2025年01月01日

大人絵本会最新情報

次回の開催が決定しました!


第113回大人絵本会

日時:5月28日(火)午後10時より約2時間

お題:こんな こえが きこえてきました

佐藤雅彦+ユーフラテス 作



こんなこえ.jpg
こんな こえが きこえてきました
佐藤雅彦+ユーフラテス 作

福音館書店 2015年06月
出版社詳細ページ


大人絵本会は、「絵本を肴に呑むオンライン居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会です。
開催は不定期ですがほぼ1ヶ月に1回のペースで、夜10時から午前0時の間、お題となった絵本についてTwitterで好き勝手に呟きまくるという、非常にお気楽なコミュニティです。
どなた様もお気軽にご参加下さい。

参加方法は、お題の絵本について当会のタグ #大人絵本会 をつけて自由に呟くだけです。途中参加・一言参加・休憩などお気軽に♪ 参入・離脱の挨拶は不要です。
一つの絵本にまつわるたくさんの話題が同時進行しますので、興味をひかれた話題がありましたら、遠慮無く途中から割り込んでお好きに語って下さい。
きっと、楽しい夜になりますよ♪


※ これまでに開催した大人絵本会のお題リスト⇣続きを読む
posted by えほんうるふ at 00:00 | Comment(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月25日

我が家のカレー曜日

<トッチくんのカレーようびトッチくんのカレーようび
間所ひさこ 文 山本まつ子 絵

ポプラ社 1969年9月
出版社詳細ページ


我が家ではここ十数年、毎週金曜日の夕飯はカレーと決まっている。
つまり金曜日は、我が家のカレー曜日である。
結論はそういうことなのだが、この2行でブログ更新完了というのもあまりに手抜きなので、もう少し我が家のカレー曜日事情をお伝えするとしよう。

何故私は毎週金曜の夜にカレーを作るのか。
最初は単に、そう決めておくと私が楽だから、という理由だった。
仕事にしろ趣味の予定にしろ、私は金曜の夜は家を空けることが多かった。その度に、作り置きできる夕飯を用意しようと家族にリクエストを募ると、ダントツの安定人気で結局カレーを作ることになった。
そのうち、いちいち訊かずともカレーさえ作っておけば家族の誰からも文句が出ないことに気がついて、私が夜に家を空ける時は黙って勝手にカレーを作るようになった。
子どもが小さいうちは外出自体がなかなかない機会だったので、「外出=夕食はカレー」で問題なかった。ところがだんだんと私の外出頻度が増えてくると、そうそう毎回カレーばかり作るわけにもいかず、作り置き夕食メニューのレパートリーを増やさざるを得なくなった。
それでもカレーはダントツのレギュラーなので、そうなると今度はカレーを中心にローテーションを組んであれこれ作ることになるのだが、そうなったらなったで、その順番やバランスを考えるのが面倒になった。
ならばいっそ「金曜日はカレー」と決めてしまえば、改めて考えるのは他の日だけでよく、少なくとも週に一度は献立を考える煩わしさから開放されるのだ。よし、確定!
というわけで、それ以来、私の外出の有無に関わらず我が家では毎週金曜はカレーなのである。

ちなみに自分で言うのもなんだが私の作るカレーはかなり美味しい。らしい。
七日に一度というのは日本の家庭料理としては結構なヘビロテぶりだと思うのだが、家族にとっては何の問題もないらしく、それどころか、いまだに毎週金曜の朝には「今日はカレーだね!」と嬉しそうに声をかけて出て行き、帰宅時には「あっ!今日カレーだ!やったぁ!!」などと言ってくれる。
そんなに食べたいか?うちのカレー。

子どもたちが小学生のころ、たまたま金曜の給食がカレーだったので気を利かせたつもりで他のものを用意したところ、帰宅した息子に開口一番、「えーっ、今日の夕飯カレーじゃないのー?!」と文句を言われてしまった。
そんなに食べたいか?うちのカレー。

同じく子どもが小学生の頃のこと。たまたま金曜日に子どもの同級生が我が家に遊びに来た。その子が今日は自分の親は帰りが遅いんだ〜なんて話しているのが聴こえたので、個人的にも仲の良い彼の母親に連絡して夕飯を食べさせてから帰したことがあった。
その翌週の金曜日、帰宅した子どもが遊んでいると玄関のチャイムが鳴り、その子が再び現れた。
福神漬を2袋持参していた。
「美味しかったから、また食べに来た!」と無邪気に言う彼に苦笑しつつ、念のため母親に電話したところ、仰天して恐縮しまくっていた。もちろん、折角なので一緒に食べようと慌てて米を追加で炊いたものだった。
そんなに食べたいか?うちのカレー。


おっと、ここは絵本のブログであった。また絵本に関係のない話ばかり書いてしまった。
本日の絵本は「トッチくんのカレーようび」
なんと私が生まれる前に発行された超ロングセラーである。つまり、昭和の絵本だ。
内容的には割とシンプルなファンタジーで他愛もないストーリーなのだが、この絵本の何がいいってこの昭和臭あふれる挿絵がたまらないのだ。表紙だけでごはん3杯いけそうな勢いだ。
そしてカレーようびというやたらキャッチーなタイトル。
きっと、幼い頃から私の心の中にそれはずっと刺さっていたのだ。
いつかは、カレーようび。
幼い頃に読んだ絵本の中の何かをずっとあたためて、大人になってそれを実践できるのはなんと楽しいことだろう。大人バンザイ。


ところで我が家と同じく「金曜日はカレー」ルールで有名なのは海上自衛隊だ。その「海軍カレー」は艦艇・部署ごとに秘伝のレシピがあるそうだが、我が家の場合は一応これだけは入れる、というベースはあるものの、メインとなる材料はその季節ごとに旬の野菜で作るので毎回ちょっとずつ違う。
そもそもカレーなんて不味く作るほうが難しいぐらいに思っているので、いつも割と適当に作っていて、スパイスにこだわって調合から・・なんてことは一度ぐらいしかしたことがなく、いつも仕上げは市販のカレールーを数種類放り込むだけだ。それでももれなく美味しくなるのだから、やはりカレーは偉大である。
日本中、全ての人の「うちのカレー」が幸せな笑顔を呼ぶものでありますように。

posted by えほんうるふ at 09:14 | Comment(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月27日

桜の国に生まれて

<桜守のはなし桜守のはなし
佐野藤右衛門 作

講談社 2012年3月
出版社詳細ページ

今年も桜の季節が来た。
我が家の近所にも桜の名所と言われる公園があり、さして広くもない公園がこの時期ばかりは昼夜を問わず人で溢れかえる。
もちろん満開の桜が川面に映える美しさは私も毎年楽しみにしている景色ではあるが、そのピーク時の印象が押し寄せる花見客で混雑する最寄り駅や周囲の喧騒になってしまったせいか、その最盛期にじっくり花を眺めることは少なくなってしまった。

お花見とは言えないかもしれないが、今の私が好んで眺めるのは時期としてはもう少し早い、まだ一分咲き程度の桜である。
気象庁の開花宣言もまだ遠くきかない時期の公園では、遊歩道を行く人々は桜の木を見上げることもなく通り過ぎていく。三寒四温の日が続き、日差しもまだ弱々しいばかりだが、それでも深く息を吸い込めばかすかに空気に甘い香りが混じっているのが分かる。私は嬉しくなって、ワクワクしながら桜の枝先に目を走らせる。するとそこには、硬い外皮に包まれたつぼみが、期待に胸を膨らませるようにふっくらとまあるく膨らんで、今か今かとその日を待つ姿が見えるのだ。
健気に身を寄せ合って春を待つ小さな花芽たちが愛おしくて、私は思わず語りかけたくなる。
ああ、寒い冬の間、みんなよく頑張ったね。今年ももうすぐ会えるね。待ってたよ、と。

東京に住む私にとって桜はとても身近な樹木だ。
家からさほど遠くない範囲にいくつも桜の名所があるし、桜並木も当たり前にそこここにある。
春になれば花が咲き、夏には青葉が茂り木陰を作り、秋になれば美しく葉が色づき、冬は細い枝の先に雪化粧を纏ってみせる・・・ただそこに植わって立っているだけで、巡る季節と共に四季折々に異なる装いで私達の目を楽しませてくれる桜の木の有り難みに都度感嘆しつつも、それがあまりにも当たり前に繰り返されるので、自然の力で勝手にそのようになっているように思いこんでいた。
しかし、その惜しげなく季節が来れば繰り返される桜の命の煌きが、実は人の手による手厚い加護によって守り支えられていることを知ったのは、割合最近のことである。
私にそれを教えてくれた一冊の絵本。それが今日ご紹介する佐野藤右衛門氏の「桜守のはなし」である。

佐野藤右衛門氏は植木職人として京都・仁和寺御室御所に仕える“佐野藤右衛門”の十六代目であり、日本全国の桜の名木の保存につとめる「桜守」という人である。
恥ずかしながら、私はこの絵本に出会うまでそのような職業の人々がいて、人知れずあの美しい樹木の命の巡りを支えていることを知らなかった。当たり前のように享受してきた日本が誇る美しい桜の情景が、人知れず彼らのような職人たちの弛まぬ努力によって守られていたなんて。その事実に私はなぜか妖精とかコロボックルに出会ったようなワクワクする気持ちになった。
「桜守のはなし」はその名の通り、まさに桜の妖精のように使命感を持って全国の桜の名木を支える氏の日々の地道な仕事ぶりを、写真と共にはんなりとしたご本人の京都弁の語り口によって丁寧に紹介している絵本である。私と同じく、この作品を読んで初めて桜守という仕事を知る人もいるだろうし、日本人なら誰でもその存在に少なからず感謝の気持ちを禁じ得ないのではないかと思う。

とりわけ私が感激したのは、作中で氏が語ったこの言葉だ。

・・・月が丸くなってくるのとおなじころ、つぼみはめいっぱい気張って、ふくらんでくる。このようすを「笑いかけ」といいます。
私は桜がやさしくほほえむ、この瞬間が、いちばんうれしいんですわ。


ああ、桜の生育について何も知らない私と、そのプロ中のプロが「いちばんうれしい」と思うことが同じだなんて、ちょっと感激してしまうではないか。
でもきっとこれは、私だけではないのだ。同じように、膨らむ桜の蕾とかすかに漂う予感程度の芳しい香りに春の訪れを感じとり、密かに心躍らせる人々がこの国にはきっとたくさんいる。


先日、東京の桜の開花宣言が発表された。今年の桜も今週末には満開になるだろう。
満開の桜は美しいが儚い。あっという間に散ってしまうが、だからこそ尊く、愛おしく思える。

そういえば幼い頃、一緒に桜を見る度に母は私にこんな話をした。

「桜は律儀な花でね、全部のつぼみが花開くまで散らずみんなで待ってるんだよ。最後のつぼみが無事に咲いたら、その瞬間から一斉に散り始めるんだよ。」

私は毎年開花宣言のニュースを聞く度、母から何度となく聞かされたこの話を思い出し、何故か涙ぐみたいような切ない気持ちになる。
でもその真偽を確かめたことはない。それこそ藤右衛門氏に訊いてみれば一発で分かるのかもしれないが、どっちでもいいと思う。嘘でもいいのだ。日本人ならば、そんなおとぎ話じみた桜の花の物語を、すんなり受け入れて信じる人も少なく無いのではないだろうか。桜の木にはそういう神話じみた話がよく似合う。

そして、咲き始める直前の膨らんだ蕾を愛でるのと同じぐらい儚い春のお楽しみとして、私が心待ちにしている春の情景は散りゆく桜の姿だ。

ここはさくらのくにだから
散りゆく花までも愛でる
ここはさくらのくにだから
散りゆく花をこそ愛でる

(石村吹雪「さくらのくに」より一部抜粋)

この歌を初めて聴いた時も、やはり私は訳もなく涙ぐんだものだった。
春は私をやたらと涙もろくさせるが、それが嬉しいからなのか切ないからなのか、この歳になっても分からないでいる。



posted by えほんうるふ at 21:41 | Comment(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月26日

線のおつきあいが繋ぐもの

しんせつなともだち.jpgしんせつなともだち
方 軼羣 作 村山 知義 絵

福音館書店 1987年1月
出版社詳細ページ

身内の実家が名産地なので、毎年冬になると大量の林檎が届く。
たまたま人に会う機会があれば手土産に持っていくのだが、ちょうどその持参先のお宅でも田舎から届いた同じ種類の林檎の配布先に困っていて、大笑いしながら物々交換をして帰ったことがある。
そもそも今どきは頂きものをご近所にお裾分けとして配る人も少ないのだろう。どこの家も食べ物は豊富にあるし、狭いマンション暮らしでは収納スペースに余裕もないので、単なる余剰品の押し付け合いのようになってしまう。
そんな住環境事情に加え土地柄もあるのかもしれないが、我が家周辺のご近所同士のお付き合いは、付かず離れずどころかかなり距離を保って、密な交際よりもトラブル回避を優先する空気が強いようだ。それでも同じマンション内の同学年のお子さんがいるお宅とは、子供同士が地元の同じ学校に通っていた頃は何かと交流があったものだが、それも子どもたちが成長してそれぞれ地域社会の外へ出ていくようになると、親同士も自然と会釈程度の関係に戻っていくように思う。

一方、ちょっと世間を見渡せば、地域社会にどっぷり馴染み「子ども同士が赤ちゃんの頃からの家族ぐるみの大親友でーす!」なんていう、SNS映えの眩しい仲良しファミリーの姿もよく見かける。
それが羨ましいかと言えば、むしろ果てしなく億劫な関係に思えてしまう私はもともと付き合いの悪い人間なのだろう。
かと言って人嫌いかと言えばそんなこともなく、初対面の人と話すのも全然平気だし、自分で各種オフ会の企画をするぐらいの社交性はあるし、お酒の席だって決して嫌いじゃない。
ただなんというか、べったりしたグループ単位のお付き合いが昔から苦手なのだ。

おかげで学生時代から今に至るまで女子的仲良しグループ交際の輪からは外れたまま、どこにも属さず一人で好き勝手に動くスタイルがすっかり身についてしまった。
例えば、私の友人たちにはそれぞれ仲間がいて、様々な企画のもと大人数で集まって賑やかに過ごしている人も多いが、そういった集いの多くに私は始めからお声がかからない。これは簡単で、自分が集団行動が苦手なことを日頃から吹聴しておけば、皆さん遠慮なくスルーしてくれるのだ。断る手間と気遣いが省けてたいへん助かる。
その一方で私は、個人的に「会おうよ」と言ってくれる人にはできるだけ都合をつけて会いに行く。一対一ならば他の人に気遣うことなくいくらでもその人一人の話がじっくり聞けるし、何よりお互いリラックスして突っ込んだ話もフランクに語り合える。そんな密度の濃い交流の時間が、私はとても好きだ。

面のおつきあいより線のおつきあいを優先すること。
結局、自分はこんなミニマムな友達付き合いが性に合っているようで、それが堂々とできるようになった今、とても気楽で快適だ。半世紀近く生きてきて、模範的な大人のお付き合いを平然とスルーする図々しさも身について、ますます大手を振って気ままな半孤独ライフを満喫している有様である。

そんな折、久々に読み返した絵本が「しんせつなともだち」だった。
毎年雪の季節が来ると手にとって、その素朴な絵柄と安定の反復ストーリーに心をあたためられていた。
でもこの冬は前述の通り、自分のリアルの交友関係についてある種の悟りを開いたばかりのせいか、今までとちょっと違う感想を抱いたので記しておきたくなった。

どれだけ友達が増えても、皆と一緒に仲良くする必要はない。
その時自分が一番ラクなやり方で、個々の友人と一対一の関係を大切にできればそれでいい。
そして、この絵本のように、そのとき頭に思い浮かんだ一人の友達を大切に思い行動することで、結果的にその一人から繋がるより多くの人を大事にできるとしたら、私の知らないところで誰かがちょっと幸せになるとしたら、それはなんて素敵なことだろう。

                                                           
そういえば今年の林檎はろくにおすそ分けもしないうちに全て美味しく平らげてしまった。
誰かに届けていたら、誰かの思いと共にさらにおいしい林檎になって戻ってきたかも知れないのに。
来年の林檎が届いたら、誰に会いに行こうか。
posted by えほんうるふ at 10:11 | Comment(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

新年のご挨拶と、新春特別企画のご案内

親愛なる絵本好きの粋な大人の皆様、ご無沙汰しております。
もうとっくに松の内も明けましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、しばらくお休みしていた大人絵本会ですが、年も改まったことですし、そろそろ再始動致します。
再開記念にいつもとはちょっと違うことをやってみたくてこんな企画を考えました。

題して、

再開記念☆新春特別企画!

第109回大人絵本"新年"会

「あの絵本のあの歌、歌っちゃいまショー☆」


開催予定日時:1月19日(土)19:30より2時間ぐらい

*ツイキャスにてリアルタイム配信予定



大人絵本会にご参加頂いたことのある方なら、これだけでだいたいの企画趣旨はお察し頂けるかと思います。
そうです。今回の大人絵本会は、歌います!


絵本を読んでいると、登場人物がいきなり歌い出すことがよくあります。
そんな時皆さんはその歌詞をどんな風に読んでいるでしょうか?
人前で声に出して読む場合などは特に、そのまま棒読みするのも、それはそれでちょっと照れくさかったりしますよね・・。

ちなみに私の場合、気がつくと自分なりの節やメロディをつけて読んでいることが多いようです。大人絵本会の過去回やツイキャス回で「ぼくらのなまえはぐりとぐら」のえほんうるふ家バージョンを披露したこともありました。

今回の大人絵本会はつまり、その拡大版です。
当会きっての歌好きお祭り好きが集い、それぞれお気に入りの「歌が出てくる絵本」を持ち寄ってその場で自らのオリジナル作曲バージョンを歌って披露、しかもそれをツイキャスでリアルタイム配信してしまおうという、おそらく前代未聞の無茶な企画であります。


わりと最近、絵本の「読み聞かせ」という言葉について、人によって異なるその言葉の受け取り方ついてツイッター上で侃々諤々の議論が巻き起こっていたことは、ここをご覧になる皆さんはきっと記憶に新しいかと思います。
大人が自由に絵本を楽しむことを提唱したい当会としましては、いっそそんな議論の斜め上を目指し、絵本は全ての読者にとって楽しむためにあるという原点に立ち帰るべく、「読み聞かせ」ならぬ「歌い聴かせ」をやってみようと思い立ったわけです。

当日の司会進行は私えほんうるふが担いますが、なんせ新年会も兼ねておりますので、特にかっちりした構成は考えておりません。
個人的には、「ぐりとぐら」「おだんごぱん」「めっきらもっきらどおんどん」「プーのはちみつとり」あたりの作中歌(の、えほんうるふバージョン)をウクレレで弾き語っちゃおうかなー・・・なんて考えています。
他の参加者がどんな絵本と共に現れるかは、私も当日まで知りません。ワクワクです!

ただし、単なる歌う酔っぱらいのグダグダな飲み会中継になる可能性も大いにありますので、予めご了承ください。


なお、ツイキャス配信をするということは、まさしく勝手に作品の一部を歌ってしまうし聴かせてしまうわけですが、作品を冒涜したり、それぞれの解釈を人様に押し付けようなどという気持ちは毛頭ありません。
あくまでも、根底にあるのは個々の作品への愛であり、ただただ、大人ならではの自由な絵本の楽しみ方のひとつとして、当会ご愛好の皆さまとその空気を少しでも共有できたら・・・という一心でございますので、どうかご容赦ください。
ツイキャス配信中にコメント等も受け付けられますので、「自分のバージョンも披露したい!」というもの物好きな方は、動画なり音声ファイルを投稿するなりして、ご自由に参加なさってください。お待ちしております♪

それでは、絵本をフリースタイルに愉しむ大人による大人のためのバーチャル読書会、大人絵本会を今年もどうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m


*これまでに開催した大人絵本会のお題リスト⇣
こちら♪
posted by えほんうるふ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月04日

当会の趣旨と、主宰からのお願い。

大人絵本会に関心を持ってくださり、ありがとうございます。
当会は、私えほんうるふが思いつきで始めた絵本をテーマにしたtwitter上の座談会です。
2010年3月に開催した第1回より今まで、完全に私一人で運営している独りよがりな集いです。
よくもまあこんな酔狂を長らく続けてきたものです。自分でも驚きます。
2018年10月現在私の知る限り、日本全国に絵本愛好家の集いは数あれど、うちと同じ趣旨・形式で活動しているところは無いようなので、唯一無二の変な会の創始者として、ちょっとぐらい偉そうなことを言っても許されるかと思います。
少々長くなりますが、よろしければご一読ください。

当会の開催は基本的に月1回で、だいたい第3〜4週の木曜日辺りになることが多いです。
開催日が確定次第、ツイッターと私のブログ上で、お題絵本と共に告知を致します。
参加方法は簡単です。開催時間中に #大人絵本会 のタグをつけてツイートするだけ。
入会資格も挨拶も不要で、来る者拒まず去る者追わずです。
マメじゃないので決して面倒見はよくありませんが、お問い合わせにはいくらでもお答えします。
なにしろ主宰が開催時間中に寝落ちするぐらいテキトーな会なので、肩肘張って気合入れて参加するほどのことはありません。気が向いた時にフラッと立ち寄って呟き逃げするぐらいが丁度いいかと思います。

なお、お題絵本は基本的に主宰個人の独断と偏見とご縁に基づいて選定されます。
誰もが認めるロングセラー、名作と呼ばれる絵本をお題に選ぶこともあれば、あまり知られていないマイナーな絵本、絶版絵本、新しい作家さんの出たばかりの絵本を選ぶこともあります。唯一の共通点は、そのどれもが私のお気に入りの絵本だということです。

なにせ私が一人で勝手にお題を選んでいるので、時には、あなたの嫌いな絵本がお題になることもあるでしょう。
それでも、例えば映画でもB級ならB級ならではの味わいを愛でるファンがいるように、絵本だって、ある人にとっては駄作でも、他の誰かにとっては愛すべき大切な作品であるはずと私は考えます。
あなたが嫌いだ、駄作だと思う絵本に価値を見出した人の言葉に触れることで、あなたの価値観もまた少し広がるかも知れません。実際、参加者から「実はあまり好きじゃなかったんだけど、食わず嫌いでした」というメッセージを頂いたことが何度もあります。
大人はどんどん頭が固くなるばっかりですから、きっと良いエクササイズにもなりましょう。


そして、ここからが一番大事なことです。
大人絵本会は絵本の勉強会でも品評会でもありません。
あくまでも大人による大人のための節度を保ったお遊びの場です。
日頃、大人として、親として、教育者や保育者としてそれぞれに頑張っている私たちなのだから、たまにはその責務や道義や建前を忘れて子どものおもちゃで悪ふざけをしたっていいよね?
そんな思いで私はこの会を作り、ほそぼそと続けてきたのです。

大人絵本会発足の詳しい経緯はこちらに記載していますが、一言でいうと「子どもの絵本を大人目線で深読みする楽しさをみんなで共有したかった」というのが、私がこの会を作った最大の理由です。
決して作品や作者を貶したり冒涜したり上から目線で批評しようという意図はなく、あくまでも根底にあるのは作品への愛です。
ええ、そうです。ここは、絵本好きの変な大人がフリースタイルにその愛を語りあうヤバイ場所ですが、なにか?
ぶっちゃけ、その絵本のことが好きでたまらない人にこそ楽しめる場だと思います。

もしお題絵本に価値を感じなかったり、そもそも大嫌いな作品でしたら、わざわざご参加頂くには及びません。まして「好き嫌い」ではなく「良し悪し」を語りたい場合は、それに相応しい場が他にあると思うので、そちらで思う存分吠えてみてはいかがでしょうか。
申し訳ありませんが、私はお題作品が絵本として正しいか否かを協議したり、編集者ばりにその完成度を検証することに、まっっっっっったく興味がありません。
せっかく誰もが気楽に楽しめる場を提供しているのだから、ただただ私は楽しくやりたいだけです。酒場でバカいいながらワイワイ呑んでいるところへ乱入して、飲んでる酒の質や酒造メーカーの怠慢を問い質すような無粋な真似はどうかご勘弁を。

そもそも、ここで採り上げた絵本がどんなに面白かったからといって、何も考えずに子どもに手渡したり読み聞かせたりするような人は、当会参加者にはいないと私は信じています。お酒が美味しいからって幼い子どもにも飲ませようとするようなお馬鹿さんはいませんよね。当然です。
私が言うのもなんですが、どういうわけかこの会に出入りする人々の人間力と大人度は相当なものです。密かに誇りに思っています。だからそんな啓蒙活動なんて、元から不要なのです。

でも、念のため改めてお願いします。初参加の方にも。
どうか、世知辛い世の中の現実に汚れちまった大人ならではの愉しみと、まだ半ば夢の中にいる子どもたちの楽しみを混同しないで下さい。
同じ絵本であっても、見るところ見えるものが違うのです。誰しも、子どもの頃に好きだった絵本を大人になってから読み返して、新しい発見をしたり、全く違う感想を抱くことがありますよね。
絵本は幅広い年代で楽しめるからこそ、時を越えて奥深い楽しみを提供してくれる素晴らしいメディアなのです。だからこそ、子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、その時それぞれの感性でその世界を味わえばいいと私は思います。

いやぁ〜、絵本って本当に素晴らしいですね!

親愛なる絵本作家の皆様、大切な作品を想定外な視点で楽しむことをどうかお許しください。失礼があればお詫びします。
でも、ここに集う皆さんの発言は全て、絵本というメディアへの愛あればこそだと私は信じています。

参加者のみなさん、どうか当会の趣旨をご理解ください。
そして、これからもどうぞよろしくお願いします。気長に気楽に。
posted by えほんうるふ at 08:27 | Comment(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月26日

心躍る見開きドールハウス

エメラルドのさがしもの エメラルドのさがしもの
そのだ えり 作

文溪堂 2018年4月

出版社詳細ページ


久しぶりにIKEAに行ってきた。
娘が誕生日プレゼントに椅子が欲しいと言うので、しからばとにかく実際に座って選んでもらわねばと思い、都内唯一のIKEA店舗がある立川まで子ども達と繰り出して、「大塚家具・ニトリ・IKEAの椅子に片っ端から座ってみようツアー」を敢行してきたのだ。

IKEAと言えば、十数年前に船橋にイケア・ジャパンの一号店が出来た頃にはそれこそ毎週末のように行っていた。(ちなみに当時はカルフールというフランス版コストコのような外資系スーパーも同じ船橋にあって、車で買い出しに行く度にはしごをしていたものだった。懐かしい。)
その後引っ越して自家用車も手放してしまってからはすっかり縁遠くなってしまい、ごくたまに友人とのオフ会を兼ねて個人的に遊びに行くぐらいで、家族で店舗に出向くのは実に10年以上ぶりだった。

果たして、幼い頃に何度も行ったはずのIKEAのことを、我が家の子ども達はほとんど何も覚えておらず、初来店だと思ってやたらとはしゃいでいた。そして、IKEAならではの北欧の世界観と共にがっつり作り込んだ「ショールーム展示」に心を奪われ、目をキラキラさせて感動していた。特に、一人暮らしに憧れる年頃の息子にとっては、下手なテーマパークよりもよほど楽しかったらしく、閉店ギリギリまで居座って隅々まで観察していた。

私は私で、そんな彼らを見ながら別の感慨にふけっていた。
昔IKEAに良く行った頃は、乳幼児だった子ども達が成長し、だんだんと勉強机等の子供家具を検討する必要が出てきた時期だったのだ。その彼らが今や、とっくに親の身長を追い越し、この先の未来と親から独立した生活を思い描くようになっているなんて・・・。
可愛らしいデザインのベビーベッドやぬいぐるみや玩具がディスプレイされた素敵な子供部屋のモデルルームを眺めつつ、ああ、子どもの成長って本当にあっという間なんだなぁと、柄にもなくちょっと遠い目になってしまった。


おっと、またしても絵本の話からズレたまま長くなってしまった。
そんな久々のIKEA体験中に思い出した一冊が、今日の絵本である。

「エメラルドのさがしもの」は、私がこちらで取り上げるには珍しく出版から日が浅い新しい絵本である。
そのだえりさん作のこの絵本は、おしゃまで可愛いリスの女の子エメラルドを主人公とするシリーズの二作目。シリーズものの絵本なのに何故いきなり二作目を取りあげるのかというと、たまたまその原画を拝見する機会があり、とても印象に残っていたからだ。

先月の大人絵本会でお題にしたゴフスタイン。その追悼展示を見に訪れた神保町のブックハウスカフェで、たまたま同時に開催されていたのがこの「エメラルドのさがしもの」の原画展だった。
不勉強ながらそれまでにそのださんの著作を知らなかった私は、何の気もなくこぢんまりとした展示室に入って原画を眺めていたが、ある一枚の絵の前で足が止まってしまった。
それは、エメラルドの新しい友だち、くるみちゃんのお家の断面図を、ドールハウスのように見開きいっぱいに描いた絵だった。おもわず、

「わあ!くるみちゃんの おうち すてきね!」

というエメラルドのセリフをまんま呟いてしまうほど、本当に素敵なお部屋が描かれていた。
このデジャヴ感・・・これはもしや、幼き日にこえだちゃんの木のおうちを初めて覗いた時のあのワクワク感と同じ!? いや、それどころか、まさにIKEAのモデルルームのように、絶妙な生活感を演出しつつも無駄なものが何もないその家はとにかくお洒落なのだった。しかもよく見ると部屋の隅に我が家にあるのと全く同じ絵本棚が置いてあったり、ソファコーナーにはポールセンのPHランプがぶら下がっていたり、二階のラブソファのある一角の飾り棚には、ウェグナーのYチェアなど名作椅子のミニチュアと思しきものが並んでいたりと、ただならぬインテリアへのこだわりが随所に感じられる。私にとってはもう、ただ眺めているだけで幸せになれる原画だった。

こんな絵が描ける作者さんはいったいどんな人だろう?と思い、奥付の作者紹介文を読んでなるほど納得。作者のそのださんはもともと住居建築を学び、美術学校のグラフィックデザイン科を出ている方だった。
そうか、道理で・・と嬉しくなって、展示されていた他の原画を改めて見てみると、実際、そのださんの絵はインテリアだけでなく住宅そのものの描き方が建築パースなみに美しいのだった。うっとり。

と、ここまでお話の内容よりも絵のことばかり夢中になって語ってしまったが、もちろん、この絵本の魅力は絵ばかりではない。
お話は、幼い子供が自分なりに出来ることを発見して生き生きと生活する様子や新しい友達との出会いが中心となっていて、とてもわかり易く微笑ましい。

が、それより私が個人的にとても興味深いと思ったのは、エメラルドと一緒に暮らしているうさぎのガーネットの関係だ。
年齢的にはどうやらいい大人で手に職を持ち生活力もある自立した男性らしきガーネット。対して、見た目よりはしっかりしているものの言動に幼さが露見するエメラルドは、まだまだ保護者の必要な幼女世代と思われる。さてこの二人、いったいどういう関係なのだろうか?
最初にこの二人が並んだ絵面を見た時にパッと連想したのはバンサンの「くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ」だった。だが、かの作品の主人公二人がはっきりと世間からのハズレ者であるが故にお互いを支え合う関係だったのに対し、こちらの二人には何ら後ろ暗い様子がない。
前作の「ちいさなリスのエメラルド」でも二人の関係性についてのはっきりした説明はなく、謎は深まるばかりだが、だからこそ深読みと妄想のし甲斐があるとも言えよう。つまりまさに大人絵本会向き(笑)。


ところで、親子で足を棒にした「大塚家具・ニトリ・IKEAの椅子に片っ端から座ってみようツアーin立川」はとても楽しかった。一応その結果を記しておこう。

最初に辿り着いたのはニトリのデスクチェアコーナー。なかなかの品揃えにテンション高く次々と座りまくっていたが、決め手なし。確かにお値段以上♪と思える座り心地の椅子もあるにはあったが、まあ最初なので判断のたたき台程度に考え、次の大塚家具へと向かった。
IDC大塚家具のワークチェアコーナーには、アーロンチェアを始めとする錚々たるブランドチェアはズラリと並んでいた。当然ながらニトリ商品の値札よりゼロが一桁、下手すると二桁多い。これまた片っ端から座っていたが、機能ゴリゴリのゴツいデザインが意外にも娘には不評だった。なにせお値段がお値段なので内心ホッとしつつさらに駅から一番遠いIKEAへ。
ショールーム見物を楽しみつつホームオフィスコーナーへ辿り着いてみると、一見品数は多いものの意外にもチェアの選択肢は三店舗中一番少なかった。でもそれが幸いしたか、女子にしては割と決断の早い娘はいくつか座ってみて即、「これ!」と迷いなく決定。
晴れて誕生日に贈られたその椅子に座って、今日も彼女はいたくご機嫌である。めでたしめでたし。

posted by えほんうるふ at 21:49 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

会ったこともないあなたのために

ゴールディーのお人形 ゴールディーのお人形
M.B. ゴフスタイン M.B. Goffstein

現代企画室 2013-11-11

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

私が小学生だったころ、フェルトでマスコットを作るのが流行った。その頃から、手芸のような手仕事は嫌いではなかった。
多分そこそこ手先は器用な方なのだろう、思い立つと何でも独学であれこれ作ってきた。私の先生はいつだって図書館だった。該当分野の初心者向け資料を手当たり次第借りてきては、一番自分のイメージに近い作風の作者と、一番自分にとって分かりやすい説明と図解の出ているテキストを探し、熟読した。そうやって手編みのセーターも何枚も編んだし、色々な種類の刺繍で小物も作ったし、草木染めやらペーパークラフトやらに手を出したこともあった。
多趣味と言えば聞こえはいいが、なにしろ自分は好奇心は人一倍旺盛なものの根気が無さすぎて、どれもこれも極めるには至らないままふっと熱が冷めるとそれっきりになるパターンばかりで、とてもじゃないが趣味の一つとして公言はできずにいる。

ただ、今も時々、思い出したようにニードルフェルトで何かを作ることがある。
羊毛の塊を専用の針で突いて形作る、このお手軽な手芸だけは、そこそこ材料も常備するようになり、一応数ヶ月に一度ぐらいは道具を手にして何らかの形ある「作品」を完成させてきたので、これだけは自分の中でも「コンスタントに続けている趣味」として認識している。

この羊毛フェルト細工なるものは、針でチクチクと突つくだけで思い通りに形が整っていくのがなんとも面白く、やり始めるとまさに寝食を忘れる勢いで没頭してしまう。(・・のが分かっているのでなかなか手が出せない。)そして制作に取り掛かるといつも、こんな風に思い通りに自分の顔やスタイルも簡単に整えられたらいいのになぁ、などと夢想してしまう。それぐらい自由な造形ができる。

自分はどうやら絵を描くよりは3次元の造形の方が向いているらしく、こうして出来上がったものが案外人に褒めてもらえるので、調子に乗ってプレゼントにしたりしてきた。
最初に贈る相手を思い描き、その人の好きそうなものを考え、一からそれを作り上げて形にするのはとてもやりがいのある作業で、モノづくりの醍醐味だと思う。
でもきっと、生まれながらのクリエイターならば、相手を思い描く以前に自分の中の創造力に突き動かされて否が応でも身体が勝手に作品制作に向かうのだろう。
私はとてもその域には達せそうにないが、少なくとも、羊毛フェルトであれこれ作るうちに、単なる素材から自らの手で形あるものを作り上げる面白さと、それを人に喜んでもらえる嬉しさはおぼろげながら感じられるようになった。


以前、そんな風に気まぐれに作る作品がたまたま完成した時に出会い、ぽおーっと心があたたまる感銘を受けたのが今日の絵本、ゴフスタインの「ゴールディーのお人形」である。

主人公ゴールディーは木彫りの人形を手作りする人形作家である。たった一人で全てを手作りするその仕事ぶりはひたすら丁寧で地道な作業の積み重ねで、全く効率はよろしくない。それどころか材料となる木さえ、木片として製材されたものでなく、伐採したままの原木から作ることにこだわる。そんな風にあくまでも自分のやり方を貫く彼女のモノづくりの姿勢がとても素敵だ。

そんなゴールディがある日、一目惚れした美しく高価なランプを衝動買いしてしまう。
その抗いがたい気持ちは何となくわかる。出会うべくして出会ってしまったのだから、仕方ない。
しかし、堅実な彼女は自分でも思いがけない突然の散財に戸惑う。そして家へ持ち帰る道すがら、その価値に共感できない友達からの何気ない一言を受けて、彼女の後悔の気持ちは決定的になり、すっかり憂鬱な気持ちになってしまうのだ。いったいどうして自分はこんな分不相応なものを買ってしまったのだろう・・・。

 ゴールディーは自分が、中身がなくて空っぽで、うつろな、つまらない人間のような気がしました。そして憂鬱な気持ちがひどくなって、気持ちは粉々になって、そのまま、ドアのそばに座り込んでしまいました。
 しばらくそこにいましたが、気がつくと、自分の声が「寂しいの」と言っているのが聞こえました。
「本当に寂しい、」彼女はそう言いました。
 それから疲れて泣きはじめ、そのままドアのそばで眠ってしまいました。


このくだりは読むたびに胸が締め付けられる。
ゴールディーのように、純粋に創作者として生きる人の多くは、自分の中にこんな孤独を抱えているのではないだろうか。
彼女は売れっ子の人形作家だ。だが、たとえどれだけ多くの人がその作品を認め褒め称えてくれたとしても、作家本人が創作者としての自分の価値に迷いがある限り、常に心は闇と隣り合わせだ。
自らが作り出すものの価値を信じ、それを支えに生きていくことはなんと厳しいことだろうかと思う。

それでも、この絵本にはちゃんと救いがある。
ゴールディーは、ランプに込められた作者の想いを受け取り、同じく創作に生きるものとして共鳴することで、改めて自分の道に光を見出すのだ。足元を照らす灯りを得た彼女は、とても幸せそうだ。


私の羊毛細工は完全な独学のド素人作品だ。プロが見たらなんじゃこりゃと思う出来だろう。
それでも、私は私の作品が好きだ。笑われようが、それが全てだ。
いつか、会ったこともない誰かのために、心をこめて作品を作ろうと思う。どこかの誰かが、きっと気に入ってくれると信じて、一生懸命作ろう。
それが見知らぬ誰かの手に渡り本当に喜んでもらえた時、私はゴールディーの至福に一歩近づけるだろう。

posted by えほんうるふ at 07:24 | Comment(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

別れても好きな人

マルラゲットとオオカミ (児童書)マルラゲットとオオカミ (児童書)
マリー・コルモン ゲルダ ・ミューラー

徳間書店 2018-02-20

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

毎月、大人絵本会のお題絵本に関するレビュー(のような日記のようなもの)を開催日直前にアップすることだけがこのブログの更新サイクルになって久しい。
絵本は変わらず大好きなのだが、絵本について語ることに疲れているような気もする。
良い絵本悪い絵本談義が昔から苦手で、常に絵本に対しては単純に好き嫌いのみで語ろうとしてきた自分だが、このところそんな私でもさすがに悪書として唾棄したくなるような作品が大手出版社から平然と出版され、感性豊かな幼い子どもたちの元へと届けられる現状にうんざりしている。
絵本の世界に限った話ではないが、ある作品が世に残るかどうか、それを求める人々にきちんと届くかどうかが、内容如何よりマーケティングに左右される現実を思い知らされるたび、律儀に傷つく自分がいる。

実は今回の絵本も、似たようなテーマを扱った別のベストセラー絵本シリーズの影でひっそりと出版されていたものの(そして内容的にはこちらの絵本の方がはるかに素晴らしいと私は推しまくっていたものの)、そのささやかで美しい佇まいのままひっそりと絶版となり、またしても知る人ぞ知る名作として自宅の書棚に安置されていたものだ。
絵本好きの仲間が居て嬉しいのは、そんな私のささやかな推しを覚えていてくれる人がいて、新刊絵本の出版情報に疎い私に、こういった名作の復刊ニュースをいち早く知らせてくれるのだ。
とてもありがたい。持つべきものは価値観を共有できる推し友である。

そんな復刊喜ばしい本日の絵本「マルラゲットとオオカミ」は、実は過去ログで既に一度採り上げている。
ただしその際は、マルラゲットのことを語る以前に私の嫌いなとある絵本シリーズをdisるのに忙しく、マルラゲットはほとんどおまけのような扱いであった。
それでは気が済まないので今回改めてマルラゲット絶賛レビューを書く所存である。


絵本の世界では、現実の自然界での食物連鎖はしばしば無視される。動物たちは肉食動物も草食動物も関係なく一緒くたに仲良しこよしで何食わぬ顔で日常生活を送っていたりする。
私はそれはそれで全然構わないと思う。ファンタジーなのだから、なんでもありだ。
もちろん、敢えてその弱肉強食の絶対法則をベースに双方の攻防を物語にした名作も古今東西にたくさんある。三びきのこぶた然り、おおかみと七ひきの子やぎ然り、ぶたのたね然り、おまえうまそうだな然り、どうぶつさいばん然り・・・ああ、キリがない。

相容れぬ関係だからこそのドラマをいかに描くかというのは永遠のテーマで、とても面白い。
これは想定されるメイン読者である子どもたちへの教育的観点というより単純に私の拘りだが、敢えてその「自然界の大原則」に則って物語を作る場合、その落とし所には作者の本質的なセンスや価値観がモロに反映されるように思えてたいへん興味深い。
つまり、自分にとっての良書・贔屓作家を見つけるのに、かなり信頼できる指標になるのだ。

「マルラゲットとオオカミ」は、その点で私にとってはアカデミー賞ものの傑作である。
別にリアリティを追求しているわけでもなく、充分絵本らしいファンタジーである。
絵自体はものすごく上手なわけではないが、色使いと構図がとてもいい。
私は絵本に登場する狼の作画にはかなりうるさい方だがこの絵本はその点ももちろん合格。とても素敵なオオカミだ。
そしてこの絵本の何よりも素晴らしいところは、子どもにも理解できる無理のない話の流れで、無邪気な親愛の情がやがて愛ゆえのエゴになり、それが破綻した時に子ども自らが「愛するがゆえの別れ」を選ぶまでの大きな心の成長の過程を描いているところだ。
エンディングの余韻がまたなんとも良いのだ。胸が締め付けられるが、そこにはあたたかさもある。
読むたびに、地味だけれどすごく素敵な映画を観たような満足感に満たされ、ああ絵本っていいなぁとしみじみ思える。ベタ褒め(笑)。


ところで、前述の過去ログでケチョンケチョンに切り捨てた件の感動ベストセラー絵本シリーズだが、私はやはり未だに好きになれない。
ネットを検索しても悪評価の方が探すのが難しいぐらい相変わらず絶賛されまくっているし、私が信頼する絵本好きの友人たちもほぼ皆さん一定以上の評価をしているのだから、きっと間違いなく価値ある作品なのだろう。
でも、私は嫌いだ。どれだけマジョリティに絶賛されていようが、私は私の世界の中心でこれを叫ぶ。

ちなみに件の作家氏は別の著書内で「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」と豪語しているが、確かに徹底したマーケティングによる「売れる作品づくり」の大成功例として、これほどの好例はないのかも知れない。
そういえば、同じように一攫千金を狙って自己流の読者マーケティングに基づいた絵本もどきを作り、マスコミで話題になって一時は持て囃されたものの、あっという間に馬脚を現した某自称「世界一の絵本作家」がいる。読者ではなく消費者向けに特化した作品作りをすれば、どれほど稚拙でお粗末なクオリティでも売り方次第では売れてしまう、というこれまた残念な好例である。

だが、売らんかなで作られた絵本、子ども向けを装って実際はそれを買う大人向けに媚びまくった絵本。作り手というより売り手の計算が紙面から読み取れてしまう時点で私にとってそれらは一様に唾棄すべき濫造商品でしかない。
出版社も書店も営利企業である以上、売れてなんぼであることは仕方がない。それでも、仮にもこの国の文化形成を担う産業の一端として、せめて子ども向けの絵本や児童書を扱う部署にはそれなりの矜持を持って仕事をしてほしいと願わずにはいられない。
posted by えほんうるふ at 09:41 | Comment(0) | 日々のつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月25日

愛しの「ばっかなクマのやつ!」

プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))プーのはちみつとり (クマのプーさんえほん (1))
A.A.ミルン E.H.シェパード 石井桃子

岩波書店 1982-06-18

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

私は一応自他ともに認める絵本好きだが、個人的に所有している絵本の数は決して多くはない。
数えたことはないが、せいぜい200冊ぐらいじゃなかろうか。
普段SNSで交流している友人たちの中には自宅で子ども向けの文庫を開いている人もいるし、出版や書籍流通業界の人や読み聞かせ活動をする人なども多く、皆さん私よりも相当多くの蔵書をお持ちのようだ。
私も、もし自分が大金持ちで、自宅に自分専用の広い書斎を持つ余裕があったならば、こっそり「オトナノトモ文庫」とでも名付けてこのブログで採り上げてきたタイトルを筆頭に私ならではの偏った趣味全開の絵本で本棚を埋め尽くして悦に入りたい・・・という気持ちがないこともない。
が、住宅事情的に全く現実的ではないし、近所に図書館も複数あるので野望は野望のまま息を潜めている。   

ところでその数少ない我が家の所蔵絵本のうち、刊行年が一番古いのがこの「絵本クマのプーさん」なのである。
fullsizeoutput_6283.jpeg
残念ながら初版本ではないが、1970年発行の第二版で、辛うじて私自身より年代物だ。
これが初めて親に買ってもらった大切な一冊・・・であれば自慢の一冊にもなろうが、残念ながら親に買い与えられたものではなく、10年ほど前にとあるご縁で自力で入手したものだ。

もちろん、これはこれでとても思い入れがある大切な絵本であるが、今日とりあげるのはこの元祖「クマのプーさん」ではなく、その後岩波でより親しみやすいエピソードを抜き取って分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズの第一巻、「プーのはちみつとり」である。

そもそも私が「クマのプーさん」に出会ったのは中学生の頃だった。
ちょうど東京ディズニーランドが開業した頃で、おそらく私も多くの人たちと同様に、ミルンの原作をちゃんと読むより先にディズニーによってキャラクター化されたプーさんを目にしていたんだと思う。
学校の図書室の本棚で見つけたその原作絵本は、拍子抜けするほどそっけない背表紙だった。
でも、訳者の石井桃子さんによる美しい日本語とE.H.シェパードの繊細な画風で表される原作の世界観は、ディズニーが提供するきらびやかな夢と魔法の国よりも、私にはずっと魅力的に映った。
あの目にも鮮やかな赤いTシャツで愛嬌を振りまくる売れっ子のクマと比べて、原作のプーはなんとも地味でさりげなくて、それでいて佇まいに気品があったのだ。

何より私は、作中で小さな登場人物たちが交わす会話の、もどかしいようなくすぐったいような、妙に遠慮がちでやたらと礼儀正しい独特の言い回しにじわじわと心を奪われた。
それは、私の現実の日常で交わされる会話文とはあまりにかけ離れた世界だったからかも知れない。
自分の生まれ育った世界とは確実に異なるおハイソな文化の気配を興味深く覗き込むことが出来るようになるには、ある程度の精神年齢が必要だったはずだから、私の場合はこの「絵本」に出会うにはこれぐらいの年代が適齢期だったのだろう。
それでなくとも、「絵本クマのプーさん」は、絵本と言っても多めの挿絵を伴った児童書レベルの文章量があり、内容も大人に絵本を読み聞かせてもらう年代の子どもがすんなり理解できるとは思えない複雑な表現や文章構成が含まれている。
何しろしょっぱなからイーヨーのエピソードである。イーヨーは自虐的なほど慎み深い人物(ロバ)で、かなり屈折した物言いをする。一言でいうと大人にも誤解されやすい偏屈者だ。そのイーヨーとクリストファーロビンの禅問答のようなやりとりは今読んでも何ともいえない味わいがあるが、とても幼い子供にこの面白さが理解できるとは思えない。岩波書店がこの作品を子ども向けの絵本として日本に紹介するにあたり、何故いきなり彼を引っ張り出すことにしたのか、今もって謎である。

では改めて小さい人たちにも分かりやすく・・ということだったのか、その後、同じ岩波書店からより絵本らしいコンパクトな版型で一話読み切りの体裁で分冊化された「クマのプーさんえほん」シリーズが出版された。
というわけで(ようやく)今日の絵本、同シリーズ一作目の「プーのはちみつとり」である。

この絵本の素晴らしいところは、コンパクトながらも、前述の「絵本クマのプーさん」ではさっくりと省かれていた一連の作品世界への導入となる前書きと締めくくりの後書きがちゃんと含まれた構成になっているところだ。
この導入部により、読者は語り手の「わたし」が作中の少年「クリストファー・ロビン」の父親であり、おはなしの主人公のプーとはクリストファー・ロビンが大事にしている(割に扱いは雑な)クマのぬいぐるみの名前で、大好きなプーにお話を聞かせてやってと幼い息子にせがまれた父親によるぬいぐるみを主人公にしたストーリーテリングが始まり、お話が終わって安心したように部屋へ引き上げる息子の様子を描写しておわり、という全体の構成が分かるようになっているのだ。

そして何より、本題の「はちみつとり」の話がもう、なんともかとも反則レベルに愛らしいのだ。
だいたい、プーとクリストファーロビンが、まるきり緊迫感のない「ちいさい黒雲コスプレdeはちみつゲットだぜ大作戦」を大真面目に語り合うところから、読んでるこっちは嬉しくてにやにやしてしまう。
何しろ幼児とぬいぐるみが考えることだから、ひたすらシュールで要領を得ないのだ。
これは実際、幼い子供の相手をしているときの極上のお楽しみなのである。
唖然とするほど無邪気で無茶な思いつきを、ものすごく真剣な目で語ってくるのがたまらない。
そして言ってる本人たちも全然自信はないまま、子どもならではの思慮浅さで突っ走る。
案の定の大ピンチに陥っても、なんだか全然緊迫感のないままほのぼのと物語は進んでいく。
何があっても大丈夫。だってこれはおとうさんがプーのために作った「おはなし」だもの、という二重の安心感に守られ、クリストファーロビンは今夜も大満足で眠りにつくのだ。

最後に少し話が前後するが、私がこの絵本の中で一番好きなシーンを紹介しておこう。
プーが木登りに失敗して落っこちたハリエニシダの茂みから這い出して来た時のシーン。

そのとき、プーの頭に、まず浮んだのは、だれだったかというと、それは、クリストファー・ロビンでありました。
(「それ、ぼく?」クリストファー・ロビンは、とてもほんととおもえないように、おそるおそるききました。
「きみさ。」
クリストファー・ロビンは、なんにもいいませんでした。でも、クリストファー・ロビンの目は、だんだん、だんだん、大きくなり、顔もだんだん、だんだん、赤くなっていきました。)


痛い目にあったプーが、真っ先に頭に思い浮かべたのは大好きなともだちのことだった。
まさかそれが自分だなんて。突然の告白にびっくりする少年。
でも、ただそれだけのことが、うれしくてたまらないのだ。
だって自分もそれほどプーのことが大好きなんだもんね。

唐突に溢れる愛に、読んでるこっちもたまらない。
オバハン、うっかり久々に読み返してキュン死である。
実際、幼い子どもは時にこんなふうに手放しの愛情を惜しみなくぶつけてくるのだ。
つい、在りし日のわが子を思い出して遠い目になってしまった。ふう。

posted by えほんうるふ at 18:09 | Comment(0) | キャラクターに惚れる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする