2020年04月17日

えほんうるふより大事なお知らせ 

去る2020年3月26日の木曜日、いつものように22時からの2時間、第123回大人絵本会を開催致しました。

発足からちょうど10周年、お題を「大人絵本会のこれまでとこれから」と銘打ったその回は、通常とは異なり、ツイッターを通じて皆さんとコメントの応酬をするのではなく、ツイキャスを通じて私の方からお伝えしたいことを一方的にお話させていただくラジオのような形での開催となりました。

ツイキャス開催に際し、あまり前準備もないまま突入してしまったので、番組が途中で途切れたり、まとまりのない放送になりすみませんでした。
結局いつもの通りのグダグダな内容ですが、もしその夜話した内容にもしご興味のある方がいらっしゃいましたら、こちらに録音が残してございますので、どうぞお聞きください。ついでに過去に開催したツイキャス回もご参照いただけます。

そして、一部そのツイキャスでお伝えした内容と重複しますが、
今後の大人絵本会に関連し、主要なお知らせをこちらにも記しておきたいと思います。


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1.大人絵本会の定期開催は終了させていただきました。

といっても大人絵本会が消滅するわけではなく、また気が向いたらいきなり告知なくゲリラ開催する可能性はおおいにあります。
もともと大人絵本会は私が自分の都合で決めた日の夜、2時間自分の好きな絵本について好き勝手に呟くという独りよがり形式でやってきたものなので、今後はそれがいよいよ我道を行くぼっち開催になるというだけで、内容としてはこれまでと何も変わらないでしょう。
改めて、これまで月に一度の私の我儘にお付き合い頂いた皆様、本当にありがとうございました。次回開催は未定です。

なお、大人絵本会から派生した色々な支部(カラオケ部とかカレー部とかね)の活動は、もともと実体として会員のくくりは無いのですが、○○部と銘打って集まるのが何となく楽しいので、このままもはや実体のない謎組織の活動として存続させます(笑)
また気が向いたらゲリラ的に企画・招集をかけるのでお楽しみに。


2.えほんうるふ は のらうるふ に改名しました。

理由はツイキャスでもお話したとおりですが、今や「えほん」をわざわざ名乗るほど絵本のことを語らない存在となってきたので、そろそろその冠を外したかったということと、ちょうどこの春息子の大学入学で子育てが一段落したので、より自由で枠に囚われない「のら」になりたい!という思いがタイミングよく合致したというわけです。
のら、のおおらかな響きが気に入っています。以後お見知りおきを。


3.このブログ「オトナノトモ」は更新を終了し、noteへ移行しました。

ブログを始めるにあたり、アマゾンの書影を拝借しやすかったという理由だけで選んだseesaaブログ。最初は面白がってあちこちいじっていたものの、だんだん両サイドの余計なコンテンツが鬱陶しくなってきて、もっとシンプルなものに移行したいとかなり前から考えていました。
また、オトナノトモはあくまでも絵本レビューがメインコンテンツなので、絵本に全く関係のない記事を書くには違和感があり、話題のジャンルを限定することなく日記のような雑文を書き散らすのに適当な場所がほしかったのです。
その両方を叶えるのに、一番手っ取り早く思えたのがnoteでした。
でも、「えほんうるふ」のまま新しい場所で書くのは何となく気持ちの収まりが悪く、ずるずると別れを引き伸ばしてきたのでした・・・。

この度、大人絵本会に区切りをつけ、「えほん」うるふもめでたくお星さま(?)となったことで、ようやく気持ちの整理がつきました。
絵本の小部屋から飛び出した「のら」は、新天地noteで再出発します。
新生のらうるふの発信記事はこちらからご覧いただけます。

なお、オトナノトモは当面このまま閲覧用として公開保存と致します。

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以上、大人絵本会主宰兼当ブログ管理人からのお知らせでした。

これまでそれぞれのコンテンツに興味を持ってくださった方、
読んだり聴いたり参加したりしてくださった心優しいお友達の皆さん、
重ね重ね、今まで本当にありがとうございました。

ま、私の中身は特に変わりませんのでこれからもどうぞよろしく。


posted by えほんうるふ at 12:34 | Comment(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月10日

大人絵本会最新情報

次回の開催が決定しました!


第123回大人絵本会

日時:3月26日(木)午後10時より約2時間

お題:大人絵本会のこれまでとこれから

(*ツイキャスにてお届け予定)




大人絵本会は、「絵本を肴に呑むオンライン居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会として、私えほんうるふが一人で始め一人で運営してきたオンライン読書会です。厳密には不定期ながらほぼ1ヶ月に1回のペースで、夜10時から午前0時の間、お題となった絵本についてTwitterで好き勝手に呟きまくるという、ただそれだけの非常にお気楽なコミュニティとして、来る者拒まず去る者追わず、たいへんお気楽にやってまいりました。

「参加方法は、お題の絵本について当会のタグ #大人絵本会 をつけて自由に呟くだけです。途中参加・一言参加・休憩などお気軽に♪ 参入・離脱の挨拶は不要です。
参加者が多い時は一つの絵本にまつわるたくさんの話題が同時進行しますので、興味をひかれた話題がありましたら、遠慮無く途中から割り込んでお好きに語って下さい。
きっと、楽しい夜になりますよ♪」

そんな適当すぎる案内のもと、選書も日程も完全に私の独断と偏見と個人的事情のみで決定するという独りよがりな運営方針を貫いてやってきたこの会が、気がつけばこの3月でスタートから10年間が経過するなんて、誰が想像できたでしょうか。
参加者が誰もいなければいつでも私が一人でダラダラと2時間呟き続けるつもりでいましたが、幸いにして参加者がゼロになったことは一度もなく、それどころか「今回こそはぼっち絵本会か?!」と覚悟なかば期待した回に限って、蓋を開けてみれば大盛況で2時間があっという間、ということがとても多い不思議な会でした。

10年の間には、それはそれはたくさんのことがありました。
私個人のことももちろんですが、参加してくださった皆さんにとってもそれぞれに激動の10年だったことでしょう。
その10年分の変化を受け止め、私はここで大人絵本会の定期開催を終了することにしました。
理由は色々ありまして、詳しくは当日お話するつもりですが、一番は、私自身の気が済んだ、ということでしょうか。ここから先は、やりたい!より、やらなくちゃ、という気持ちになっていきそうで、ずっとただ好きでやってきたこの会にそういう思いを重ねるのは嫌だな、と思ったのでした。

ただし、あくまでも月イチの定期開催をやめる、というだけなので、大人絵本会がなくなるわけじゃありません。まあ、無くなったところで誰も気が付かないだろうマイナーな会ゆえ、止めます!とわざわざ宣言するまでもないでしょうし、しれっと再開してもこれまた誰も気が付かないはずで、要するに今後も気が向いたらフラッと開催する気はまんまんです。

てなわけで、この3月の回は中締めといいますか、とりあえず一次会はこれでお開きにしますよ、あとは行きたい人だけ二次会へどうぞ、という節目の機会にしようと思いたちました。
特にお題は設けず、過去回での思い出や、今後の展望(は、特に何もないのですが笑)などなどを時間いっぱい語るべく、久し振りにツイキャスでお届けする予定です。
よろしければ、お付き合いください。


※ これまでに開催した大人絵本会のお題リスト⇣続きを読む
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2020年02月27日

今こそあなたと「はぐ」したい

はぐ.jpg
はぐ

佐々木マキ 作
福音館書店 2013年9月


出版社詳細ページ

例年この時期はバレンタインを多少意識してラブラブな絵本を採り上げることが多かった。
今年も、最初にこの絵本を今月のお題に、と思いついた時はその意識が大きかった。
(それ以外にもう一つ大事なきっかけがあったのだが、それは後述するとして)
ところがその後の想定を超える世の中の動向により、このごくシンプルな絵本を選んだことが、全く別の側面から皮肉なほどタイムリーな選択になってしまった。

うれしいとき、かなしいとき、家族と、肉親と、友達と、恋人と・・・あふれる気持ちが腕を広げ胸を開かせ、気持ちを分かち合おうとごく自然に体ごと抱きしめ合うこと。
ごく標準的な日本人である私にとって、ハグは半世紀生きても未だにちょっぴり照れくさい仕草で、なかなか人前では躊躇してしまうことも多い。
それでも本当にここぞと言う時には、頭で考えるよりも早く、当たり前に腕を広げ相手を抱きしめている自分がいて、なるほど私も一応そういうふうに出来ている生き物なのだな、と半ば自分の人間くささに苦笑しつつ、妙にほっとするような気持ちになるのだった。

だが今年に入り、突然私達の前に現れた未知の病原体によって、そんな人として当たり前の、誰一人傷つけないはずのふれあいに余計な心配がつきまとうようになってしまった。
まさか、今まさに自分が生きている豊かなはずの現代社会で、目の前の大切な人と無邪気にハグすることが躊躇われる日が来るなんて、ほんの数ヶ月前まで誰が予想できただろうか。

つい昨日まで当たり前に出来ていたことが出来ない世界。
それは想像を超えた形でいきなり私達の日常に殴り込んできて、それまで安全かどうかなど意識もせずにいた日々の生活のそこかしこに不安をばらまいていく。
今世界で現実に起こっていること、そしてこれから起こるだろうと言われている災禍は、それが懸念されている通りになるとしたら私のこれまでの人生では経験のない規模のものだ。おまけに、この非常時に際し、我が日本政府の対応といったら「まさか、そこまで酷くはないだろう」と無意識に信じていたことが次々と覆される情けない有様で、まるで設定のいい加減なパニック映画かSF小説のようなお粗末な展開に、その渦中にいる自分もだんだんまともな感覚が麻痺していくようで怖くなる。日々刻々と変わり飛び交う情報の荒波に揉まれながら、溺れないように自分の足場を保つのが精一杯の日々だ。

でも、たとえ今はまるで先が見通せない状態とはいえ、さすがにこれで世界が終わると思っているわけではない。決して楽観はできなくとも、希望を捨てず明るい側面を求め、落ち着いて行動していけば、きっと切り抜けられると信じている。
巷では色々な情報が飛び交っているけれど、自分なりに今まで知り得たことから出した結論は、残念ながら今のところはこの感染症問題に関し、現政府からの必要十分な対応は期待できないということだ。
ならば、一市民なりに精一杯、今できることを考えて備えることしかできない。
私は関連分野の専門知識も自然災害の被災経験もないけれど、好奇心旺盛が幸いして情報収集だけは得意だ。居住地域からいって恐らく既に感染は免れないという前提のもと、自分や家族が発症した時に備え、慌てず騒がず粛々と出来ることから手を付けている。
特に親しい人々には個別におせっかいを伝えたりもしている。心配しすぎと笑われたっていい。いやむしろ笑われる結果になればいいのにと心から思う。
今はただ一日も早く、大切な大好きな人たちと屈託なくハグできる日常が戻ることを願うばかりだ。
どうか皆様、お気をつけて。無事を祈っています。


さて、それでは最後に、私が当初この作品を今月このブログでとりあげた、つまり今回の大人絵本会のお題に選んだもう一つの理由について書いておこう。

別に宣言するほどのことでもないが、この会の定期開催を来月で一旦終了しようと決めたからだ。
やめる理由はまあ色々あるが、一言で言えばちょうど十年でキリがいいから、だろうか。
(つまりこれは前述のウイルス騒ぎが勃発する前から決めていたことで、その影響は全く関係がない。)

私がこの、ツイッターを介した絵本のオンライン読書会をスタートしたのは2010年の3月である。つまり、以来毎月行ってきた大人絵本会は、来月の第123回をもってめでたく満10周年になるのだ。
十年ともなればさすがに色々なことがあり、それこそ行く人来る人で参加者も移り変わったものだが、ありがたいことに発足当初から変わらずに顔を出してくれるモノ好きの皆様に支えられ、今まで一度も参加者がいない「ぼっち開催」になったことはなかった。
そんな親愛なる大人絵本会ラバーズ(?)の皆様に、なんとか最後の選書で私からの愛と感謝を表せないものだろうか。
そう考えた時、私がこの世で一番好きな絵本「やっぱりおおかみ」の作者、佐々木マキさんの作品に、これ以上ないほどシンプルかつストレートな、まさに今の私の気持ちにぴったりな絵本があったことを思い出したのだった。

そんなわけで、大好きな皆さまへ、私から心をこめてエアハグを。
そしていつかまた、あなたと本物の「はぐ」を。

P.S. 来月の最終回は、この10年を振り返りつつ、惜しくもこれまでに開催の叶わなかった幻のお題候補作品を一気にご紹介すべく、ツイキャスでお送りする予定です。

posted by えほんうるふ at 08:56 | Comment(0) | うれしくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

ご近所の天女さま

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天女銭湯

ペク・ヒナ 作
長谷川義史 訳

ブロンズ新社 2016年8月
出版社詳細ページ

私が通っているヨガスタジオの常連さんは、いかにもストイックな雰囲気の方が多い。
スタジオや更衣室内は私語禁止というルールのせいもあってか、空き時間に常連同士でおしゃべりに興じるようなこともなく、皆さん黙々とレッスンをこなしている。かといって別に殺伐としているわけでもなく、お互いのペースを尊重し、淡々とそれぞれマイペースに自分の身体と向き合っている、そんな雰囲気が私にはとても居心地が良いのだ。
趣味の場で馴れ合いやしがらみフリーのまま、伸び伸びと一人の時間を堪能できることがこれほど快適に思えるなんて、私もよほど実生活での人間関係に疲れているのだろうか・・。

それでも、そんな常連さんの中で唯一、私が会う度に言葉を交わす人がいる。
仮にその方をMさんと呼ぼう。Mさんはとても可愛らしいお婆ちゃんだ。お年を訊いたことはないが、少なくとも70代の私の母よりはかなり年上に見える。いつもきちんとメイクをされ装いもお洒落なMさんはお年を召していても華やかな雰囲気で、かといって毳々しいわけではなく、むしろ幼女のように無邪気な印象のある方なので、きっといいとこの奥様なのだろうと勝手に思っている。

そんなMさんと私が言葉を交わすようになったきっかけはとてもシンプルだ。ある日、更衣室で帰り支度をしていた私に、突然Mさんが「これあげる」と冷えた缶ジュースを差し出してくれたのだ。
よく見かけるけれど話したことはなかったMさんからのいきなりのプレゼントに戸惑って、咄嗟に「ええっ?い、いいんですか?」と言葉を返した私に、Mさんはニッコリとこともなげに言った。

「いいのいいの、あなた素敵だから、あげる。」

なんてこった。その妙にストレートな言葉とあまりに邪気のない笑顔に、一瞬言葉を失った。
でも、いつもなら見知らぬ人の突然の親切だとか突然の褒め言葉には感謝よりも警戒が先に立つ残念な私が、どういうわけかその時は、後光差す神に導かれるが如く、素直にわぁ、ありがとうございます!とすんなり手を差し出していたのだった。
ジュースは程よく冷えていて、汗をかいた後の身体に染み渡る美味しさだった。

それ以来、私はレッスンでMさんに会う度に挨拶を交わすようになった。
特に立ち話をするでもなく、おはようございます、今日も寒いですね、などとお互い笑顔で言葉を交わす程度のあっさりしたものだが、その都度Mさんは目を輝かせてとても嬉しそうな笑顔を向けてくれるので、思わずこちらもつられてニコニコしてしまう。そのたった数秒のやりとりの効果は絶大で、私はその度にふわっと気持ちが上向きになり、心がほんのり温まって元気になるのを感じるのだ。
そのうち、何かで気持ちが落ち込んでいる時には自然と目がMさんを探すようになった。どういうことだ。ここまでくると、ひょっとしてMさんは私にとって神や仏に近い存在なのではなかろうか?という気さえしてくる。まさか私にしか見えていない人だったりして?!と思ってあわてて振り返り、インストラクターと談笑する彼女の姿にホッとしたこともある。なにやってるんだか。

そんなわけで頭に浮かんだのが今日の絵本、「天女銭湯」である。
(ちなみに、決してこの絵本の天女のルックスがMさんを想起させたわけではない。もしそうならばなお面白い話になるのだが)

主人公の少女ドッチは母親に連れられて地元の古い銭湯へ行く。
そこへ突如現れたのが羽衣を失くした天女のばあちゃん。
この天女のばあちゃんのキャラがとにかく魅力的なのだ。子どものように無邪気で奔放で、それでいてちゃんと雲の上の人らしい慈愛の心も溢れていて、いざというときには俄然頼りになる存在なのだ。

ご覧の通り、表紙からしてビジュアルのインパクトが強烈な絵本だが、読後感は思いのほか穏やかで、それこそ銭湯のお湯でじっくり温まったように心がふわっと軽くなれる。
ちなみに版元のHPで公開されている公式プロモーションビデオを見ると、この絵本がどれほどの手間暇をかけて作者のペク・ヒナ氏はもちろん大勢のスタッフの協力のもとに制作されたかが分かり、改めて感心してしまう。とにかくパワーがあって素敵な作品だ。                                                    


ヨガスタジオでMさんと挨拶を交わすうちに、私は彼女の声を聞き分けられるようになった。すると、更衣室で支度をしていると聞くともなくMさんの声が耳に届くようになり、それで気がついたのは、彼女は誰に対しても「そのスカーフとても素敵ね」「髪を切ったのね、よく似合ってるわ」などと、ささやかな褒め言葉を惜しみなくかける人なのだった。
きっと私と同じように、彼女からの思いがけない無邪気な賛辞に元気をもらって、その日一日を機嫌よく過ごせた人が何人もいることだろう。こんな身近なところに、確かなご利益のある素敵な天女様がいるのだなぁ、とうれしくなる。

私もいつかMさんのように、誰かの天女になれたらいいなぁ。
そんなことをぼんやり夢見つつ、今日も私はヨガで汗を流す。

posted by えほんうるふ at 09:24 | Comment(0) | うれしくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月26日

来る年を笑い飛ばす

そうべい.jpg
じごくのそうべえ

田島征彦 作

童心社 1978年5月
出版社詳細ページ


年の瀬である。
元来楽観的で大抵のことはケセラセラと流せるほうなのだが、今年は仕事や子どもの受験などで人並みにストレスを感じることが多い年だった。
仕事のことならばまだ、所詮ビジネスだと割り切ることで気持ちの切り替えようもあるのだが、子どものこととなると、本人のために親の自分がしてやれることが年々減っていることに気付かされ、歯噛みしつつ伸ばしかけた手を引っ込める・・・そんな場面を何度も経験し、その度にその引っ込めた手をぢっと見つめるような夜を過ごしてきた。
じわじわと確実に子離れ親離れの節目の時が近づいてきたのを感じる。
ちなみにこの一年我が家にとって最大の懸案事項だった息子の受験は、年明けからがいよいよ本番である。つまりもう1ヶ月もない。来年のことを言えば鬼が笑うそうだが、もはや今からジタバタしたってなるようにしかならんよ、と私も鬼と一緒にくる年の不安を笑い飛ばしてしまいたい!

そんな気持ちもあって選んだ今年最後のお題絵本は「じごくのそうべえ」。自分も自分の子どもたちも、親子二代に渡って幼い頃から親しんできた大好きな絵本だ。
自分が最初にこの絵本に出会ったのは小学校の低学年の頃だったと記憶しているが、最初はとにかく力強い筆致の絵のインパクトに圧倒され、おっかなびっくり手にとったように思う。果たして、絶対に怖い話だろうと思ったのに、まさかこんなに「笑える」絵本だったなんて・・・!幼心にその想定外の魅力はズドンと刺さり、大のお気に入りとして図書館に行く度に何度も繰り返し読んだものだった。
なにしろ舞台が地獄なのに話は終始底抜けに明るくて、地獄に落とされるという絶体絶命(というか絶命済み)の窮地に立たされたはずの主人公の面々に悲壮感はまるでなく、それぞれの得意技をここぞとばかりに繰り出して、飄々と切り抜けていく痛快さ。これがこの絵本の最大の魅力だと思う。

もっとも、「仕事で人をハラハラさせて寿命を縮めた」という、言いがかりのような理由で地獄に落とされた軽業師のそうべえはともかく、連れの地獄行脚御一行の面々はそれぞれお咎め通りの理由があって地獄に行き着いているわけで、決して褒められたものではない。そんな彼らが調子よく結託してヒョイヒョイと地獄の責め苦を免れていく展開には、幼心に「えっ、いいの?」となんとなくモヤモヤしたものだった。今思えば私も幼少時にはそれなりに純真な子どもだったのかもしれない。
が、大人になった今読み返してみると、彼らの度胸やフットワーク、そして徹底的なポジティブシンキングは、ますます世知辛い現代を生き抜く者にとってはむしろ見習いたいほどで、人生どんな局面でもその場その時を楽しんで笑ったもんの勝ち、という、えげつなくも実用的な人生訓が浮かび上がってくるのだった。

ところで、今回この絵本をお題にするにあたり、ちゃんと聴いたことのなかった落語の「地獄八景亡者戯」を改めて聴いてみることにした。図書館で検索してみるとさすが巨匠の十八番だけあってたくさんの音響資料が揃っていて、三代目桂米朝師匠の録音CDをすぐに借りることができた。ゆうに一時間を超える大ネタを全くダレることなく演じきる師匠の語り口はさすがの聴き応えで、これをたった一人でそらで演じきる落語という舞台芸術の凄まじさ、大御所噺家の人間離れした才能を改めて思い知らされ、ただただ感心するばかりだった。

思えば私が子どもが通う小学校で読み聞かせボランティアをしていた頃も、この絵本を読むときは普段より少しばかり気合と覚悟が必要だった。ネイティブ関西人にはとても聴かせられない拙い関西弁で必死に読み聞かせると、それでも子どもたちはいつも大笑いしてくれたものだった。
当時はとにかく読み聞かせに苦労するとても長い絵本だと思っていたが、本物の落語の重厚さ長大さに比べたらあらすじと言っていいほど簡潔にまとまっていて、それでいて作品の面白さを損なうことなく魅力あふれる絵本に仕上がっているのはやはり田島征彦さんの画力の賜物だろう。また編集にもどれほど苦労したことだろうと思うと、裏方の皆様の尽力にも心から敬意を表したい。
初版発行から40年を経てもなお色褪せない、名作中の名作絵本である。
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2019年11月28日

映画好きにおすすめの絵本

からっぽ2.jpgからっぽのくつした

リチャード・カーティス作 レベッカ・コップ絵

世界文化社 2012年11月
出版社詳細ページ

映画が好きでよく観ている。年間200本ぐらいは観ているだろうか。
あまりジャンルにこだわりはなく、邦画も洋画もじゃんじゃん観る。
むしろ偏らずにどんな作品でも機会や縁があれば観るようにしていて、その雑食ぶりたるや、もしかすると絵本の選書以上かもしれない。
たまたま地元の小さな映画館にとても太っ腹なサブスク会員制度があるので、そこで上映されるものは先入観がどうであれ基本的に全部観ることにしている。これがとてもありがたく、知らず識らず自分が食わず嫌いになるのを防いでくれていると思う。

観た映画は記録も兼ねてなるべくレビューを書き残すことにしている。
とある映画専門のレビューサイトを利用していて、マイアカウントで投稿されたレビュー数は現在350あまり。実際の鑑賞本数に対してかなり少ないが、こうした短文投稿ですら、異様に時間をかけて文章を考えてしまう自分にはこのペースが精一杯だ。

ちなみに、私は絵本のレビューをする場合は、基本的に好きな絵本のことしか採り上げないので特定作品をこき下ろすような文章を公に残すことはほとんどないのだが、映画の場合はむしろ遠慮なく好き嫌い全開で忌憚のない私見を書いてしまう。なので、場合によっては私の映画評を読んだ人に不快に思われることもあるかもしれない。いやー申し訳ない、とは思うが、だからといってその傾向を改める気はまるでない。その必要を感じないからだ。
始めから子ども向けに作られた作品を除けば、基本的には大人のための娯楽ソフトである映画は、「良い悪い」ではなく「好き嫌い」だけで語ることが許される、という点で絵本よりもずっと自由に語れるメディアとも言える。実際、真の映画好きを自称する人々には、個々人の推しや好みの違いを尊重する心の余裕があるようにも思う。
私はよく、色々な映画賞を受賞した作品や世間で話題になっている作品を観て「え?そんなにいいか?」と思ってしまい、その思ったままを率直にレビューに書いてしまう。やたらと周囲に絶賛されまくっている作品の場合、若干気が引ける感がないこともないが、そういうときこそ無駄に勇気を出してしまう。同調圧力に屈せず好き嫌いを伸び伸びと自由に言える社会であってほしいと思うから、なんて言うと偉そうだが、素直な気持ちだ。くだらない作品も高尚な作品も、どれも制作陣にとっては心血を注いだ芸術として生かされ、それぞれの受け手に届く世の中であってほしいと願う。

話がだいぶズレたが、絵本を読んでいると「これこのまんま映画にできそうだな」と思うことがよくある。一冊の絵本を超短編の文学作品として捉えると、そこには映画の原案として秀逸ではと思える作品がたくさんあるのだ。(かと言って、絵本原作からアニメ化・実写化された映画作品がみな素晴らしいかというとそんなことはなく、むしろ世界観を崩さず別メディアに展開することの難しさを思い知らされることも多い)

今日ご紹介する絵本もそんな作品だ。
最初にこの「からっぽのくつした」という絵本に出会った時、私は前情報を何も知らないまま読んで「ああ、このお話すごく映画っぽい!年末向けファミリー映画だわー。まあ出来は子役次第かしらねー」などと勝手に夢想していたが、読後に作者を確かめてびっくり、映画みたいどころか既に脚本家としてイギリス映画界で定評・実績のある方が書いた作品だった。そりゃ、ストーリー展開の見事な起承転結ぶりも、ページを捲るごとに映画のワンシーンが思い浮かぶのも、なるほど納得。

作者であるリチャード・カーティス氏はニュージーランド出身、イギリスで活躍中の脚本家・映画監督で、特にコメディやラブコメ作品の名手で数々のヒット作がある(ちなみに彼が脚本を手掛けた映画で私が個人的に一番好きな作品はレネー・ゼルウィガー主演の「ブリジット・ジョーンズの日記」である)。
絵本の内容は、幼い双子の女の子が主人公のいわゆるクリスマスもの。
まあ最初はありがちというか、双子の片方は優等生で片方は困ったちゃんという、それこそ映画にもよくあるパターンの姉妹キャラ設定が描かれる。しかし、その後の展開がブリティッシュコメディらしいブラックさというか、子どもにとっては悪夢のような容赦ない事態になっていく。そしてその運命を子ども自身がどんな行動で切り抜けるか・・・? もう、ここらへんの展開がたまらなく映画っぽく、それも正統派イギリス児童文学にも通じるような、読者たる子どもたちにあえて媚びない大人の厳しさも見せていくところがなんとも小気味よい。ラスト、さりげない小道具を効果的に使った粋なエンディングもやはり映画らしさを感じる演出だ。

また、レベッカ・コップ氏の絵がなんとも可愛くて私はいっぺんで気に入ってしまったのだ。細いのに温かみのある線画、色使いもとても綺麗だ。主人公のふたりの家を覗き込むドールハウスのような見開きの構図も大好物だし、見返しを埋め尽くすプレゼントの包装紙もただカラフルなだけでなく、おばあちゃんの手編みのパッチワークの布団カバーのような(で、伝わるといいのだが)あったかいごちゃごちゃ感があり、眺めているだけでなんだか嬉しくなる。


ところで、今作はまだ映画にはなっていないと思っていたが、念のため原題で改めて検索をかけてみたところ、ちょうどつい先日アニメ映画化が決まったらしい。
https://www.screendaily.com/news/locksmith-animation-to-produce-the-empty-stocking-written-by-richard-curtis/5144467.article

なんとナイスタイミングなニュースだろう。
どういうわけか大人絵本会のお題絵本にはこういった関連ニュースや原画展等のイベントが派生することが多く、それがまた後日のオフ会に繋がったりしてなかなか楽しい。
そもそも入手しにくい絶版絵本をお題にすることが多く、絵本好きとはいえ新刊や絵本出版界隈の新しい動向にはまったく疎い私は、予め告知されているイベントにタイミングを合わせてお題にするような粋な計らいができず、大人絵本会当日に参加者から教えられてびっくりすることも多い。
ともあれ、いずれこの絵本を動画で観られる日が来ると思うと今から楽しみだ。個人的にはこの作品なら実写版も是非観てみたいので、アニメフィルムが話題になってさらにそんな話に発展することを密かに祈っている。
posted by えほんうるふ at 08:37 | Comment(0) | ニヤニヤしちゃう絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

遺作のある人生

angelo2.jpgアンジェロ
デビッド・マコーレイ 作

ほるぷ出版 2006年5月
出版社詳細ページ

孤独な主人公がたまたま出会った野生動物と心通わせる話に弱い。
「ごんぎつね」も「マルラゲットとおおかみ」もそういったジャンルの中で特に私のお気に入りの素晴らしい名作だが、つい最近、久しぶりに読んだブラック・ジャック第90話の「シャチの詩」には、性懲りもなくまた泣かされてしまった。何しろ初めて読んだ時から40年以上も経つ(歳がバレる)のに、未だに読めば必ずやウルウルしてしまう驚異の涙腺破壊力。ふと思い出したからといっておちおち電車の中で検索もできない。

思うに、この手のストーリーで肝なのはやはり、相手がヒトに飼い慣らされたペットではなく、あくまでも偶然出会った野生動物である、というところではないだろうか。
その気持ちの底にあるのは、現実にはヒトと野生動物がお互いのテリトリーを超えてコミュニケーションをとることはお互いにとって不幸な結末につながるだろうという本能的な予感か、あるいは、だからこそそのタブーを超えるファンタジーをフィクションの世界に求めてしまう、無いものねだりの人間のエゴか。どちらにしろ、そこには理屈ではない感情の動きがあるように感じる。

今日の絵本「アンジェロ」もまさにその意味では王道とも言える、無いものねだりの得意な人間の心にシミジミと沁みる美しいファンタジーだ。
そもそもこの絵本にはその道一筋の職人とか、偏屈な老人とか、古い建物とか、ただでさえ私の大好きなモチーフがたくさん詰め込まれていて、それだけでも十分私得な作品なのだが、そのうえ前述の通り、しばしば私の涙腺をダイレクトに攻撃する「野生動物と孤独な人間との心の交流」がメインテーマときたらこれはもう、鷲掴みされてしまう。

似たような野生動物とのふれあいがテーマの作品の中には、絵本という媒体の本来の対象である子どもたちにも容易にその「良さ」が理解できるよう、陳腐なお涙頂戴ストーリーになってしまっている作品もあったりする。
そういった子どもの感性を侮った作品は大人の鑑賞にはとても耐えられないが、今作はその点、自信を持って大人にもお勧めできる。彩度を抑えた色調と文章、何より淡々と描かれる主人公アンジェロのキャラクターのおかげで、大人がじっくりと愉しめる古いイタリア映画のような味わいになっていると思う。(ここであの郵便配達人の映画を思い浮かべたそこのあなた、そうそう私のイメージもまさにあれでした!)

私にとって良い絵本とは、ジャンルに関わらず読後にまるでいい映画を一本観たかのようなじんわりと長く残る充実感を与えてくれるものだが、この絵本はまさにそういう作品だと思う。
残念ながら、逆に良い絵本が良い映画になるとは限らないが、この作品ならば案外(ロケ地やキャストをしっかり吟味すれば)実写化もイケるんではないか?と思わせるものがある。さらに私の勝手な理想を言わせて頂くなら、ロケはもちろんイタリア国内、できればヴェネチア・ミラノ・フィレンツェのいずれかでお願いしたい。


そして、この作品の何より素晴らしいところだと私が思うのは、物語の最後で、一人の人間がその生涯で何を遺せるかという、一つの素敵な例を見せてくれるところだ。
たとえ世の中のほとんどの人に認められずとも、自分が生きた証として、その想いを伝えたいたった一人(あるいは一羽でも一匹でも)にだけは、しかと伝えられる、そんな何かを遺して逝くことができたなら・・・。

自分のことを全く知らない人にも等しく価値が伝わるような名声や功績や莫大な資産などを築くのは到底無理だとしても、人知れずささやかな「誰かにとってのかけがえのない宝物」を遺すことだったら、もしかしたら自分にもできるかもしれない。
そんな風に考えると、平凡で無名な我が人生もそれなりに尊く思えてきて、なんだかうれしくなる。
そしてまた、たった一冊の絵本に励まされて「よし、明日も精一杯がんばって生きよう」などと思えてしまう自分はなんと単純な人間なのだろう。ああよかった。


posted by えほんうるふ at 19:42 | Comment(0) | 終活を考える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月26日

究極のミニマリスト

saida.jpg砂漠のサイーダさん
常見 藤代 文・写真

福音館書店 2009年5月
出版社詳細ページ

世の中ミニマリスト流行りである。
極限まで持ち物を減らし、家具すらないガラーンとした部屋で清く正しく美しく丁寧な暮らしを日々重ねていく、そんなミニマリストの皆さんのライフスタイルに憧れる人は多い。
私なんぞもっと初歩的な日々の断捨離すら何度も宣言しては元の木阿弥パターンを繰り返しているので、到底そんな境地に到れるはずはないが、身軽な生活に憧れる気持ちはすごく分かる。

もしかすると、私が今現在所有している目に見えるものの8割ぐらいは、無くても生きていけるものなのかもしれない。
実際、もし今住んでいる家にあるものを潔く全部捨てて、一から生活をリセットしたらどうなるだろう? これは具体的に考えてみると結構スリリングで面白いので暇つぶしにお勧めの妄想である。
もちろん、同居の家族を捨てるわけにはいかないが、とりあえず一旦は一人暮らしだという設定にして考えてみる。(以下、ツッコミどころ満載の文章が続くが笑って許してほしい、なんせ完全な妄想なので。)

とりあえず雨風をしのぐシェルターとなる家さえあれば、それがほとんど中身のない空き箱のようなものだったとしても、とりあえず身を置く場所はあるだろう。うん、家さえあればなんとかなる。
皿や調理道具は、無くても食べに行くか買ってくることにすれば一応食事には困らない。床で食べるのが嫌なら椅子とテーブルが一つずつあればいい。他には、寝具か。マットと毛布が最低1枚ずつ。あるいは寝袋1枚で済ませるか。
着るものは・・・今の自分の仕事では人に会わないわけにはいかないので、ジャケットとワンピ、シャツ、スカート、パンツ、黒パンプスとバッグが各1に下着が各2ぐらいに部屋着が1セットはどうしても必要。でもそれだけあればギリギリ回せるだろうか。
おっと、もちろんスマホと財布(とその中身)がなくては生きていけない。手帳とノートパソコンも今は使っているが、これらはスマホで済ませている人も多いのだろう。あと仕事用には、客先で使う資料ファイルと最低限のメイク用品も要る。(逆にいえば、もし私の仕事が全く外出を必要としないものだったなら、外出着や化粧品も要らないのかも?)

目に見えるものだけでも最低限これだけ必要だ。いや多分もっとだ。
そしてこれだけの所持品で生活を賄うには、実際にはたくさんの目に見えないものの存在に頼らざるを得ない。特に、電気と上下水道と通信環境は、なくなればたちどころに生命をも脅かすということは、先の台風での大規模停電のニュースでシビアに見聞きしたばかりだ。
ああなんてヒトは脆弱な生き物なのだろう。自然界に放り出された場合の生命力など無きに等しい。トホホ・・

と、ようやくここで一冊の絵本を紹介しょう。
「砂漠のサイーダさん」という、写真家の常見藤代さんによる美しい写真で構成されたドキュメンタリー絵本がある。
福音館書店の月刊絵本「たくさんのふしぎ」2009年5月号として発行されたもので、その後残念ながら単行本化はされていないので新刊としての入手は難しいが、図書館ならば蔵書しているところも多いかと思うので、ぜひ取り寄せて読んでみてほしい。
(ちなみに同じ常見さんの著書として、絵本と同じ女性遊牧民の暮らしを追ったより詳しいルポルタージュが集英社からも出ているので興味のある方は参照されたし。「女ノマド、一人砂漠に生きる」集英社新書)

さて、この絵本の主人公サイーダさんは、広大なエジプトの砂漠でたった一人でラクダと共に暮らしている遊牧民の女性だ。絵本の内容は、実際に彼女の遊牧生活に同行してみた著者が経験した、砂漠での日々の暮らしの実際や、好きでそんな生き方をしているというサイーダさんの考えを聞き、読者に向かって淡々とそれを語り伝えるような、とてもシンプルなものだ。

砂漠を移動しながら生活する彼女は、当然ながら家を持たない。持ち物といえば、6〜7頭のラクダと、そのうちの二頭の背中に積み上げた砂漠での暮らしに必要な最低限の家財道具のみ。もちろん携帯も持っていない彼女だが、生きていくのに必要な情報と知識は全て頭の中に入っている。
つまりサイーダさんこそは、日本の都心とは比べ物にならないほど過酷なむき出しの大自然の中で、逞しく一人で生きる究極のミニマリストなのだ!なんてカッコ良くて清々しい生き方だろうか。
何しろ彼女は、私が最初に「これさえあれば・・」と思った家を持たない。スマホどころか携帯も持っていない。持てないのではなく、持たないのだ。定住地で暮らす彼女の家族は皆持っているそうだが、彼女は「ほしくない」のだという。

作中、何より私が心惹かれたのは、絵本の最後で彼女が語ったこの言葉。

「雲の形は毎日変わるし、砂や草の匂いも季節によって変わる。ラクダが生まれたら、毎日、少しずつ成長する。私は生まれてから一度も退屈なんてしたことがないよ。これからもずっと砂漠で暮らしていく。今日はここ、明日はあそこって、毎日毎日、移動するんだ。ラクダと一緒にね」

どこまでも似たような景色が続く広い砂漠でたった一人、一日中誰とも会わず、もちろんネットにも繋がらず、ひたすらラクダと共に歩き、疲れたら休み、お腹が空けばパンを焼き、暗くなったら大地に横たわって眠る。
とてつもなく単調に見える砂漠でのそんな暮らしを彼女はとても豊かに捉え、心から人生を楽しんでいるようだ。素敵だ。

裏表紙でにっこりと笑うサイーダさんの写真を見ていると、色々なことを考えさせられる。
大自然の前に脆弱なのは、全てのヒトではない。そんなことを言ったらサイーダさんに失礼だ。正しくいうなら、都会での便利な暮らしにどっぷり浸かって甘えた日常を送っている「私が」どうしようもなく脆弱なだけなのだ。

自分は単独行動が好きだし孤独耐性もあるほうだと思っていたが、サイーダさんにはとても敵わない。だからこそとても憧れるし、何だか不思議と励まされるような、うれしい気持ちになる。
持つよりも、持たないことが心の豊かさに繋がることもあるのかも・・・・・
よし、きっと大丈夫だ。思い切ってLET IT GOだ。
今日はあれとこれを手放して、代わりに空を星を見上げてみよう。

posted by えほんうるふ at 17:36 | Comment(0) | カッコイイ絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

その注意に要注意

注意読本.jpg注意読本
五味太郎 作

ブロンズ新社 2002年9月
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外面がいいので初対面の他人様にはかなりキチンとした人間だと思われがちな私だが、一歩家に入れば、つまり素の私は、かなり不注意でいい加減な人間である。
特に自分でも日々困っているのは、所要時間のヨミが甘いことである。そのうえ無駄に好奇心が旺盛で色んなことを思いついては即実践しようとするので、つい本来やるべき作業の優先順位を忘れ、外出の出発予定時間ギリギリまで急な調べ物をしていたりする。気がつくと家を出る時間が迫っていて、あわてて荷物をまとめて飛び出す。と、案の定忘れ物をしてしまい、酷い時は家を出て数分もしないうちに別々の忘れ物に気づいてはあわてて取りに戻り、子どもに「また帰ってきた」と笑われる。結果として私は自宅から最寄り駅までの徒歩数分の道を、たいていは小走りで、時には全速力で走っている。
こうして不注意故に私は日々余計なエネルギーを使うことになるのだが、こうでもしなければ日常生活で体を動かす機会が減る一方の怠惰な自分には、きっとこれも何かの帳尻合わせになっているのだろうと思うことにしている。


さて、今日の絵本はその名も「注意読本」という。
そのタイトルから、まさに私のような不注意な人間に向けた、日常生活上のあらゆるリスクへの注意喚起を促す絵本かと思いきや、そこはやはり五味先生、そんな退屈そうな単純な啓蒙絵本であるわけがない。
この絵本が注意を呼びかける対象は、まさにその注意そのもの。つまり、普段私達が無意識に「注意」していることについて、斜め上から、あるいはちょっと離れた位置からの視点を新たに提案することで、その注意の発想そのものが固定観念にとらわれている可能性を「注意」してくれる。


この絵本について、小さな子にはちょっと難しいのでは?とか、大人向けの絵本でしょ?といった声を聞くことがある。
何をおっしゃいますやら。これは私の私見だが、いい絵本は出会う時期を問わないものだ。
赤ちゃん向けとされる絵本が大人にとっても味わい深いのと全く同様に、幼い子どもだって、中高生や大人向けと言われる絵本から何かを感じ取って味わうことができるはずだ。だから、その本来の味わいが分かろうと分かるまいと、子どもたちには是非アタマが柔らかいうちにたくさんの絵本にまずは出会って欲しいと思って、私は常に自分の趣味でいいと思った絵本は構わず子どもたちと一緒に楽しんできた。(もちろん、あくまでも我が家内に限っての話だが。)

なにしろ、子どもの世界は狭い。身近にいる大人といえば親や親戚、先生たち。友だちといえば、学校のクラスメートやご近所の幼馴染、塾や習い事で知り合う同年代の子どもがせいぜいだろう。今でこそ、ネットを介して世界中のありとあらゆる年代属性の人と友だちになることも可能だが、そこには無限の可能性と裏腹に予測のつかない危険が待ち構えている。
その点、こんな絵本なら安心だ。親でも先生でもない大人の友人、決して学校では教えてくれない自由な発想や、同年代ではとても思いつかないタテ・ヨコ・ナナメからの視点に気づかせてくれる、そんな頼もしく愉快な大人の友だちを実際に得られるのはよほど運が良い子どもだけだろうが、絵本は誰にでも平等にその大役を堂々と果たしてくれる。
しかも、それぞれの子がそこから得たものをどのように受け止めるか、まともな絵本ならそれを決して子どもに無理強いはしない。初めて読んだタイミングではピンとこなくても、それぞれの子がその子なりの心のペースで吸収し、必要な時に糧とすればいいのだから、害があるどころか百利の可能性しかない。例えるなら安全で効果絶妙な遅効性肥料みたいなもので、いずれその子が必要とした時に大きな支えや励ましとなって、あるいはその子自身が気が付かないうちに心の栄養となって、その成長を助けてくれるはずだと私は考える。

だからこそ、子どもの手の届く範囲にどんな絵本を用意するかは大人の責任とも強く思う。
ああそれなのに、こんな素敵な絵本が普通の書店ではもう手に入らない。古書を探すか、図書館に行くしかない。
どれほど良書であっても、日々新しく出版される凄まじい量の有象無象の新刊に押し流され、すぐに書店では手に入らなくなってしまうのが絵本出版業界の現状なのだ。なんということだ!


おっと、柄にもなく絵本論で熱くなってしまった。
なんでこんなふうに話が流れたかというと、最近、すっかり大人に近づいた我が家の子どもたちと、彼らが幼かったころ親子で一緒に読んで楽しんだ絵本の思い出話をよくするからだ。
面白いことに、性別も歳も違い性格も嗜好性も正反対といってもいいほど違う方向へ育ったわが子たちが、今になってあれが好きだったと懐かしむ絵本がほぼ一緒だったりする。へえー、あの頃の君たちは、あの絵本をそんなふうに受け止めていたのか〜と内心驚かされることも多い。親の思惑なんか無関係に彼らは彼らなりにそれを消化して、ちゃっかり糧にしてきたらしいのだが、それがその子なりの個性や特性にどのように作用して今に至っているのかを目の当たりにしつつある今、人の成長とはげに面白き・・と感心するばかりだ。


いいかげん話を戻そう。自分の話に。(笑)
ご存じの方も多いかと思うが、Eテレの朝の5分番組「0655」で流れる歌の中に、「忘れ物撲滅委員会」というものがある。主に会社勤めのサラリーマン向けに作られたと思うその歌は、携帯電話、財布、鍵、社員証・・・と、出勤時に忘れがちな必携アイテムを口に出して歌っていくことで忘れ物チェックができるというたいへん実用的な歌である。実際、この歌を出掛けにくちずさむことで忘れ物を撲滅できた人も少なからずいるだろう。なんと素晴らしい。
しからば私もこの歌を自分用に少しアレンジして(何故ならば私の仕事はちょっと特殊で七つ道具の内容が普通の会社員とは少々異なるのだ)、歌いながら出掛けの持ち物チェックをするようにすれば、一度玄関を出てから何度も家に戻るような失態を繰り返すことから卒業できるのではなかろうか?
・・・と思ってやってみたものの、どうにも字余りで座りが悪い。もはや曲から自作するしかなさそうだ。

posted by えほんうるふ at 15:03 | Comment(0) | 実用的な絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月24日

身軽になりたい

れおに
せかいいち おおきな うち
―りこうになったかたつむりのはなし

レオ・レオニ 作

好学社 1969年4月
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私はもともとあまり所有欲の強い人間ではない。
独占欲もほぼないし、身の丈に合わぬ高級ブランド品を持つことにも興味がない。
好きなものは、必ずしも常に自分の手元になくてもよく、この世のどこかに存在していて、時に愛でたり触れたりできればそれで満足。
そういう意味では、モノに対する執着は歳を重ねるごとにますます弱くなっている気がする。
かくなる上は、巷で話題のミニマリストの皆さんのように、どうしても手元に置いて日々使いたい少数精鋭の必需品以外のモノはじゃんじゃん潔く処分して、さっぱりスッキリの清々しい生活様式を確立したい、と夢見てしまう。

ところが実際には、私の自宅はありとあらゆる場所にモノが溢れている(泣)
同居している病的に物欲の激しい家族の持ち分については考えるだけで頭痛がするので別にするとしても、やはり私自身、まだまだ必要以上にモノを多く持ちすぎているのだ。
身軽になりたい。いや、ならなくては!
今やその思いは常に私の中でふつふつと燻っている。

いつ死んでもいいように、やりたいことは即やろうと思ってきた。
それと同じように、いつ死んでも心置きなくあちらへ行けるように、帰らない旅支度としての身辺整理をしておかなければ、という思いを持つようになったのは、いつからだろう。
やはり年齢的にそろそろ人生の折り返し地点を回ったはず、という意識がそうさせるのだろうか。

ちなみに、物欲の亡者ではないのに一向にモノが減らない理由ははっきり自覚している。
それは、私が「もったいないおばけ」に取り憑かれた極端な貧乏性だからである。
別の絵本を採り上げた際の過去ログでも散々書いてきたことだが、私は要不要の判断までは即できるくせに、イザとなると不用品を捨てられないのだ。
一息にゴミ袋に突っ込んで丸ごと捨ててしまえばいいものを、なんとか別の用途で活用できないか、誰か買ってくれないか、あるいはもらってくれないかと延々と悪あがきをしてしまう。
これは私の育ちが卑しいからなのだろうか。
まあ確かにお世辞にも裕福とは言えない家庭で兄弟4人もみくちゃにされて育ち、幼い頃から一度確保したなけなしの取り分は決して無駄にせず大切にする習慣が身についてはいたが・・・。


さて、今日ご紹介するのはそんな私が今も自戒として時々読み返すことにしている絵本である。
ある日、幼いちびかたつむりが父親にこう言った。
「ぼく おとなに なったら、せかいいち おおきな うちが ほしいな。」
父親はこれに一言、
「うどの たいぼく。」
と答え、息子にある昔話を語って聴かせた。
むかし、ちびかたつむりと同じように、世界一大きな家を欲しがり、ついにそれを手に入れたかたつむりが一体どうなったかを。


美しく削ぎ落とされた無駄のない谷川俊太郎さんの訳文は、そのひとつひとつにじわじわくる味わいがあって、声に出して読んでみると、なんだかうれしい。そしてレオ・レオニの柔らかく毒気のない明るい絵柄に安心して呑気に読み進んでいくと、思いのほかズシンと刺さる展開が待っている。
この作品に限らず、レオ・レオニ作品について、結末が教訓めいていて説教臭いから嫌だ、という声もきく。それでも私はやはり、この光あふれる柔らかい色彩の絵に秘められた、幼心にはもちろん大人の感性にも容赦なく突き刺さるメッセージ性こそが彼の作品の真髄だと思える。
心から尊敬し、愛してやまない作家の一人だ。


そして私は、断捨離に勤しんでいるつもりが一向にその成果が見えてこない自分に喝を入れるべく、今日もこの絵本を開くのだ。
作中のかたつむりのように、誇らしく人に自慢したくなるようなものを山程抱えこんだ挙げ句身を滅ぼすならまだしも、自分でも要らないと分かっている不用品に押しつぶされて不自由に生きるなんて、とてつもなくアホらしいではないか。
まして人生とっくに後半戦に入っているだろう自分は、グズグズしてはいられないのだ!
・・・と、久々に読み返して改めてひしひしと感じた私は、「大事なことを教わる絵本」または「身につまされる絵本」カテゴリーのどちらに入れようか迷っていたこの絵本のために、今回新たに「終活を考える絵本」というカテゴリーを新設したのだった。

小さくしとこう。そしてもっと少なくしとこう。
その日が来たら、すきなところへ身軽に旅立てるように。


posted by えほんうるふ at 19:27 | Comment(0) | 終活を考える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする