2020年01月01日

大人絵本会最新情報

次回の開催が決定しました!


第94回大人絵本会

日時:7月27日(木)午後10時より約2時間

お題:「アンドルーのひみつきち」

ドリス・バーン作



アンドルーのひみつきちアンドルーのひみつきち
ドリス・バーン

岩波書店 2015-07-08

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大人絵本会は、「絵本を肴に呑むオンライン居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会です。
開催は不定期ですがほぼ1ヶ月に1回のペースで、夜10時から午前0時の間、
お題となった絵本についてTwitterで好き勝手に呟きまくるという、
非常にお気楽なコミュニティです。
どなた様もお気軽にご参加下さい。

参加方法は、お題の絵本について当会のタグ #大人絵本会 をつけて自由に呟くだけです。
途中参加・一言参加・休憩などお気軽に♪ 参入・離脱の挨拶は不要です。
後ほど参加者のつぶやきを編集してtogetterで公開しますので、
途中から参加された方も遠慮無く話題をぶった切って語って下さい。


※ 過去の大人絵本会のtogetterまとめのリンクリストはこちら♪
posted by えほんうるふ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大人絵本会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

愛しきはみ出し者たちの城

アンドルーのひみつきちアンドルーのひみつきち
ドリス・バーン

岩波書店 2015-07-08

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秘密基地。
嗚呼、なんと甘美な響きのする言葉だろうか。
別にそこに引きこもって悪巧みをしたいわけではないが、とにかく人知れず安心して過ごせる自分だけの場所が欲しい。
それは老若男女に関わらず、ある程度自立心を持った人間ならば誰でも持っている感情ではないかと思う。

以前このブログで佐藤さとる氏の「おおきなきがほしい」を採り上げた時にも書いたが、私も幼いころ友達と一緒に秘密基地を作ったことがあった。
作ったと言ってもせいぜい築山に石を運び込んで竈に見立てたり、自然に生えている蔦を引っ張って間取りの境界にしたり、茂みを手で押し広げてくぼみを小部屋と称したりという、理想の巣作りのへの創意と工夫の殆どが想像力で補完されるような他愛のないものだったが、それでも、そういう「場」が実際にあるというだけで、さらに幼い頃のおままごととは一線を画した充実感を感じていたのも事実だ。

今日の絵本、「アンドルーのひみつきち」の主人公アンドルーは、次々と訪れるワガママな施主たちのオーダー通りに、バラエティに富んだ秘密基地をたった一人で、限られた材料と工具で、しかも一日三棟という驚異のスピードで作り上げてしまうミラクルな匠である。
しかも、それぞれの秘密基地は小規模ながらかなりの建築技術を要しそうな難易度の高い建物で、施主である個性豊かな子ども達の夢をきっちり実現した心憎い意匠となっている。もし私が初めて秘密基地に憧れる年頃にこの絵本に出会っていたら、間違いなく夢中になってしまっただろう。

しかしながら、全く建築工程を見せること無く一瞬で施工完了する見事な秘密基地の数々を見ていると、絵本だからってファンタジーにも程があるよな・・・と若干鼻白んでしまうのは、私の心が汚れているからだろうか。

いやいや、そうではないと思いたい。
思うに、人が秘密基地を切望する気持ちには、それに先立つ「誰にも邪魔されず思い切り○○をしたい!」というオタク的な行動欲求と「城を持つことで自分のIDを人知れず主張したい!」という隠しきれない承認欲求とが、少なからずあるはずなんである。ただ単に今いる場所から逃れたい、という逃避願望だけならば、秘密といいつつ実はみんなに見せびらかしたい基地なんてものをわざわざこしらえずに、もっと目立たぬありふれた場所にこっそり潜伏すればいいのだから。

であればこそ、である。
こんな安直な「アンドルー!ぼくも秘密基地がほしいよぉ!」「はい、できました!」
なんてドラえもん的な超速展開ではなく、依頼者それぞれの秘密基地への思い入れだのコダワリだのをいかに限られた資源で実現するかという、それこそ施主と匠との丁々発止のやりとりの過程があってしかるべきではなかろうか。
いや、この絵本の主題はそこじゃない!子どもにとって絵本とは無邪気な冒険心とささやかな自立心とをすんなり盛り上げてくれるワクワクするようなファンタジーであることが重要であってだな・・・などと仰る向きもいらっしゃるかも知れない。
それはそうかもしれないが、そこに敢えてツッコミを入れてこそのオトナノトモである。
私は個々の子どもの夢の実現の過程が観たいのだ、過程が!
憧れが魔法のように一瞬で叶ってしまっては味気ないし、ありがたみも半減である。
素敵な絵本ではあるけれど、その辺りの描写がそっくり省かれてしまっているのが何とも片手落ちというか、私にとっては歯がゆい作品でもある。


ところで、この絵本が個人的にタイムリーだった理由がもうひとつ。
高校生になった息子が学校で進路指導の話を聞いてくるようになり、いつの間にか建築関係の仕事への興味を口にするようになった。
今までは趣味の釣りの延長で水産や海洋研究等の仕事に興味を示していたので、親も何となくそんな系統の進路を想像していただけに、その方針転換はかなり意外で家族の皆がびっくりしたものだ。
実際に彼がこの先どんな仕事に就くことになるのかはまだ見当もつかないが、思えば確かに彼は幼い頃からモノづくり系の遊びに夢中になってきた。その傾向は今も変わらず、学校でも美術や技術の授業で出された制作課題に取り組む時は驚くほどの集中力で何やら凝ったものを作り上げている。親としてはその情熱の一部でも主要科目の勉強にも向けてくれれば・・・と思わないこともなかったが、これはこれで好き勝手に伸びるに任せていれば案外面白い方向へ成長していくのかもしれない。
そして、そんな凝り性の息子がもし本当に将来誰かの秘密基地建築を仕事として手がけることがあれば、きっとアンドルーに負けない面白い仕事ぶりを見せてくれるんではなかろうか・・・?
たかが一冊の絵本を読んでここまで幸せな妄想ができるのだから、私も大概おめでたい親である。

posted by えほんうるふ at 07:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | オトナが地団駄を踏む絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月28日

おたのしみはこれからだ

いまがたのしいもんいまがたのしいもん
シャーロット・ゾロトウ文  エリック・ブレグヴァド絵

童話屋 1991-07

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子どもはいいな、好きなことができて。
子どもはいいな、遊んでばっかりで。
子どもはいいな、堂々と恥がかけて。
子どもはいいな、誰かに甘えられて。
子どもはいいな、泣きたい時に泣けて。
子どもはいいな・・・

大人が子どもを羨む理由はいくらでも思いつく。
しかし、私は彼らを羨ましいとは全く思わない。
無邪気に遊ぶ子どもたちを見れば微笑ましいとは思うものの、不思議と自分もあんな子どもの頃に戻りたいなどとは、金輪際思わないのだ。

自分自身の幼少時代がものすごく不幸だったからか?
いやいや、決して裕福な家庭環境ではなかったが、かと言って衣食住に困っていたわけでも虐待されていたわけでもなく、私の子ども時代は悲惨だった!と胸を張れるほどのドラマも身に覚えがない。

覚えがあるとすれば、幼いころの私は恐らく、大人が羨ましく思うほど無邪気な子どもではなかったのだ。
性格もあるだろうし、生まれ育った環境のせいもあるだろう。とにかく私は可愛げのないマセた子どもだった。

むしろ大人になるにつれて、ようやく自由に自分を表現できるようになった私にとって、今日の絵本「いまがたのしいもん」は大人であることの幸せを再確認するような、なんだかうれしい絵本なのだ。

絵本の中で主人公の少女は、いかに子どもの自分が自由で、大人が不自由な存在かということを、あれやこれやと例をあげて得意げに母親に語っていく。

でも実際は、幼い彼女が語る「子どもの特権」はどれも全て、大人になっても自分の意志で楽しめることばかりなのだ。
大人であることは、実は子どもが思っているほど不自由で窮屈なものではない。むしろ子どもよりもずっと自由で楽しくて広い世界が待っている。

確かに、大人になるほど自分の中の「オトナ像」に縛られて、笑われるのが怖くなり、どんどん心が不自由になる人もいるだろう。
なんて残念なことだろうと思う。せっかく自分で自分の言動の責任をとれるぐらい大きくなったのに、自らを分別の鎖で縛るとは。

ちなみに私の場合、冒頭に書いた、子どもはいいな・・・と世間一般に思われる理由のあれこれもみな、大人になってから、それも最近になってようやく出来るようになったことばかりだ。
いわば大人になってようやく、少しずつ心が自由になって、コドモになる楽しみを覚えたとでも言おうか。

だから私は、作中後半「おとなだって たのしいもん!」と母親が少女に反撃するシーンではいつも、「そうだそうだ!大人こそ今が楽しいもん!子どもの頃なんかより、ずっとずっと今が楽しいもーん!」と、おとなげなく叫びたくなってしまうのだ。
オトナ、万歳!!


posted by えほんうるふ at 07:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 嬉しくなる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

もしも願いが叶うなら

ロバのシルベスターとまほうの小石 (児童図書館・絵本の部屋)ロバのシルベスターとまほうの小石
(児童図書館・絵本の部屋)

ウィリアム スタイグ William Steig

評論社 2006-03

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小さい頃から、絵本や童話を読んでいて、突然心優しい魔法使いが現れて、
主人公がなんでも好きな願いを叶えてもらえるというシチュエーションを見かける度に、
「早まるな!まずはその特権を死ぬまで回数無制限に使えるようにお願いするんだ!」
と、幼心に意地汚く思っていたのは私だけだろうか。
今ならばさらに浅知恵が働いて、
「いや待てよ。そんな強欲なことを口に出したら、バチが当たってなけなしの1回すら権利抹消になるかもしれん!しからばここはひとつ、なるったけ謙虚に見せかけつつ、出来るだけ汎用性の高い願いをば・・・」
などど、グダグダ考えているうちに時間切れになるような気がする。

今日のお題絵本「ロバのシルベスターとまほうの小石」も、そんな願いごと叶ったりの絵本。
主人公のロバの男の子シルベスターは、小石を拾い集めるのが趣味。
ある日、たまたま見つけた奇妙な赤い小石に、触れただけで思いついた願いを何でも叶えてくれる不思議な力があるらしいと気が付いたシルベスター。ところが、ヒャッハー!と舞い上がったのも束の間、直後に絶体絶命のピンチに遭い、本能的に身を守ろうとした彼はこともあろうか「岩になりたい」などと思ってしまい、願いどおり物言わぬ岩に変身してしまうのだ。
もはや小石に触ることすらできない哀れなシルベスター。果たして彼は無事、元のロバの子に戻れるのか・・・?


それにしても私はこの絵本を読む度に、ああやはり神様はよい子をちゃんと見ているのだな、と思ったものだった。なにしろ幼く無邪気なシルベスターは、小石が希望を叶える力に気づくと、健気にまずこう考えるのだ。

「なんてうんがいいんだろう。これからは、のぞみがなんでもかなうぞ。
父さんや母さんはもとより、しんるいや、友だちにも、すきなことをさせてやろう!」


もう、言ってることが美しすぎて心の汚れた大人の自分が恥ずかしくなってくる。
自分の願いよりも先に他人の幸せを考えられる心やさしく無欲なシルベスター。
そんな彼だからこそ、魔法の小石が見つけられるのだろう。半世紀近くも生きてきたのに、一向に私がそんな稀有な小石と巡り会えそうにないのは至極当然というものだ。

それなのに、折角の僥倖をとっさの判断でみすみす無にしてしまう、あんまりな展開。
このシーンも読む度に私はもどかしさのあまりキーッ!!とハンカチを噛み締め引き裂いてしまいたいような気分になる。(ちなみにこれまでの人生で、悔しい時に本当にそんなリアクションをしている人を見たことはない。一度見てみたいものだ。)

でもこの残念展開、実は自分たちが気がついていないだけで、現実世界で誰にでも普遍的に起きていることなのかもしれない、とふと思う。
絵本で読めばこそ、この「やっちまった」展開のトホホっぷりは誰にも一目瞭然で、読者は一様に「キーッ!」となるわけだが、実際のところ、私やあなたが毎日無意識にやりすごしている、その場その場の状況に応じた意思決定も行動選択も、見る人が見れば、あるいは賢者や神から見れば、折角の千載一遇のチャンスをみすみす無駄にしているのかもしれない。
そのほとんどは本人が気付かないまま流れていってしまうのだろうが、たとえ十分チャンスを認識していてもなお、最善の選択ができないことだって多かろう。
つまり、誰もシルベスターを笑えない。
人は愚かで、残念な選択を繰り返す生き物なのだと思う。
そしてまた、自分の気が付かないところで天の采配に助けられたりしているのかも・・・。

なんて考えると、平凡な自分の毎日も案外面白くスリリングに思えてくるのでオススメである。

posted by えほんうるふ at 06:32 | Comment(1) | TrackBack(0) | 身につまされる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

笑える絵本と笑えない現実

もっとおおきな たいほうを (こどものとも絵本)もっとおおきな たいほうを (こどものとも絵本)
二見正直

福音館書店 2009-11-10

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自分では季節感ぐらいしか気にしていないつもりなのだが、月に一度の大人絵本会のお題作を発表する度に、「タイムリーですね」と言われることが多い。
今回の絵本も、最初に読んだ時から面白いなぁと気に入って、いつかは皆で語りたいと候補に入れておいたものなのだが、今回のお題に採り上げたことで、妙にタイムリーな選書になってしまった。
今回に限っては、嬉しくもない偶然なのだが・・・

主人公の王様は、代々持っている立派な大砲を打ちたくて仕方がない。
ついには隣国にいちゃもんをつけ、いきなり大砲をぶっ放すという大胆な威嚇行動に出てご満悦。
ところが敵にあらずと高をくくっていた相手国から思わぬ反撃を受け、あっという間に二国はより仰々しい兵器を作ってはこれ見よがしに国境に配置するという威嚇合戦に突入する。
もっと、もっともっと、もっともっともっと大きな大砲を・・・!
やがて大きさ勝負では埒が明かないと悟った王様は、作戦を変更。
もっと派手にとかもっと面白い形にとか、兵器としての性能からどんどんズレていく大砲。
もはやハリボテと化した双方の大砲がついに打たれたその時、何が起こったか?

とぼけた味の絵柄から緊張感はまるで伝わってこないが、一国の君主が躍起になって国威発揚にいれあげること、ましてそれを隣国と競って暴走していく様がテンポよく描かれている。
それがいかに滑稽でバカバカしいことか子どもでもよく分かる、面白くて興味深い絵本である。

ところで、私がこの絵本と出会ったのはこどものともとして配本された時ではなく、後にその傑作集として改めてハードカバー版が発行された2009年であった。
そしてそれは、奇しくもかの大国でオバマ政権が誕生した年である。
福音館書店のことだから、恐らくは周到にタイミングを見計らってのハードカバー化だったのだろうが、とにかく大国の新リーダーが全面に打ち出した対話路線の外交政策に世界中が注目し、平和への期待が高まっていた時だったと言えよう。
いくらこの絵本の主人公の言動が我が隣国の厄介な君主のそれに重なろうとも、対する相手国のリーダーは少なくともキツネよりは冷静で賢明で、その挑発にやすやすと乗るとは思えなかった。
だからこそ、私もこの絵本はファンタジーとして微笑ましく受け入れ、無邪気に笑っていられたのかも知れない。

ところが、あれから月日は流れ、今や現実の国際情勢がこの絵本をタイムリーだと悠長に笑っていられるほど安穏なものではなくなってしまった。
身勝手極まりない我が隣人の傍若無人な振る舞いはエスカレートする一方で、彼らの敵国たるかの大国のリーダーもまた、個人的には史上最悪とも思えるまさかの人物が担っている有様だ。
その二国に挟まれ、いつ何時有事に至るかと戦々恐々としている我々は、さしずめ小川に棲んでキツネに喰われるばかりだったピンクの魚であろうか。

軍事力を誇示し、兵器の強力さをやたらに吹聴したところで、地球という狭い土俵上で戦っている以上、土俵を壊せば自分の足元だって揺らぐことになる。
お互いそんなことは先刻承知の上での無意味な茶番を演じているのだと思いたいが、何しろ「王様」は常識の通じない相手である。日頃どれほど平穏な日常生活を享受できていても、刃物を所持したキ○ガイが隣に住んでいて引っ越しも出来ないという状況に変わりはなく、この平和がいつまで保たれるのかは誰にも分からない。

絵本の終盤、まぬけな二国が双方に打ち合った大砲はどちらも使い物にならなかった。
王様の大砲はポチャンと目の前の川に落ち、相手国には届かなかった。
果たして、ピンクの魚たちは無事だったろうか。
できそこないの大砲が怪しい生物兵器などでは無かったことを祈ろう。

posted by えほんうるふ at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 笑える絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

ブレない夢、その理想と現実

時計つくりのジョニー時計つくりのジョニー
エドワード・アーディゾーニ Edward Ardizzone

こぐま社 1998-07-01

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小さい頃から絵を描くのが大好きだった長女が、この春から美大に進学することになった。
習い事など何をやらせてもどことなく冷めていて長続きしなかった彼女だが、お絵かきだけは、それこそ暇さえあればという感じで、飽きもせず毎日何かを描いていたような気がする。
とにかく関心の有無の振り幅が激しいというか、自分が好きなことやこだわっていること以外は呆れるほどどうでもいい人なので、親としてはこの子は将来親元を離れてまともに生活できるのだろうかと若干不安に思ってきた。
逆に言えば、この子に興味の無いことをやらせるのは無理というか無駄、というのが最初から明白だったので、進路についても本人に任せていて、結果的にこれまでのところ、全くブレなく我が道を突き進んでいるというわけだ。


子どもの頃に好きだったことを、実際に将来の仕事に繋げられる確率は、どれぐらいのものだろうか。
好きだからといって得意とは限らない。まして想いだけで現実を乗り越えられるほど、世の中は甘くない。
そもそも人は成長と共に趣味趣向もどんどん変わるのが普通だから、幼い頃からただ好きで続けていたことを生業にする夢を叶える人など、せいぜい数パーセントに過ぎないだろう。

その数%の奇跡の人生をストレートに描いた絵本が今日ご紹介する一冊、
「時計つくりのジョニー」である。

主人公のジョニー少年は、ごく幼い頃からものづくりに特別な関心を持っていた。
両親はそんなジョニーの気持ちに寄り添ってはくれなかったが、意志ある少年ジョニーはへこたれない。
ある日、彼は愛読の「大時計のつくりかた」を読み返していて、ついに自分も行動に出ようと思い立つ。
小さなジョニーは自分の思いつきに喜んだが、両親も先生も、そんな彼の挑戦を頭から否定して相手にしてくれない。まして友達はバカにしていじめたり、彼の奮闘を邪魔するばかり。
それでも、傷ついて意気消沈するジョニーをを励ましてくれる人たちが現れ、彼らに支えられてジョニーは立派に大時計を完成させるのだった。
そして、彼の功績は周囲の評価を一変させ、物語ならではのハッピーエンドが待っている。


大好きなことがあって、それに基づく大きな夢を持つ子どもにとっては、なんとうれしく、大きな励ましになる絵本だろうか。
バカにされても笑われても、なかなか人に認めてもらえなくても、決してブレずにひとつのことを好きでいられること。ただ黙々と続けられること。
それが、それだけで立派な才能で、ものすごく幸せなことだということが、大人には分かる。
だから、大人にとってはただ嬉しいだけでなく、(特に「親」や「先生」にとっては耳が痛い部分も多々あり、)ちょっと眩しいような、切ないような気にもさせられる名作だ。


節目の季節である春が来る度に、つい我が子の進路のことを考えてこの手の絵本を選んでしまう。
丁度3年前の3月にも、息子の中学進学を機に、やはり一つだけ好きで好きでたまらないことがある彼の将来の予想について、とある絵本の紹介と共にこんな記事にしたものだった。
面白いことに、あれから息子は部活のバスケに夢中になり、その忙しさにかまけてあんなに好きだった釣りは年に数回行くのがやっと、という状態になった。
そして3年の月日が経った今、彼は私があの頃全く想像もしていなかった進路を模索している。
それは「釣り」「バスケ」という彼の2大関心事のどちらとも関係のない分野だったので、本人の口からそれを聞いた時は家族の誰もが驚いたものだった。

好きなことだからこそ、仕事にしないほうがいい、という考え方もある。
どんなに大好きなことでも、仕事としてやるのと趣味として楽しむのは全く違う。
どんなに大好きでも、それで食べていくには人並み以上の才能と運と覚悟が必要で、その厳しさを予測して最初から諦める人も、途中で思い知って挫折する人も多いだろう。
大好きだったはずのことが、気がつけば義務になり責任になり意地になり、そこに楽しみを見いだせなくなる場合もあるだろう。
ジョニー少年のように、好きなことを極めて周りの援助を得てトントン拍子に独立、だなんて、まさに絵本の中でしかあり得ない都合の良い展開で、だからこそ夢があるのだ。

少年よ大志を抱けと大人は勝手なことを言うけれど、どんな子も、いずれは自分の中の理想と現実に向き合って、自分なりの折り合いをつける日が来る。
息子も、自分の好きなことと将来の仕事を切り離して考えられるだけ、少し大人になったのかも知れない。

さて、娘の方は幸か不幸か、好きなこと一直線のままここまで来て、少なくともあと4年はその道まっしぐらがほぼ確定したところである。
彼女がこれから数年間の大学生活の中で、どんな風にその「好き」を消化し、自分なりの答えを見つけていくのか、とても楽しみだ。


posted by えほんうるふ at 09:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

ロングセラーたる隠れた所以

雪わたり (福音館創作童話シリーズ)雪わたり (福音館創作童話シリーズ)
宮沢 賢治 / 堀内 誠一

福音館書店 1969-12-20

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「あなたはこれが何に見えますか?」
ネットであちこちのサイトを眺めていて、ふと目についたこんなバナーを思わず凝視してしまったことはないだろうか。
見るだけであなたの深層心理を診断します!的なその手の記事は意外と多く、大抵は「○○に見えたあなたはストレスを抱えています」などと書かれていて、ああそうなのね、知ってたよ・・・と苦笑いすることになる。
(※学術的には、錯視とストレスに相関があることは証明されていないそうです。)

さて今日の絵本、宮沢賢治の「雪わたり」は、ごくシンプルな物語だ。
雪国に暮らす幼い人間の子どもの兄妹が、雪原が凍み渡るよく晴れた冬の夜に、きつね小学校の幻燈会に招待され、その束の間の交流をそれぞれに曇りのない心で受け止め分かち合う。
幼い子どもがふとしたはずみで異世界を訪れ、何かを経験し、現実世界へ戻ってくる。
昔ながらの、童話のお手本のような美しい「往きて帰りし物語」である。

ただそれだけの、あっけなくも微笑ましいファンタジー。
それなのに。
心が洗われるとはこういうことだろうか。
とにかく、登場人物のすべてがあまりにも純粋で、愛おしいのだ。
凛として、自分とは異なる文化を持つ相手に敬意を持って接する姿。
まっすぐに相手の善意を信じ、それに感謝し、素直に喜びを表現する姿。
ページをめくる度に、すっかり汚れちまったオトナの私の心に、それらがいちいちズキズキと痛いほど染みるのである。
日頃、略語・造語だらけで壊滅的に乱れた日本語に晒されてすっかり鈍感になった言語脳もまた、賢治らしい、朴訥でまどろっこしいほどに丁寧な言葉遣いにキュンキュンしてしまう。
絵もまたしかり。
多くの画家の手によって作品化されている「雪わたり」の中でも、堀内誠一氏の画は私が思い描いた幼い兄妹といたいけな小狐たちのイメージそのもので、素晴らしさにため息が出る。

こういった作品をうっかり読んで、思わぬ反応に自分で驚くことがある。
自分の心が健康で実際の生活も楽しく充実しているような時なら、ああ可愛いね、美しいねとニコニコ笑って鑑賞できる。
ところが、現実世界のストレスやらなにやらで、自分で思っている以上に心が弱っているときなどは、果たしてそれが痛みなのか快感なのかよくわからないまま、気がつくと私も涙を流していたりするのだ。
まるで読むだけで自分の心の摩耗具合をチェックできるリトマス試験紙のようだ。

特に自分の場合は、その振れ幅次第でいきなり涙が止まらなくなったりするので、ある意味、地雷絵本とも言える。
案の定、今の私はけっこうギリギリなので、この絵本を人前で音読なんかするのは危険すぎる。
もちろん、安心して号泣読みができる相手の前で読むなら、それはそれでカタルシスを得られるわけで、使い方次第で心の健康管理にも役立つのはさすが名作。
というか、子どもたちにとって素直に共感できるうれしいお話というだけでなく、無意識にそんな隠れた効能を期待する大人たちにこそ繰り返し読まれてきたからこそ、今もその輝きを失わない不朽の名作なのではないかと、私は思う。


余談だが、この手の「イタイケなもの攻撃」にめっぽう弱い自分は、同系統の絵本を記事にする時いつも「切ない絵本」にするか「泣ける絵本」にするかカテゴリーを迷う。
迷った挙句の選定が現状なのだが、結局はどっちもどっちで、読んだ時の心理状態によってただ切なくなったり為す術もなく号泣したりしているのだ。
うーん、いっそカテゴリーを「切なくて泣ける絵本」に統合してしまおうか。
いやいや、それだと何故か急に陳腐でつまらない印象になる。
いや待てよ、よく考えたら「うっとりする絵本」でもあるし「うれしくなる絵本」でもあるし、間違いなく「身につまされる絵本」でもあるし、まして今日みたいな日に読むなら間違いなく「実用的な絵本」ではなかったか・・・?
そんな私の気まぐれのせいで、かつ一記事を複数カテゴリーに含められない仕様のせいで、我が「オトナノトモ」のカテゴリーは無駄に細かく分かれているのである。

とりあえず今回は「切ない絵本」カテゴリーにいれてみたので、同じ系統の絵本をお探しの読者の方は上記の別カテゴリーも是非ご参照いただきたい。


posted by えほんうるふ at 09:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 切ない絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

絶望転じて希望となす

ぜつぼうの濁点ぜつぼうの濁点
原田 宗典・作  柚木 沙弥郎・絵

教育画劇 2006-07

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4ヶ月前、ご縁あって前職とは全く違う業界の全く異なる業種に転職をすることになった。
そして今私は、はっきり言ってこれまでの仕事人生で一番の試練の時を過ごしている。
なんて言い方をするとものすごく大変そうだが、実はものすごく楽しい。
すごく楽しいが、問題は現状では限りなく収入がゼロに近いということだ。
こうなると、いかに仕事に対し自分のモチベーションを維持するかが、そのまんま日々のQOLを左右することを、シミジミと思い知る毎日である。
だから今日は、自分で今の自分を応援するための文章を書いてみようと思う。


今の私が仕事から得られる報酬は、職務上関わったお客様のお悩みを聞き、その気持ちに寄り添い未来に明るい展望を持って頂くことで、きっとその人のこの先の人生に何かしらの良い変化をもたらしているに違いないと思える、その自負と希望、それだけだ。
或いは、未経験の仕事をするにあたり、学ばなければならないことをタダで教えてもらっているという考え方もできる。確かに今、一期一会の出会いを重ねて学ばせていただいたいることは全て、お金に替えられない貴重な経験となっている。

もちろん、転職に先立っては自分の資質や今後のキャリアプランもよくよく考慮したつもりだ。
早くて半年、おそらくは1年で自己投資を黒字化でき、その後は運と頑張り次第で収入の大幅アップも見込める、という長期展望のもとに踏み切った決断だった。
実際、奉仕活動のつもりは全くないのだが、今現在のワークライフバランスとしては完全に収支が赤なので、現状はボランティアに近いのかも知れない。
それでも、うなだれて不安に満ちた表情だったお客様が、少しでも明るい表情を取り戻して帰る姿を見送る時、私のやっていることはきっと無駄ではない、きっと少なからず社会的に意義のあることに違いない、と思えるのだ。
その自尊感情こそ、今私がこの仕事から得られる最大のベネフィットかも知れない。


おっと、このブログって絵本のレビューブログじゃなかったっけ?

正直言ってこの数ヶ月、大好きな絵本についてゆっくり考える心の余裕は全く無かった。
面白いのは、忙しかったり何かに夢中になっていたりショックな事があったりして、ことさら絵本について考える余裕がない時ほど、私の心の中にはその時その時の実生活の状況に応じて勝手に一冊の絵本が浮かび上がる。
今回も、お題として選ぶまでもなかった。それしか思いつかなかったからだ。

「ぜつぼうの濁点」
ひらがなの国で、ぜつぼうの「せ」に仕えていた「゛」が、主人が常に絶望的なのは自分の存在のせいではないかと思い悩む。
自分さえいなければ、主人の「ぜつぼう」は「せつぼう」という悪くないことばでいられたのに。
思い余った「゛」は、主人に別れを告げ、一人孤独に彷徨い、やがて・・・

紆余曲折を経て「ぜつぼう」の濁点が「きぼう」の濁点に生まれ変わるまでを描いたこの作品は、プロットから言葉の言い回しまで、原田宗典氏ならではの日本語の懐の深さとややこしさを逆手に取った諧謔に満ちていて、まるで落語のように味わい深い。
読む度につい「山田くん、原田さんに座布団一枚。」と呟きたくなるのは私だけだろうか。


働けど働けど収入は微々たるもので、思わずぢっと手を見る・・そんな毎日を絶望と捉えるか。
確かに、あまりにも不甲斐ない日々が重なると、そんな気分になることもある。
それでもやっぱり、私はこの仕事が好きなのだ。
今日はどんな人と出会えるだろうか。どんな話が聴けるだろうか。誰を笑顔にできるだろうか。
結局はその楽しみのほうが上回り、いそいそと出勤し夢中で仕事をし、気がつけば9時10時。
そんな毎日は、決して不幸ではないと思える。
むしろ、家族の理解と協力を得てそれが許されている自分はものすごく幸せな人間だと思う。

仕事はお金のためと割り切ってやり過ごし、仕事以外に人生の楽しみを見出すか。
目に見える収入には直結せずとも、やりがいのある仕事に夢中になれる喜びを糧に過ごすか。
どちらを選ぶにしろ、本人が今を幸せと感じられるならば、そこに絶望はないはずだ。

全く稼げていないくせに、無駄に前向きで楽しそうな私を見て、上司や大先輩がおっしゃる。
「現状に対してのその姿勢・その心の持ちようこそが、この仕事に向いている証拠。きっといずれ大成するから心配ない。あなたは絶対大丈夫!」
これが希望でなくてなんであろう。やっぱり私は幸せだ。


posted by えほんうるふ at 09:11 | Comment(1) | TrackBack(0) | 声に出して読みたい絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

大騒動から何を学ぶか

クリスマスの大そうどう (児童図書館・絵本の部屋)クリスマスの大そうどう (児童図書館・絵本の部屋)
デイビッド シャノン David Shannon

評論社 2007-11

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クリスマスを前に、海の向こうの大国での大騒動に決着が付いた。
超大国故にその全世界の政治経済への影響は計り知れず、想定外過ぎて先が読めない不安も覚えた。
まさかの結末。だと私も思ったものの、紛れもなく、これが今の世界の現実である。
どうしてこうなったのか?を考えることも大事だろうが、それ以上に大事なのはこれからどうするか?だろう。
彼の国の偉い人々はその点、非常に現実的で、賢く行動力のある人もたくさんいるはずだ。
決して楽観視はできなくとも、この想定外な選挙結果がさらに我々が想像しえなかった(いい意味で)想定外な未来へつながることを願ってやまない。

さて、アメリカ・大騒動・クリスマスと来て、ふと思い出したのが本日の絵本。
何しろちょっと膨らませば、まんまハリウッドのクリスマス映画になりそうな、良くも悪くもアメリカ的なストーリーなのである。

クリスマスを前に、ちょっとした思いつきで家族を喜ばせようと、いつもより張り切って飾り付けにとりかかったメリウェザー家のお父さん。
ところが隣人からの思わぬ反応に突如対抗心に火をつけられてしまい、際限のないデコレーション熱に侵され、突っ走った行動に出てしまう。
最初は喜んだものの、次第に困惑する家族。
はじめは賞賛していたご近所さんたちも、何かスイッチが入ってしまったメリウェザー氏のとどまるところを知らぬ暴走ぶりに眉をひそめ、しまいには反目を募らせていく。
そして楽しいはずのクリスマスイブの夜、ついに悲劇が・・・

最初にこの絵本を読んだ時は、なんとなく違和感というか不快感が残った。
心温まるはずのクリスマス絵本なのに、読後に色々と考えてしまい妙に寒々とした気持ちにさせらてしまう、珍しい作品だ。
そもそも、ささやかでも不自由なく家族に囲まれ幸せな家庭を営んでいたはずの善人を絵に描いたような凡庸な主人公が、あまりにも簡単に隣人の挑発に乗り、理性を失ったような行動に出てしまうことが理解できなかった。
そして、その暴走を無責任に煽っていた隣人たちが、手のひらを返したように正義の名のもとに集団での暴挙に出るというのも、とても恐ろしく感じた。

しかし、今一度この絵本を思い出して読み返してみた時、彼の国で実際に起こったあの大騒動とこの絵本の登場人物たちの行動が、何となくリンクしているように思えて、なるほど興味深いと改めて思ったのだ。

おそらくメリウェザー家は決して富裕層ではなく、かといって貧困層でもなく、多くを望まなければ衣食住に困ることもなく平々凡々と生活を営んでいける程度のアメリカの中流家庭なのだろう。
でも、多分メリウェザー氏は実はそんな小市民的な生活に満足はしていなかったのだ。
もっと有名になりたい!人々から賞賛されたい!!という密かな野望が、彼の心の奥底には長年燻っていたのかもしれない。
だからこそ、ちょっとしたきっかけでそのどす黒い野望に火がついてしまったのだろう。
人より目立つセレブを目指して何が悪い。もはや品格や良識などクソ食らえ。
抑圧されていたメリウェザー氏の野望は、一度表に出た途端暴走する。
それはまるで、日頃は堅実な良識派を装っていても、心の奥底ではきらびやかな世界や俗っぽい成功への憧れを捨てきれず、大どんでん返しのような変化を夢見ずにはいられない多くのアメリカの一般市民が、その奥底の気持ちを抑えきれずに、分かりやすい扇動者の言葉に乗ってその一票を託してしまった、という構図にも通じるような気がするのだ。

それでも、この絵本には最後に希望が残されている。
この寛容さと不屈の精神もまた、彼の国の人々の素敵な特性であると私は思っている。
何より、この絵本に描かれているのは子どもではなく、大人の成長物語である。
いくつになっても、人は間違いを犯すし暴走もするだろうが、本人が変わろうと思えば変われないことはないはずなのだ。
そんなわけで、初見はあまり印象のよくなかったこの絵本を、私は改めて採り上げ多くの人に紹介したくなったのだった。

イブの夜、ドナルド・”スクルージ”・トランプの元に、亡霊マーロウが現れて、彼が突如改心して大国の長に相応しい善意あふれる人格者に生まれ変わる・・・
なーんてことはあり得ないにしても、クリスマスだもの。
物語めいた夢を持ったっていいだろう。

posted by えほんうるふ at 12:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大事なことを教わる絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

稼ぐこと、生きること

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ルイズ・アームストロング/ビル・バッソ

河出書房新社 2005-05-21

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なんだかんだで私のフリマ歴は30年ぐらいになるだろうか。
私が最初に個人間の不用品売買を利用したのは、高校時代にアメリカの南西部郊外の従兄弟の家に1年間居候していた時のことだった。
そこは砂漠地帯の町の中心をどーんとハイウェイが貫き、その道に沿って点在する住宅はそれぞれが数キロも離れているような土地で、買い物といえば、週末毎に郊外型の巨大なスーパーへ車で買い出しに行くのが恒例だった。しかしそうした巨大スーパーの品揃えはコストコのようになんでもでかくて大量で、とても居候の高校生が少ない小遣いでちまちまと買い物を楽しむような雰囲気ではなかったため、もっぱら私の楽しみは、行き帰りの道すがらに立ち寄る個人の住宅でのガレージセールだった。Garage SaleやらYard Saleやらの張り紙や看板を目を凝らして見つけては叔父に車を停めてもらい、アメリカの田舎の一般家庭が放出する日用雑貨や二束三文の中古服を喜々として買い漁った。在米時の私にとっては、驚くほどの安値で何でも手に入るガレージセールでの買い物が娯楽の少ない田舎生活の唯一の楽しみだったのだ。

ちょうどその頃から、日本でも民間団体によるフリーマーケットが各地で盛んに開催されるようになり、帰国した私は早速出店を申し込み、アメリカから持ち帰ったガラクタをばんばん売った。フリマ出店の為に買い付けていたわけではないが、チープな舶来雑貨が若者に受けていた時代でもあり、並べるそばからよく売れて、とても面白かった。

しかし、お店やさんごっこは楽しかったものの、フリマは出店準備も当日の作業もとても大変だった。一日仕事になるし、交通費や食費や手間暇を考えると大抵売上はチャラになってしまった。そんなこんなでだんだんと面倒になり、さらに仕事やら結婚やらでしばらくフリマから遠ざかった。

そして気がつくと世間はネットオークション大流行。煩雑な会場型フリマをやっていた者にとっては、手元のパソコンでほぼ全ての作業が完了するなんて夢のように楽に思え、これまた早速参入。それまでの対面販売と全く同じくつもりで丁寧な対応をこころがけ、評価は4桁にまでなった。

そうこうするうちに我が子らも小学生になり、本人達に部屋の片付けなどをさせる度に、大量の「要らないもの」が出るようになった。
そんなある日、長女が学校でもらってきたのが「キッズフリーマーケット出店者募集」のチラシ。売り手も買い手も子どもに限定され、運営側がその手順をかなり丁寧に指導してくれるので、本物のお買い物ごっこを経験させるには丁度いい。早速子供たちは友達と一緒に出店に応募して、準備にとりかかった。

どうやったら売れるか。
どんな事態が想定されるか。
子どもなりにあれこれ考え工夫をしているのを見て、ふと私が思い出したのが今日の絵本だった。

「レモンをお金にかえる法」はアメリカで発行され1982年に邦訳版が刊行された「経済の絵本」だ。確か最初に私がこの本を手にしたのも小学生の頃で、親がやっている商売の流れもこんなものかと、膝を打つ思いで繰り返し読んだものだった。
思えばあのアメリカの片田舎でのガレージセールでも、その家の子どもが片隅に自分のコーナーを作り、私物に値段をつけて並べていたりしたものだった。彼らがそのお店屋さんごっこを、この絵本に描かれたような発展性のある事業として捉えていたとは到底思えないが、なるほど店構えというか雰囲気はまさにこんな感じだった。

さて、我が家の子供たちのフリマ初出店の顛末は・・。
お店屋さんごっこ自体は大いに楽しんだようだったが、面倒な準備と当日の大騒ぎを経てようやく得られた利益のあまりの少なさに呆然としていたように思う(笑)
たった数百円の純利益を得るのがいかに大変か!
それを思い知っただけでも充分だと母はほくそ笑んだ。

今となっては、長女はフリマアプリなどを使いこなし、もっと手軽に不要になった私物を現金化しているようだ。それでも、あの泥臭く面倒な手売りの現実を経験したことで、たとえ相手の姿が見えなくても、あくまでもそれは生身の人間相手の取引であり、単なるネットを介したモノとカネの交換ではないことを認識し易いのではと思う。

私より上の世代の親たち、特に経済的に恵まれた層の人々にとっては、子どもがお金のことで知恵を絞るなんて浅ましい、卑しいという考え方も根強いようだ。しかし、好むと好まざるとに関わらず、資本主義社会に生まれて生きていく以上は、経済に対し受け身ではいられない場面に度々直面する。ただ親に小遣いをもらってそれを消費するだけでは、絶対に身につかない智恵と行動力が必要になってくる。渡る世間の世知辛さは大人になれば嫌でも思い知るので、無邪気な子どものうちにこそ、お金について考え、自ら行動する面白さを経験しておくのも悪くなかろう。

参考リンク:キッズフリーマーケット公式サイト

posted by えほんうるふ at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 実用的な絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする