を入れるので釜の下の方は妙に水っぽくダマダマしたすいとんモドキとなり、一番上はただ焼いただけの小麦粉とイーストそのものである。もちあげると底はジメッとしつつ粉がバサバサとこぼれ落ちる謎の物体が完成する。
さすがに人間の食べ物として再起不能と思われるこの物体にも、私は果敢にリメイクを試みたものだ。強引にちぎって卵やバターを混ぜ込み丸めて伸ばして型で抜いてクッキー風にしてみたり、さらに水分を加えてフードプロセッサーで無理やり粉砕させパンケーキ風に焼き直してみたりしたが、いずれも完全なる徒労とさらなる資源の無駄遣いにしかならなかった。無念である。

いや、今日はそんな我が台所闘争の黒歴史を語りたいのではない。やっと絵本の話題に入れる。
今日の絵本はワンダ・ガアグの「へんなどうつぶ」である。
この絵本の内容を知っている人はもう私の言いたいことはお分かりかと思う。つまり私が長々と書いてきた食べ残し問題は全て、一家に一匹のへんなどうつぶがいれば一気に解消するのである。

(以下、私の解釈による完全なネタバレなので未読の方は要注意)

主人公ボボおじさんは、ご近所の動物たちそれぞれに好物の料理を作ってもてなしてやる心優しい人物だ。
きっと彼は料理も上手なのだろう。それでも毎日作っていればどうしても少しずつ料理は残る。まさか捨てるわけにはいかない。さあ、どうする?
そこへ現れたのがへんなどうつぶである。
ボボおじさんは他の動物達に作った料理をこの突然の珍客にも差し出してみるが、奴はそっぽを向くばかり。それどころか、人形を食べたい、それもとびきりよいこの人形がうまいなどと、とんでもないことを言い出す。
心を痛めたボボおじさんは、なんとか奴のにんぎょう喰らいをやめさせようと頭をひねった挙句、まさかのルックス褒め殺し作戦に出る。
恐らく今まで人に外見を褒められたことなどないへんなどうつぶは、賢いボボおじさんの思惑通り、うれしくなって途端に態度を軟化させ、ボボおじさんの語る「じゃむ・じる」なる美容食を食べてさらに美しくなりたいと切望するようになる。
こうなったらボボおじさんの思う壺だ。ボボおじさんは早速、他の動物達に作った料理の残り物を全部混ぜて怪しい「じゃむ・じる」を作り上げ、へんなどうつぶに食べさせた。へんなどうつぶはじゃむ・じるをいたく気に入って食べまくり、どういうわけか食べるほどにその個性的なルックスがさらに助長され、ますますへんなどうつぶはご満悦になるという超展開(笑)
果たして、ボボおじさんはこどもたちを悲しませる人形喰らいを止めさせたうえに残り物も一掃できて(ここ大事)一石二鳥、へんなどうつぶは願いどおりの美しさを手に入れて大人しくなり、誰もが幸せになりましたとさ。

ああなんて素晴らしいハッピーエンドだろうか。
絵本はこうでなくちゃ。子どもに楽しく面白く、大人にも夢と希望を。


贅沢はさせられなくとも食費だけはケチらない、とよく豪語していた母は料理上手だった。
商売が忙しく一人一人に目をかけ手をかけという丁寧な育児は出来なかった分、とにかく毎日美味しいものを腹いっぱい食べさせるのが母なりの矜持だったのだろうと、今は思う。
自分が母親の立場になって今年で20年になる私も、家族のために毎日料理をする面倒くささを嫌というほど味わいつつも、ああ、おいしかった!という声や、食卓の上の全ての皿が綺麗に空っぽになる光景に、毎度ささやかな満足感を覚えている。
そして気がつけば我が子もしっかり、出された料理を残せないタイプに育ってしまったようだ。
特に息子など、多めに作っちゃったから残していいからね、と言ってもいつも無理して全部食べ切っては動けなくなっている・・・
ああ、そうか。今やっと気がついた。
きっと私は、全てを食べきることで喜ぶ母の満足げな顔を見たくて、残せない人になったんだな。
posted by えほんうるふ at 20:48 | Comment(0) | 目からウロコが落ちる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月25日

100回目のご褒美

えっ、本当にそんなに長くやってきたの?!と思うほどまるで実感がなかった。
年数にして8年目。という数字にも改めてびっくりである。
何をやらせても長続きしない根気のなさが最大の欠点だと思っていた自分が、大人絵本会といういささか面倒なネット上のイベントを一人で始め、淡々とやり続けて、気がつくとついに今日、100回目を数えることになってしまった。

30代の終わりにようやく出会った、ライフワークにしたいほどの面白いこと。
それが、ツイッターを利用した大人のための絵本の読書会だった。

そもそも、読書会というものを知ったのは、些細なご縁で欧米のブッククラブ活動を紹介する講演会に参加したのがきっかけだった。
一冊の本について、参加者が自由に語り合い、お互いの知識や思想を分かち合うとは、なんと素晴らしく豊穣な時間になることだろう。
早速私もひとつどこかの読書会に参加してみよう、と、身近なコミュニティを見回せば、確かにそういったイベントはいくつも見つかったものの、どれも古典小説や話題のベストセラーやビジネス書をお題にしたものばかりで、大人の遊びというより勉強会やら異業種交流会のように思えた。

まして、私の大好物である絵本を専門にとりあげている読書会はついぞ見当たらなかった。
いや、子どものための良い絵本を考える場や、読み聞かせを目的としたイベントなら、当時でもたくさんあった。心優しく真面目なママたちが、我が子の成長段階にふさわしい良質な絵本を求めて、日々研究をかさね、熱心に情報交換を呼びかけていた。
でも、そんな風に絵本をあくまでも子どものためのものと位置づけ、子育てに結びつけて学び語らう場はいくらでもあるのに、それとは全く異なるコンセプトで大人だけで絵本を楽しむ場、つまり、自分がブログでホソボソと発信してきたような、子どもの絵本をあえて大人目線で読み込んでオトナならではの新解釈を楽しむという「絵本のオトナ読み」の面白さを共有できそうな場は見つけられなかった。
試しにたまたま児童書をお題にした企画を見つけて参加してみたものの、参加者はたったの5名で作品に対するスタンスもバラバラで対話も弾まず、なんとも消化不良な印象だけが残った。

大人が絵本を楽しんだっていいはずだろうに・・・。
今でこそ、「大人の」と銘打った絵本の読書会やイベントをそこらじゅうで見かけるようになったけれど、私がこれを思いついた8年前の当時にはそれが見つけられず、やりたきゃ自分でやるしかない状態だったのだ。

じゃあ、やるか。
絵本について何ら専門知識もないただの愛好家だからこそ、何の気負いも無く始められた。たまたま私がツイッターに興味をもったタイミングと重なったのが幸いして、それはあっけないほど簡単に実現した。
そこに至る詳しい経緯はこちらの過去ログに記している。今読んでもその道程は紆余曲折というよりマス目の少ないすごろくのようで、このスピード感があったからこそ面倒くさがりな私でもサクサクと始められたのだなと思うと、色々な偶然とご縁にただただ感謝するばかりだ。

それからはただただ夢中になって自分がやりたいことをやりたいようにやっていただけだ。
何かを成し遂げようなんて決意も気負いもなく、目的はただ楽しむこと。
お題の選書は常に私個人の完全な独断と偏見で、会の進行もひたすらマイペース。
当然、来るもの拒まず、去るもの追わず。
夜10時に開会を宣言するツイートを投じる際に、ああ、今日こそは自分一人が勝手に呟くだけのぼっち会になるかも!と思った夜は数知れない。
それは一抹の不安でもあり、むしろそれはそれで面白いかもという期待でもあったが、蓋を開けてみればいつだって一人二人とタイムラインに顔を出して茶々を入れはじめ、気がつけば時間いっぱいやいのやいのと語り合い、あっという間に2時間が過ぎ去るのだった。

そんなこんなで気がつけば大人絵本会、第100回である。
一つのことを百回続けたご褒美に神様がくれたのは、紛れもなくここで出会った素敵な仲間たちだと思う。
何しろ私は「やっぱりおおかみ」である。おれににたこを探し続けてウン十年、孤独耐性にも磨きがかかり、もはや友達の少なさには自信があった。
それなのに!まさかこの歳になって日本全国に「おれににたこ」が爆誕するとはw
人生は分からない。分からないことを実感した今、いよいよ人生が愉しくなってきた。

好き勝手にやってるだけの私の我侭につきあってくれる、心広いモノ好きの皆さん。
いつもいつもありがとうございます。
なお、別に100回に到達したからって大人絵本会は何も変わりません。(あ、さすがに今回だけはちょっと新しい試みに挑戦してみるけどね)
これからも、良かったらおつきあいください。お好きなペースで。
posted by えほんうるふ at 08:21 | Comment(2) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月19日

ある絵本図書館の話

新年一本目のエントリーとしてはあまりにも残念な内容になるが、久しぶりに腹に据えかねることがあったので、やはり時をおかず記しておこうと思う。

ビットコインには手を出したことがない私だが、ネットを介した投資といえばクラウドファウンディングには何度か出資をしてきた。
いずれも出資者への謝礼内容に惹かれたわけではなく、ましてリターンを期待する投機的な気持ちも毛頭なく、ただ単純に面白そうだったり意義があると思える活動を応援するつもりで純粋に寄付としてやってきたことだ。だから、各事案が後にポシャることはもちろん想定内で、それでも惜しくない程度の微々たる支援しかしてきていない。
ただ、折しもつい最近、私が3年ほど前にそのシステムの存在を知り初めて実際に出資してみた案件が、どうにも残念過ぎる顛末になっていることを人づてに知り、何とも嫌ぁ〜な気持ちになったので、自分への戒めも込めて書き残しておこうと思った。

それは、地域住民の交流の場としてごく小規模な私設の絵本図書館を作りたいという話だった。
私にとっては同じ区内というご近所の縁もあり、もちろんどんな形であれ人々が絵本を楽しむ場が増えるのは大歓迎だし、なにより建物が大正時代に料亭だったという古民家物件でとても素敵な雰囲気だったので、あまりよく調べもせず気軽に応援出資をしてしまったのだった。

現地に行ってみると、建物と環境は確かに噂通りに趣があり素敵だった。蔵書は全て寄贈で賄うとのことだったので、私も一番好きな絵本を一冊持参しメッセージと共に納めた。
ただ、実際に館長を名乗るS氏に話を伺ってみると、ご本人の好きな絵本に対するコメントが妙に浅く、特に絵本というメディアに思い入れがないのがすぐに分かり拍子抜けした。さらに話すほどに、絵本出版についても図書館運営についても私以上に何も知らない素人であることが分かり、語られた今後の運営方針の曖昧さに首を傾げるところも多く、聞けば聞くほど「大丈夫なのー?」という印象が強くなったものだった。

それでも、絵本好きとしてご近所にそれを楽しめるスポットができるのは喜ばしかったし、新しい試みに挑戦するのは悪くないだろうと応援するつもりでいた。
当時の職場が近かったので、何度か様子を見に立ち寄ったが、いつもそれなりに地元の親子連れで賑わっていて、放課後の時間帯には小学生達もいたりご近所のお年寄りも顔を出したりして、当初のコンセプト通り地域の異世代交流の場として機能しているようだった。

だが、それからほどなくして折り入って相談があると代表者に呼ばれて行ってみると、絵本や図書館の話ではなく、区議選に出馬するので「えほんうるふ」として公的に(?)応援してもらえないか、という話をいきなり切り出され、ポカーンとしてしまった。
ハァ?である。開館から日も浅く運営も未だ中途半端なのに何を言ってるんだろう?
もちろん、はっきりお断りした。冗談じゃない。
私が出資した僅かな費用や寄贈した絵本はそのまま地元の皆さんの交流に役立ててもらえればそれでいいと思い、それ以来一切の交流を絶ち、現地に足を向けることもなくなった。

ところがつい先日、友人が久しぶりに問い合わせをしようとしたところ、サイトは閉鎖されていて絵本図書館だったはずの古民家はレンタルスタジオとして営業していることが判明。
不審に思った友人がクラウドファウンディングの運営会社を経由し連絡をとると、ほどなく代表のS氏から直接電話が来たそうだが・・・なんと、号泣しつつひたすら己の至らなさを詫びるばかりという唖然とするような内容だったという。
地元無視の区議選出馬で地元民にそっぽを向かれ、図書館は閉鎖、私や友人達が寄贈した絵本も知人に配るなどして勝手に処分していたそうで、あまりの杜撰さ幼稚さ無責任さに怒る以前に呆れてしまった。

どんなに綿密に計画を立て誠実に運営したところで、新規事業がポシャることはいくらでもある。それはもちろん想定内なので別にいい。ただダメならダメで、関わった人々、協力してくれた人々に詫びを入れるなり最低限の筋を通すのが社会人として当然のケツの拭い方、もとい、責任のとり方ではないだろうか。
何より、私がどうにも許しがたいのは、この絵本図書館が全ての蔵書を善意の人々からの寄贈で賄っていたこと、しかも「不要な絵本ではなく、思い入れのある『大切な絵本』を寄贈して下さい」と呼びかけていたことだ。
そうしてタダで集めた大切な絵本たちを、寄贈者に無断で無責任に処分していたとは!
活動の主旨に賛同しその呼びかけどおりに思い入れのある絵本を寄贈した人たちの思いを何だと思っているのか。あまりに酷すぎる所業である。
どれほど状況が追い詰められていたとしても、せめて、HPなりSNSなりで告知して、絵本の寄贈者に「大切な絵本」の返却を申し出ることぐらいできただろう。
100歩譲って悪気がなかったとしても、責任能力があるはずの大人が人として最低限のことが出来ないほど愚かであることは、悪意をもった犯罪者と同様に人を傷つけかねないということを思い知らされた。

かくいう私も相手を良く知らないままに賛同し出資し、安直にSNSで紹介もしてしまったことを猛省している。私のRT等を見てこの企画を知り、賛助してしまった人がいたとしたら、本当に申し訳なく思う。この場を借りてお詫び致します。

私が寄贈した「やっぱりおおかみ」は今どこにあるのだろう。まさかウチの近所のブックオフにあったりして。せめて、どこかの絵本好きのお宅の蔵書となっていることを願うばかりだ。
確か、かの図書館の蔵書印と共に寄贈者として「えほんうるふ」の名前もどこかに入っていたと思うので、見かけた方は是非ご一報下さいませ。
せめてそんな奇縁に繋がれば、痛い勉強をしたエピソードの救いになりましょう。
posted by えほんうるふ at 22:15 | Comment(2) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

いつも心にお地蔵様を

かさじぞうかさじぞう
瀬田 貞二/再話 赤羽 末吉/絵

福音館書店 1966-11-01

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ああ今年ももう終わる。
毎年性懲りもなく年初には今年こそは断捨離を決行!などと言っているのに、一向に成果が上がったためしがない。
整理が出来ないわけではない。要るものと要らないものを分類する作業までは得意なのだ。
ただし、私が冷徹にコトを成せるのはそこまで。
気がつくと、部屋の片隅に「処分予定の不用品」の山ができる。そして、いずれ消滅するはずのその山は月日と共に不動の存在感を示し、ジワジワとその裾野を広げ高さを増していくのである。

こんなことになる理由はもちろん自分が一番よく分かっている。
「ただ、捨てる」ができない私は、不用品を処分するのにいちいち手順を踏みすぎるのだ。
もう絶対要らないと分かっているのに、そのままゴミ袋に突っ込んで即座に捨てるということがなかなか出来ない。
欲しい人を探したり、ネットフリマやバザーに出したり、或いは切り刻んでボロ布にしようとしまいこんだり・・・そうして処分に至る手順ばかりが複雑になり、気がつけば未だ私の手元で厳然と存在し続けるモノたち。

今年もまた同じことを繰り返し、幼少時から培われたしぶとい貧乏性に我ながらほとほと嫌気がさし、このままでは来年もきっと進歩がないだろうと、改めてこの状況の打開案を考えていて気がついたことがひとつ。
この私のやっかいな行動パターンを制しているもったいないおばけの正体は、ほとんど盲信に近い罪悪感なのではあるまいか。

そもそも私は、一度供された食べ物を残すことも凄まじく苦手だ。
さすがに会食中に他人の皿の物にまで手を出すことはしないが、大皿で供される呑み会などでは、お開きの時間になっても大量に料理が残っていると居ても立ってもいられず、挙句誰に頼まれたわけでもないのに自ら残飯処理班を引き受けては動けなくなる直前までせっせと自分のお腹に収めてしまう。
ものすごくカッコ悪いし貧乏くさいし、もちろん美容上にも甚だしく問題のある行為である。
わかっちゃいるけどやめられない。病気だろうか。
でも、そっと胸に手を当てて考えてみると、まだ食べられる料理が無残にも残飯として一緒くたに生ゴミバケツにぶち込まれる様子が浮かぶ。或いは、その食材を育ててくれた農家の皆さん、漁業の皆さん、我が身を呈してくれたウシさんブタさんトリさんたちの姿が目に浮かび、心が痛む。
・・というのはもちろん大げさだが、とにかくその料理がそこに存在するまでのあれこれを思うと「ちゃんと食べてあげられなくてごめんね」という気になってしまうのは事実で、要するに私はこの感情が、食べ物以外のありとあらゆる物に対しても働いてしまうのだ。

でも、断捨離が苦手な人なら、思い当たるフシがないだろうか。
たとえ自分にはもはや利用価値が見い出せずとも、きっとまだ使えるものの潜在価値を全否定してゴミとして投げ捨ててしまうことに対する、そこはかとない後ろめたさ。
せっかく縁あって私と巡り合ったのに、あなたの使命を存在価値を全うさせてあげられなくて、ごめんなさい・・・。そんなふうに、物を捨てる際に心のなかで思わず手を合わせてしまうのは、私だけではないと思いたい。


さて、ここでようやく絵本の話である。相変わらず長い枕に耐えてくれてありがとう。
冒頭の書影を見てとっくにお気づきの読者もいるかもしれないが、「かさじぞう」は私のような「捨てたいのに捨てられない人」にとって、胸のすくような素晴らしいおとぎ話なのである。
断言しよう。日本全国のさまよえる断捨離落伍者よ、これさえ読めばあなたは救われる!

何しろこのお話の主人公のじいさんは、なけなしの売り物をあっさりさっぱり、豪快にも一気に手放すのである。
何がいいって、そこに迷いが全くないことだ。
だって、そこにはそれを手放す理由が明確すぎるほどに存在しているのだから。
さらに素晴らしいのがその妻、ばあさんである。それこそ本人達の明日を左右するはずの大事ななけなしの商品を、あっさり路傍に捨ててきた夫に対し「どうせ持って帰ってきたって今夜の足しにはならんし、お地蔵さんにあげてよかったな」と、まるっと全肯定!妻として見習うべき、ありえないほどの人格者である。

それにしても、ああ、羨ましい。
私が捨てきれずにいるあの不用品たちも、こんな風に迷いなく、間違いなくそれを必要とする人々にごっそりまとめて差しあげてしまえたら、どんなにすっきりさっぱりすることだろう。こちらはモノを捨てることへの罪悪感から開放され、相手にも喜んでもらえるなんて。それだけでも十分win-winなのに、おまけに予想もしなかったボーナスまで届くなんて、まさに僥倖ではないか。断捨離に憧れる亡者にとっては完璧過ぎるエンディングである。

結果的にただの売れ残りとなった手作りのかさ。餅すらないまま年末を迎えた老夫婦にとって、それはまさに不用品だったに違いない。
それでも、少しでもいい年越しをと藁を編み市場へ出かけ報酬を得る努力をした、つまりやるだけのことをやりきったじいさんにとって、かさはある意味ジリ貧の大晦日の一日を前向きに生きる活力となり得たわけで、もうそれだけでその存在理由を全うしていたのかもしれない。
そして多分、断捨離に惑う私のような者にとって最大のヒントはここにあるのだ。

手放し給え。されば汝は救われる。

これを呪文のように唱えながら新年を迎えれば、ついに私も次のステージへ行けそうな気がする。

posted by えほんうるふ at 08:02 | Comment(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

プロフェッショナル仕事の流儀・本音ダダ漏れ編

さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ)さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ)
レイモンド・ブリッグズ 作/絵

福音館書店 1974-10-25

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生まれてこのかた、ずっと冷え性のような気がする。
この季節ともなれば、家の中でも靴下2枚重ねにレッグウォーマーにモコモコの極暖スリッパで完全防備。上半身もヒートテックに始まりたくさん着込み、最後はモコモコのロングガウンで全身を覆うという念の入れよう。正直、とても人に見せられる格好ではない。それでも以前は宅配便のお届けなんぞ来る度に何とかもう少しまともな格好で応対せねばとあわてて取り繕ったりしたものだったが、もう怖いもののないオバサンなので平然とそのまま玄関口で受け取ったりしている。女として終わっている。
いやいや、女として終わらないための冷え性対策なのである。
たまたま昨日会食した女友達は、私より1コ上世代のお姉さんなのについ先週まで年下だと思いこんでいたぐらいとても可愛らしい女性なのだが、やはり冷えにはかなり警戒しているという。最近何かやってますかと聞けば、腹巻き+カイロを全力でお勧めされた。彼女はもともと腹巻きを愛用していたそうだが、最近はそれにカイロをプラスして一年中お腹を温めているという。オフシーズンに使うために春先にはカイロを箱買いし、夏場に汗疹を作ってまで腹巻きカイロを励行してしまう彼女はさすがに特殊例かもしれないが、やはり冷えを制す女は加齢を制す説は正しいのかもと改めて感心した次第。

さて、そんなこんなで今日の絵本は私と同じく寒がり屋が主人公だ。
「さむがりやのサンタ」は小さい頃から大好きな絵本だった。初版は1974年。今私の手元にあるのは、娘の5歳の誕生日にプレゼントした第50刷だが、現在も当たり前に書店で購入できる。ということは、今はいったい何刷になっていることやら。紛れもない堂々のロングセラーである。
思うに、この絵本がここまで読み継がれている最大の理由は、クリスマス絵本として、プレゼントを受け取る側ではなく届ける側、つまり絵本のメイン読者である子どもたちに対しては大人の事情でアンタッチャブル案件であったはずのサンタクロースの実像に焦点をあてて描かれた絵本の元祖である、ということではないだろうか。

今でこそ、クリスマス絵本のネタも出尽くして、ありとあらゆる個性的なサンタクロースが絵本に描かれるようになっているが、当時はここまでサンタ氏個人の人となりに迫った絵本はなかったように思う。
サンタさんといえば、何しろたった一人で一夜にして全世界の子どもたちにもれなくプレゼントを配るという重責を担っている人物である。そもそもそんなことが出来るのは神の領域の人間でしかなく、その夢を後押しするがごとく、子どもたちの絵本においてはほとんど画一的に神格化された好々爺が描かれものだった。そのルックスはおしなべて某揚げ鶏屋の看板おじさん同様の恰幅がよく白いあごひげを蓄えた老人男性のイメージが踏襲され、ましてその人格を疑うものなど誰もなく、一様に包容力と慈愛に溢れた人物として登場し、多くの場合は無口でその私生活は謎に包まれたままだった。

ところがこの絵本で描かれるサンタ氏は、世界中の子どもたちに愛される男のカリスマ性なんぞ皆無の単なる「働くおじさん」なのだ。
そしてこのおじさん、従来の威厳と慈愛と仕事への誇りに満ちた人格者のイメージには程遠く、とにかくやたらと愚痴っぽい。コマ割りでセリフの多い絵本だが、実にその9割が年に一度の大仕事に対する愚痴や文句なのだから笑ってしまう。確かに骨の折れる仕事だろうが、何もそこまで義務感丸出しに嫌々やらなくても、と思うぐらい、仕事中の不機嫌な独白が延々と続き、挙句その労をねぎらう子どもたちからのささやかなプレゼントにさえケチをつける始末・・。

この絵本の低評価レビューで「子どもたちの夢を壊す」というものを見たことがあるが、確かに自分の手元のプレゼントがこんな風に不機嫌なオッサンがやっつけ仕事で届けてくれたものだと知ったら、無邪気な小さい人たちの中には、がっかりする子もいるかも知れない。
ちなみに私がこの絵本に出会ったのは小学校高学年の頃だっただろうか。早くも大人に対する不信感をムクムクと募らせていた私はこの絵本のサンタを見て「ほらやっぱり!そうでしょうそうでしょう・・・」と膝を打ちたいような気持ちになり、むしろとても楽しくうれしくなったものだった。
その後も繰り返し折りに触れ読み返していたものだが、自分が大人になるにつれ、見どころ味わいどころが違ってくるのも面白い絵本だと思う。今の私にとっては、仕事中の彼よりもその前後に描かれる私生活描写に興味が惹かれる。長年のやもめ生活ならではの一人暮らしを愉しむ細々としたこだわりが随所に表れているのは人として愛おしく思うし、イギリス人らしい生活習慣がきっちり描かれていることから作者ブリッグズの日常生活やその生真面目な人となりを想像するのも楽しい。

絵本の終盤、一年分の仕事を終えて嬉しいベッドタイムを迎えた彼が満ち足りた表情で寝室に運ぶトレーの上には、禁断のお夜食と共に湯たんぽが。こんな細かい描写がなんとも微笑ましい。
私も今夜あたりは湯たんぽを引っ張り出して、冷えを撃退しつつ南の島でのバカンスを夢みよう。

posted by えほんうるふ at 10:06 | Comment(0) | キャラクターに惚れる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする